坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年10月7日 主日礼拝説教 「神を示した者」

聖書  ヨハネによる福音書8章48〜59節
説教者 山岡 創牧師 


8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
8:49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
8:54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
8:56 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
8:57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。



          「神を示した者」
 バタンッ!もし、今こうして私たちが礼拝を守っている時に、大きな音がして教会の玄関のドアが開いたら、たぶん私たちは後ろを振り向くでしょう。想像してみてください。そこに一人の人が立っています。その人は、つかつかと礼拝堂に入って来て、真ん中に立ちます。そして、私たちを見まわして、“自分は神から啓示を受けました。私の言葉を聞いて信じる人は、決して死にません。私にはその力があります。なぜなら、私はこの世の初めから神と共にあったからです!”‥‥と叫んだとしたら、私たちはどう思うでしょうか?
 唖然として、その人を見るでしょう。そして、この人は精神に異常を来している人だな、と思うでしょう。牧師である私は、どうやってこの人を落ち着かせたらいいか、どうやって穏やかにお帰りいただいて、礼拝を続けようかと考えるでしょう。もしかしたら別室で、その人の話を聞くことになるかも知れませんし、場合によっては警察か救急車を呼ぶことになるかも知れません。
 今日読んだ聖書箇所で、主イエスとユダヤ人たちの間に起こっている出来事は、今、私がお話したようなことではないでしょうか。私たちは、聖書を通して、落ち着いてこの光景に接していますけれども、2千年前の当事者であったユダヤ人たちの目で見れば、そういうことが起こっていたのだと私は思うのです。目の前にいるのは、精神に異常を来している人間なのです。その状態を、当時のユダヤ人の表現で言えば、「悪霊に取りつかれている」(48節)ということなのです。ユダヤ人からすれば、主イエスの言っていることはおかしいのです。

 今日の聖書箇所での主イエスとユダヤ人たちの問答を黙想していて、私は、ユダヤ人の言っていることの方がもっともだと共感してしまうところがあります。イエス様の言っていることの方が無理がある、言葉が足りない、と思ってしまうのです。
まず主イエスは、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(51節)と言われました。
 そう言われても、その言葉だけで、信じろ、と言われても無理だよ。「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」(53節)とユダヤ人が言うのも、もっともだと思うのです。
現代人である私たちも、人間は必ず死ぬことを知っています。「死ぬことがない」ということは、あり得ないのです。「死ぬことがない」というのは、この世で永久に生きるという意味ではない。この世での命は一度終わるけれど、主イエスの言葉を聞いて信じる人は、その後、永遠の命をいただいて、天にある神の国で、新たに生きるという意味だ。そう言わなければ、ユダヤ人だって、私たちだって分からないよ。‥‥イエス様に、そのようにモノ申したくなるのです。
 次に、無理だと思うのは、56節の言葉です。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。
 前にもお話したように、アブラハムという人物は、ユダヤ人の先祖です。民族のルーツです。学問的には、紀元前1800年〜2000年あたりの人ではないかと推測されたりします。イエス様も血筋で言えば、ユダヤ人の一人であるわけです。
 だから、アブラハムが、主イエスの日を、その姿を見るためには、アブラハムが数千年生きているか、反対に、主イエスが数千年生きているのでなければあり得ません。だから、常識的に考えれば、主イエスの言っていることは理解不能です。「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」(57節)とユダヤ人が言うのも、もっともなのです。
 すると、主イエスはお答えになりました。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(58節)。
 なるほど、イエス様が、アブラハムよりも以前に、この世界が造られる前から存在しているのであれば、アブラハムを見たというのも、理屈の上では頷(うなず)ける。そういうイエス様が、この世に人間として現れてくださって、その姿を、今度はアブラハムが、神の世界から見たのだと言うのであれば、アブラハムが「それを見て、喜んだ」というのも理解できなくもない。要するに、主イエスが言いたいのは、ご自分の教えと生き方が、神さまに祝福のルーツとして選ばれたアブラハムの目に適っているということ、否、アブラハムを選んだ神の御心(もこころ)に適った、神に喜ばれる生き方だということでしょう。でも、やはり言葉が足りないのです。何だか理解や納得をさせようとは思っていないかのような口ぶりのように感じられます。

 ところで、主イエスがアブラハムよりも以前から、この世界が造られる以前から存在していることは、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)が、いちばん最初に主張した内容です。ヨハネ福音書1章を思い出して(開いてみて)ください。天地が造られる前に、初めに「言(ことば)」があった。「言」は神と共にあった。「言」は神であった。天地は、この「言」によって造られた。やがて、「言」は人間となってこの世においでになった。それが、イエス・キリストである。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた‥‥‥いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章17〜18節)。ヨハネ福音書は、イエスとはそういう存在だ、そういうお方だと最初から主張しているのです。神と等しいお方だ、独り子である神だと伝えようとしているのです。
 その主張が、ヨハネ福音書8章という中盤の山場で、主イエスの口を通して語られている、と言うことができます。「わたしはある」という言葉は、以前の説教で、神ご自身の自己紹介の言葉だとお話しました。「わたしはある」と言うことは、主イエスが自分のことを神だと語っているということなのです。
ただし、ユダヤ人は、人間が自分のことを神と等しい者とすることを、神に対する最大の冒涜(ぼうとく)として許しません。神に遣わされた預言者だと言うのなら分かる。救世主メシアだと言うのなら分かる。けれども、神だと言われたら、納得できない。許せない。人間は決して神にはなれないし、神が人間になることなどあり得ない、というのがユダヤ人の確たる信仰なのです。
けれども、私たちは、主イエスを、神が人となってこの世に来てくださったお方だ、独り子なる神だと信じます。そこに、キリスト教信仰とユダヤ教信仰の決定的な違いがあります。

 ところで、皆さん、キリスト教というものがいつから始まったかご存知ですか?。ペンテコステの日でしょうか?使徒言行録2章によれば、その日、ペトロら弟子たちに聖霊(せいれい)が降り、力と言葉を受けた弟子たちがイエス・キリストによる救いを宣べ伝えます。そして、その言葉(福音)を信じて洗礼を受けた3千人の人々と弟子たちとで最初の教会が生まれたのがペンテコステです。この日を、キリスト教の始まりと思っている方が多いかも知れません。けれども、キリスト教が独立した宗教として認められるようになるのは、もう少し後の時代です。
 それまで、イエスを救い主メシア(=キリスト)と信じる信仰は、ユダヤ教の一派として、ファリサイ派やサドカイ派等と同じように“ユダヤ教キリスト派”として見られていたようです。ところが、この信仰を信じる者が増え、教会が広がり、年月を経て、信仰の内容が整うにつれて、教会の信仰とユダヤ教信仰の違いがはっきりしてきました。行いによって救われるか、信仰によって救われるかが、当初からの大きな対立点でした。そして、決定的な違いとなったのが、イエスを神と、独り子なる神と信じるか否か、でした。
やがてユダヤ教側は、イエスを神と信じる信仰を、自分たちの教えと信仰と違うものとして、教会はユダヤ教ではないと宣言しました。すると、教会の中で、特にユダヤ人クリスチャンに動揺が広がりました。教会にとどまるか、教会を離れユダヤ教に戻るか、という選択を突き付けられ、その結果、教会から離れる人がたくさん起こりました。
 実は、ヨハネによる福音書は、その時代を背景にして書かれています。主イエスは神だと信じる自分たちの信仰を主張して、ユダヤ教徒の違いをはっきりさせているのです。その上で、主イエスを信じ、教会にとどまれと呼びかけているのです。
今日の聖書箇所で、主イエスの言葉がはっきりしていて、断定的で、対立的なのは、そのためです。そういう意味では、今日の聖書箇所における主イエスの言葉は、主イエス本人のオリジナルな言葉と言うよりは、ヨハネの教会が、主イエスは神だとする信仰に立って、主イエスの言葉に脚色した言葉だと私は思います。
けれども、それは決して“フィクション”ではありません。フィクションとは大きく意味が違います。主イエスと出会った人が、主イエスを通して“神”と出会ったヨハネの教会の信徒たちが、自分の人生をかけて、命を懸けて告白し、伝えようとした信仰の言葉なのです。

 主イエスは、神を示された独り子である神である。キリスト教信仰の独自性(特徴)はそこにあります。大切なことは、それを言われるまま鵜呑みにすることではなく、理屈を超えたところで実感し、納得して信じることです。そう、トマスのように。
 ヨハネによる福音書の最後の山場は、弟子のトマスの信仰告白です。イエスに向かって、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)と告白するのです。
 このシーンは、主イエスの復活物語の一つです。主イエスが復活して、弟子たちに現れてくださった時、あいにくトマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と喜んでいるのに、トマスは、自分は信じないと言い張りました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と、とんでもない暴言を吐き、啖呵(たんか)を切ってしまったのです。
 どうしてトマスは、皆の言うことを信じず、こんなことを言ってしまったのでしょうか?トマスが疑い深い人だったからでしょうか?目で見て、触って確かめなければ信じない人だったからでしょうか?私はそうだとは思いません。トマスは、寂しかったのです。他の弟子たちが皆、復活した主イエスに出会って喜んでいるのに、自分一人だけがその喜びの輪の中に入れず、疎外感を感じたのです。どうして主は自分一人だけがいない時に現れたのか‥‥そんな恨みを主イエスに抱いたかも知れません。その寂しさから依怙地になり、信じないと言ってしまったのです。後でトマス自身、とんでもないことを言ってしまったと後悔したでしょう。けれども、もう後には引けなかったのでしょう。
そんなトマスのもとに、主イエスは来てくださいました。そしてトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。‥‥‥信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語りかけてくださったのです。
 依怙地になり、暴言を吐き、主イエスを恨んだトマスは、何も責めず、そんな自分の気持と言い分を受け止めてくださった主イエスに、深い愛と赦しを感じたのです。その愛と赦しに“神”を感じたのです。自分一人のために、主はもう一度来て、語りかけてくださった!その感動が、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白となってほとばしりました。それは理屈ではありません。主イエスに神を感じたのです。主イエスの背後に神を実感したのです。
 長崎の中学生たちが、自分の存在の意味に苦悩し、反社会的な行動に走り、最後にたどり着いた教会で、〈きみは愛されるために生まれた〉という韓国のゴスペル・ソングを聞いて、涙を流し、生きる喜びを取り戻したという話は、知っている方もいると思います。彼らは、この歌を、喜びを口づてに人に伝え、やがてこの歌は長崎の町のシンボル・ソングになったそうです。少年たちは、この歌を、この言葉を通して、主イエスと出会い、神と出会ったのでしょう。
 “神”との出会いは理屈ではありません。私たちも、理屈を超えて、主イエスが指し示した愛を感じたい。愛こそが、この世の真理であることに感動したい。そして、主イエスに神を感じさせていただきたい。その時、私たちは心から、主イエスを「わたしの神」と、神を示された独り子である神だと信じて、喜びの人生を歩むことができるようになるでしょう。



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