坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年9月16日 慶老礼拝説教 「目標を目指して」

聖書  フィリピの信徒への手紙3章12〜16節
説教者 山岡 創牧師 


3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。



          「目標を目指して」
 “終活”という言葉を、ほとんどの方がご存じと思います。就職活動ではありません。“人生の終わりについて考える活動”を略した造語です。2009年に終活に関する本が出版されたことをきっかけに広がり始め、2011年には映画『エンディング・ノート』が公開されたり、2012年には流行語大賞にも選ばれたりしました。
 先日も、〈相棒〉という刑事ドラマを見ておりましたら、終活という言葉が出て来ました。水谷豊演じる刑事・杉下右京が、事件関係者の家を訪ねると、一人の年配の男性がたくさんの本を紐でくくっていました。“おやっ、お引っ越しですか?”と杉下刑事が尋ねると、“いえいえ、終活ですよ”とその男性は答えました。自分の人生の終わりを考えて、本を整理し、捨てようとしていたのです。皆さんの中にも同じように、本を捨てるなり、譲るなりして、終活を考えている方がおられるのではないでしょうか?
 終活とは、人生の終わりを考慮して、例えば、“これまでの人生を振り返る”“残される家族のことを考える”“友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる” “やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す”といったことで、残りの人生において、できること・できないことの整理がつき、家族への負担も減らせると言われています。
 具体的な活動としては、主に次の3つだそうです。一つは、エンディング・ノートを書くこと。書く内容は、自分のプロフィールや自分史、現在の健康状態、告知や延命措置をどうするか、また葬儀とお墓についての希望などです。二つ目は遺言書を書くこと。これは、自分の死後、残された家族にトラブルが起こらないように、財産の相続人と分配を明確にしておくことです。そして、三つ目はお墓を決めることです。自分の埋葬先を準備しておくことです。
 以前にこの教会で信仰生活を共にした隠退牧師のA.T先生が、自分が天に召されたら、自分が会堂建築に携わった坂城栄光教会のロータリーにある教会墓地に入れてもらう用意ができている、もう墓石に名前も彫ってあると、ニコニコしながら語っていました。皆さんも、既に何かしらの活動を始めている方もおられるでしょう。

 ところで、私が調べていた終活についてのホームページの中に、終活のメリットの一つとして、次のようなことが書かれていました。
 2つ目(のメリット)は、残された老後生活が充実することです。死を人生のゴールとするなら、先行きが曖昧(あいまい)なゴールより、ある程度自身で把握できた方が、残りの時間を有効に活用できるでしょう。
なるほど、と思いながら、しかし何かが引っ掛かりました。何に引っ掛かったのか?それは、“死を人生のゴールとするなら”という言葉でした。死は人生のゴールなのか?命の終わりという意味では間違いではありませんし、人生観、死生観によっても違って来ます。けれども、キリスト教信仰を持つ身からすると、死の捉え方が全く違うのです。
 讃美歌21・575番に“いのちの終わりは、いのちの始め”という歌詞があります。私たちは、死を、人生のゴールではなく、むしろ新しい命の始まり、スタートと考えるのです。天にある新しい世界、イエス・キリストの御国(みくに)に召し入れられて、永遠の命を生き始めると信じるのです。それが私たちにとってのゴール、目標です。人生が死で終わると考えたら、そこには大きな不安や恐れの気持が湧いて来るのではないでしょうか。けれども、私たちの信仰においては、人生は死で終わるのではなく、それは通過点であり、その先にある新しい命を生きるのです。そこに私たちの希望があります。
 そういう意味で、クリスチャンにとっての終活とは何か?最も重要な終活とは何でしょうか?それは、人生の「目標」を見定めるということ、すなわち「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」(14節)を見定めるということです。天の御国、永遠の命という賞と見定め、それを得ることを目標として信仰を深める具体的な生活をする。「目標を目指してひたすら走る」(14節)ような生活を送る。それが、クリスチャンにとっての終活ではないでしょうか。

 フィリピの信徒への手紙は、パウロという人が書きました。パウロは、「既に完全な者になっている」(12節)と思っている人の信仰の考え方を、違うと考えていました。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」(12節)。
当時のクリスチャンの中には、自分はもう既に信仰のゴールに達している、「キリストとその復活の力」(10節)を、天の御国を、永遠の命を手に入れていると考えている人々がいました。そういう意味で「完全な者」になっている。既に目標を達成しているから、目標を目指す必要はないと考えたのです。そうすると、それらの人々の信仰の意識は薄れ、救いの恵みに対する感謝の思いは曖昧になり、生活の中で愛と謙遜は失われていきました。ともすれば、信仰を持つ以前よりも自分勝手な生活になった人もいたようです。
けれども、パウロは、まだ手に入れておらず、完全な者になってはいないと考えていました。「何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)と語りました。
 教会に、洗礼という制度があります。神さまと救いの契約を結ぶ儀式です。この洗礼を、信仰のゴールだと考える人がいると聞いたことがあります。洗礼を受けるまでは、熱心に信仰生活、教会生活をするけれど、洗礼を受けた途端、教会に来なくなる人がいるというのです。たぶん洗礼を信仰の“免許証”“ライセンス”のように考えているのでしょう。免許証を取ったから、もう教習所に行く必要はない、という考えなのでしょう。
 確かに、その考えが丸っきり間違いだとは思いません。と言うのは、一度取ったライセンスは決して無効にはならないからです。
パウロは、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)と言いました。こちらが完全に捕らえていなくても、キリストの方で、神さまの方で、私たちを完全に捕らえていてくださるのです。
宗教信仰のタイプには、“サル型”と“ネコ型”があると言われます。サルの赤ちゃんは、移動する時、母ザルのお腹にしがみつきます。他方、ネコの赤ちゃんは、母ネコにくわえられて運ばれます。サルの赤ちゃんは、ひっしにしがみついていないと落っこちてしまいますが、ネコの赤ちゃんは、手足をバタバタと動かそうとジッとしていようと関係ありません。くわえられていることにお任せです。「捕えられている」とは、つまり後者、神さまにくわえられて、運ばれているようなものです。
 キリスト教の救いは、私たちの行いには関係がない、行いが救いの条件ではないと言われます。私たちが何かができなくても、信仰の奥義を分かっていなくても、神さまは私たちを愛してくださるのです。愛の御手(みて)で捕えていてくださいます。天の御国、永遠の命という目標へと運んでくださいます。それが「捕らえられている」ということです。そして、神の愛に捕らえられている自分だと信じて認めたことを形に表したものが、洗礼です。そういう意味で言えば、私たちは確かに、信仰のライセンス、“あなたは確かにキリストに捕らえられ、神に愛されています”という保証書を手に入れたのです。
 けれども、自動車の免許証であれば、更新もありますし、何より運転していなければ腕が鈍ります。そのまま何年も運転しなければ、終いには運転ができなくなります。運転を忘れてしまいます。皆さんの中にも“わたし、ペーパー・ドライバーです”という方もいることでしょう。そうならないために、私たちは運転をすることで、免許証の資格ではなく、その実質的な中身を保ち続けるのです。
 自動車の運転はともかくとしても、信仰がペーパー・ドライバーになってしまったら残念なことです。せっかく洗礼を受けたのに、その人は、キリストに愛されている、神さまに救われているという実感、喜びや感謝の思いを持つことができません。だから、私たちは信仰生活というドライブを続けるのです。
 洗礼を受け、信仰生活を始めるということも、自動車の運転と似たようなものではないでしょうか。キリスト・イエスによって捕らえられているのです。愛されているのです。天国と永遠の命を約束されているのです。それを保証する洗礼というライセンス、天国のチケットを手に入れたのです。それは決して無効にはなりません。
 けれども、私たちは、この世の生活の中で、この救いの恵みを見失いそうになることがあります。この世の価値観や人間関係の中で、不安になり、疑い、迷い、キリスト・イエスの言葉にとどまっていられなくなりそうになることがあります。神の愛を忘れそうになることがあります。「完全な者」にはなっていないのです。
 だから、私たちは「何とかして捕らえようと努めている」のです。そのために、信仰生活という運転を続けるのです。運転することをやめず、目標を目指して走り続けるのです。
 先週の礼拝説教で、“本当の弟子”というお話をしました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8章31節)と主イエスは言われました。主イエスの言葉にとどまる者は、神に愛されているという「真理」を知り、真理は私たちを、何物にも縛られず、この世の価値観や慣習、人間関係や比較から自由にするのです。けれども、常に主イエスの言葉にとどまり、真理を会得し、自由に振舞い続けることができるか。それはほとんど不可能です。私たちは、不安や疑い、迷いに陥るのです。
 それならば、私たちは“本当の弟子”ではないのでしょうか?そうではありません。木曜日の聖書と祈りの会で、礼拝の御言葉と説教をフィードバックして、出席者の人たちと分かち合いをした際に、本当の弟子とは、常に変わらず主イエスの言葉にとどまり続け、真理によって自由を味わい続けているパーフェクトな信仰の持ち主を言うのではなく、本当の弟子になりたいと願って信仰生活を歩み続けている人のこと、疑い迷い、不自由に陥ることがあっても、その度に真理に立ち帰り、自由と平安を取り戻す人だとお話しました。
 私たちは、信仰の道において既に捕らえたとか、既に完全な者になっている、とは言えません。信仰生活は、キリスト・イエスの愛に捕らえられている恵みを信じ、その恵みを捕らえようと信仰の道を歩み続けること、信仰の恵みに立ち帰り続けることなのです。そのように考え、そのように信仰生活を歩み続ける人こそ、パウロが15節で言っている「完全な者」なのです。

 既に天の御国に召され、永遠の命を楽しんでいるであろう、聖路加国際病院の理事長であった日野原重明氏は、歩いたというよりは、パウロのように、まさに“走った”と言えるようなご生涯を生きた方だと言ってよいでしょう。その日野原先生が、“老いとは、衰弱することではなく、成熟することです”と言われました。聖書もまた、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます」(?コリント4章16節)と語っています。確かに体力は衰えていきますが、信仰生活の年月を積み重ねることによって、生かされている恵みを御言葉から感じ取る霊性は高まり、信仰は成熟していくのです。神さまが自分を「上へ召して」、天の御国と永遠の命を用意してくださっている約束を信じる信仰は確かなものになっていくのです。目標を目指して、信仰の道を歩み続けましょう。「走る」と言えるほどに、キリスト・イエスに向かって、真っすぐでありたいと願います。



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