坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年9月23日 主日礼拝説教 「自分勝手」

聖書  ヨハネによる福音書8章39〜47節
説教者 山岡 創牧師 


8:39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
8:42 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
8:47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」



          「自分勝手」
 姦淫(かんいん)の現行犯でつかまった女性をどのように扱うか。モーセの律法では石打ちの刑だが、「あなたはどうお考えになりますか」(8章5節)。8章の冒頭でユダヤ人たちがそのように主イエスに問いかけたことから、主イエスとユダヤ人たちの問答が始まりました。その問答は8章全体に渡っています。今日読んだ聖書箇所も、この問答の途中経過です。
 そして、8章におけるキーワードの一つは、「父」という言葉です。直前の聖書箇所の最後にある38節に、「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」と書かれていました。主イエスは、神を「わたしの父」と呼びました。ヨハネによる福音書の中で一貫してそう呼んでいます。天地を創造された神、神の言葉である律法をお与えになった神、この世で唯一の神です。主イエスの言葉と行動の源は神です。
それに対して、ユダヤ人の行いの源となっている “ユダヤ人たちの父”とは、文字通り自分の“父親”のことです。もしくは、ユダヤ人たちの先祖を指しています。
ここから、「父」をめぐる主イエスとユダヤ人たちの問答が始まります。自分の父はだれか?これは、自分の信仰、自分のルーツ、自分のアイデンティティ、つまり自分は何者なのかを確認するための重大なテーマなのです。自分はだれに属し、何に根ざして生きているか、という大切な問いかけです。そして、この問題は結局、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(47節)という答えに行き着くのです。


主イエスの言葉に対して、ユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムです」(39節)と答えました。自分たちのルーツはアブラハムだと言うのです。
アブラハムは、旧約聖書・創世記12章以下に登場する人物で、“神の民”と呼ばれるユダヤ民族のルーツです。神さまの思いに反して、人の罪に満ちている世界の中で、アブラハムは神さまに選ばれます。罪と偶像に満ちた生まれ故郷を離れ、新しい土地に旅立て。わたしに従って生きよ。わたしはあなたを、この世界の中で祝福のモデルとする。この神の言葉に従って、アブラハムは旅立ち、カナンの土地に住み着き、疑いや迷い、失敗もありましたが、神の言葉に立ち帰り、神の言葉を拠り所として生きたのです。
ユダヤ人が、「わたしの父はアブラハムです」と言う時、自分たちは神に選ばれた民族だ、この世で神さまに祝福される人間だ、その約束を受け継いでいる、という誇りを語っているのです。
 ところが、主イエスは、あなたたちはアブラハムと違うじゃないか、やっていることが違うじゃないか、とその矛盾を鋭く指摘します。その違いは特に、殺意に現れている。神の言葉、神の真理を語る者を殺そうとする殺意に現れていると主イエスは言うのです。
 ある時、アブラハムのもとに、神の使者が訪れました(創世記18章)。アブラハムは3人の使者を迎えて、もてなしました。彼らは、アブラハムに、来年の今ごろ、あなたには子どもが与えられると神の言葉を告げました。アブラハムは、子どもが与えられることを強く望んでいましたが、なかなか生まれず、既に高齢になっていました。けれども、アブラハムは、その神の言葉を信じました。その言葉を疑い、否定しようとする思いも湧いて来ますが、しかしアブラハムはそんな自分を悔い改めて、神の言葉を信じて生きるのです。
 他方、アブラハムをルーツとするユダヤ人の先祖たちはどうだったでしょう?彼らは、しばしば神の言葉、神の御心(みこころ)に背いて罪を犯しました。自分たちの欲望を満たそうと行動し、しばしば異教の神を拝みました。その度に、神さまは、彼らのもとに預言者を何度も遣わし、悔い改めを求めましたが、彼らはその言葉を聞かず、邪魔者として預言者たちを殺し続けて来たのです。
真理は、真実は、時に耳に痛い。煙たい。自分の意に反して、不利益をもたらします。悔い改めを迫ります。だから、人は、真理を抹殺したくなるのです。正直にならず嘘をつき、自分を隠そうとする。隠すために、自分の姿を明るみに出す真理を消し去りたくなるのです。まっすぐに生きるためには、自分が損をしても、それを厭(いと)わない勇気が必要なのです。
 主イエスを殺そうとしているユダヤ人たちは、どちらの業(わざ)を受け継いでいるでしょうか?「アブラハムと同じ業」(39節)でしょうか?それとも「自分の父と同じ業」(41節)でしょうか?明らかに、「自分の父と同じ業」を、自分の先祖たちと同じ業を行っていると主イエスは語ります。人殺しの業を行っている。自分の欲望を満たし、そのために嘘をつき、自分を覆い隠す業を行っていると言うのです。それは言わば“悪魔の業”です。


そのように反論されたユダヤ人たちは、慌てて最後の“切り札”を出します。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(41節)と。自分たちは、そのような先祖の罪、悪行を受け継いでいるのではない。先祖たちは、神の言葉を正しく聞かなかったのだ。私たちはそうではない。その思いを、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(41節)という言葉が表わしています。
 けれども、主イエスは語ります。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。‥‥なぜなら、わたしは神のもとから来た(からである)。‥‥自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになった(から)である」(42節)と。
 主イエスが神のもとから来たこと、神がお遣わしになったことは、何によって分かるでしょう?それは、主イエスが語る言葉が、神の御心に適っているかどうか、一致しているかどうかで分かります。
 旧約聖書・創世記のはじめに、神が天地を創造され、ご自分にかたどって人間をお造りになって、この世界の管理者とされたことが記されています。その世界は、お造りになった神さまご自身の目から見ても、極めて良くできた世界でした(1章31節)。そして、神さまは、最初の人間に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)と人を祝福されました。
 人が生まれ、増え、地に満ちて地を治める世界とは、平和な世界です。神さまの愛が満ちあふれる世界です。神さまの御心に沿って、人と人とが互いに愛し合う世界だと言うことができるでしょう。だから、主イエスは、神の言葉である旧約聖書、律法から、神さまの御心は、人が神の愛の下で、神に従い、隣人を愛することだ、互いに愛し合うことだ、愛によって平和な世界を実現することだと主イエスは語るのです。この神さまの御心を実行しようとなさるのです。

 ところが、天地創造の後で、罪と悪が入り込みます。最初の人アダムとエヴァがエデンの園で暮らしていると、そこに蛇が現れ、エヴァを誘惑します。この蛇は悪魔と同類です。蛇(悪魔)は語りかけます。禁断の木の実は食べてもだいじょうぶだ、神のように賢くなれる、と。それで、神に禁じられていた木の実をエヴァが食べ、さらにアダムが食べてしまいます。すると、二人は目が開け、自分の罪が見えるようになりました。そこで二人は自分を偽り、神さまから隠れ、見つかると、男は女に責任転嫁し、女はへびに転嫁して責任を逃れようとしました(創世記3章)。
愛と平和の世界にひびが入りました。不信頼と不和が生じました。相手に対する不信頼と不和は、相手を“邪魔者”と感じ、終いには“敵”と見なすようになります。邪魔者は要らない、敵は排除しなければ、という思いに至ります。それは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた神さまの御心に反するのです。そして、この思いは、アダムのエヴァの子どもの世代、カインとアベルの兄弟の間で、遂に「人殺し」という現実となってしまうのです。
嘘偽り、不信頼、不和、そして人殺し‥‥これは、悪魔の「本姓」(44節)です。ユダヤ人が、律法を守ることができない徴税人(ちょうぜいにん)や遊女、病気や障がいを負った人を“邪魔者”として排除しようとし、律法の中から神の御心を汲み取って、真理を語り、実行しようとする主イエスの言葉を聞かず、“敵”と見なして殺そうとする。それは、神を父とする人、「神に属する者」の行いではありません。
だから、主イエスは彼らにはっきりと言います。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと願っている」(44節)と。真理に従って神を愛し、人を愛するのではなく、我(が)を通すために自分の欲望、願望、考えに従っていると。だから、あなたたちは「神に属していない」と言うのです。
厳しい言葉です。否定したくなるような、逆に相手(主イエス)を責め、非難したくなるような言葉です。けれども、この主イエスの言葉は、当時のユダヤ人だけに語られたものとして片づけることはできないでしょう。現代のクリスチャンである私たちにも向けられた言葉として、聞かなければなりません。主イエスの言葉を殺さずに、心を開いて、痛みを感じても、聞くことが求められています。


 私たちの「父」はだれか?神でしょうか?それとも悪魔でしょうか?私は、択一的に、私の父は神だ、自分は神にのみ属している、とは言えないと思います。
 ワームウッド君。きみの担当の男の、母親との関係について聞かせてもらって大いに喜んでいる。‥‥‥きみとしては先手を打っておくことに越したことはないだろう。母親を受け持っているグラボーズと緊密に連絡を取り合って二人で共同戦線を張り、やつらの家庭のうちに憤懣とか、こすからいいやがらせを日常化させたまえ。‥‥
(『悪魔の手紙』25頁)
 これは、『ナルニア国物語』で知られたC.S.ルイスという作家が書いた『悪魔の手紙』という著書のひとくだりです。スクールテイプという悪魔の叔父(おじ)から、やはり悪魔である甥(おい)のワームウッドに送られた手紙です。叔父は甥に、自分が担当している人間を不信頼と不和に陥らせ、ついには人殺しへと誘惑するためのアドバイスをしているのです。そんな内容の手紙が、順番に30通もつづられている内容の本です。
 人には悪魔がついている。聖書はそのように考えています。もちろん、悪魔というのは実在する存在だとは思いません。人の心の中に巣食っている欲望、自分勝手の象徴だと思います。そして、その欲望、自分勝手に飲まれると、人は悪へと誘われます。それに対抗して、神が私たちの心に働きかけます。神の言葉が、真理が、私たちの内に愛と誠実を生み出し、私たちを平和へと導くのです。福音書の中に、主イエスが荒れ野で悪魔と対決したシーンがありますが、あれは主イエスだけの心の風景ではありません。あの神と悪魔の闘いのシーンが、私たちの心の中でも繰り広げられていると言うことができるでしょう。
 悪魔の誘いに抵抗して、神に属する人として生きていきたいと願います。主イエスの言葉を聞き、主イエスの言葉にとどまって、聖霊(せいれい)に助けられ、愛と真理を胸に、勇気を胸に歩んでいきましょう。神を父とする信仰の道がそこにあります。



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