坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年10月21日 信徒証し礼拝説教「人間をとる漁師」

聖書  マルコによる福音書1章16〜20節
説教者 山岡 創牧師 


1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。



          「人間をとる漁師」
                 〜 人間、とってますか? 〜
 先週15日(月)〜16日(火)、関東教区の牧師研修会が行われました。会場は茨城県鉾田市にある、いこいの村・涸沼(ひぬま)という施設でした。その名のとおり、目の前に涸沼という沼が広がっていました。大洗海岸が近く、淡水と海水の入り混じった広い沼でした。
 私は、知らない場所に行くと、朝、早起きして、散歩かジョギングをします。知らない場所や街を散策するのが好きだからです。今回も涸沼の沿岸沿いに遊歩道があるに違いないと思って行きましたら、予想通り遊歩道が続いていました。天気もよく、翌朝、早起きをして40分ほど湖岸を気持ち良くジョギングしました。そして、施設自慢の涸沼を一望できる展望温泉で汗を流していた時のことです。ふと沼の方に目をやると、湖岸の船着場から10艘を越える舟が出てまいりまして、何やら竿のような長い棒を沼の底に突き立てるようにして漁を始めました。私は、何を取っているのか、とても気になりまして、朝食の前にもう一度、遊歩道に出て、その様子を見に行きました。岸からそう遠くない、10mから、せいぜい50mぐらいの場所で漁をしています。岸に地元のおばちゃんがいたので、“何を取っているのですか?”と聞くと、“シジミですよ”と答えてくれました。涸沼のシジミは有名なのだそうです。“そうか、昨日のお昼に食べたシジミのみそ汁のシジミだ”と思いながら、岸辺にいちばん近い舟で漁をしているおじさんに、“たくさん取れますか?”と尋ねると、“籠いっぱいは取れるよ”との返事。おじさんは、長い竿の先に付いている網で沼の底をさらって、何度もシジミを取っていました。
 今日の聖書の16節に、「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。イエス様も、ガリラヤ湖のほとりを歩きながら、こんなふうに、漁をしているシモンやアンデレに声をおかけになったのだろうか?“魚はたくさん取れましたか?”“いや、一晩中、漁をしたけれど、ちっとも取れなかったよ”なんていう会話をしたのだろうか?ふと、そんな想像を思い巡らしました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。主イエスは、シモンとアンデレに、このように声をおかけになりました。漁師である二人にとって、ある意味、分かりやすい勧誘だった思います。魚をとっていた漁師から、人間をとる漁師に変わる。それは、単純に言えば、主イエスのもとに人を集める。神さまの愛の御手(みて)という網で人間をとり、主イエスを信じ、主イエスを通して神を信じる者へと導く、ということでしょう。
 けれども、単にだれかを誘い、人を集め、神を信じる者とすれば、私たちは、主イエスに喜ばれる漁師かと言えば、そうではないと思います。と言うのは、私たちはともすれば、“自分のために”人間をとろうとするからです。伝道は難しい。でも、だからこそ成功するとすばらしい。だから、だれかを教会に誘い、導くことができたら、自分は熱心で、優秀なクリスチャンだ。周りもそのように自分を評価してくれる。私たちは知らず知らず、そんなことを意識して、まるで会社で営業成績を上げようとする社員のようになることがあります。牧師などは、気をつけないとその最たる者かも知れません。自分がどれだけの人に洗礼を授けたかを、自分の有能さと勘違いすることがあるのです。そういうのは、自分の栄光を求める行為であって、神さまに栄光を帰する働きではありません。相手の幸せを第一に考える生き方ではありません。
 魚をとる漁師だった時は、自分のために魚をとるのでよかったのです。自分の生活のために、自分の利益のために魚をとっていればよかったのです。そこから、人間をとる漁師になるということは、単にとる対象が魚から人間に変わるということではありません。私たちの生き方そのものが変わるということです。つまり、“自分のために”生きている生き方から、“人のために”“相手のために”生きる生き方へと変わる、ということです。
それは、一言で言えば、人を愛する生き方です。主イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と望まれた生き方です。だから、人間をとる漁師になるとは、人を愛することを意識し、愛を大切にする生き方をするということに他なりません。
 ですから、人を教会に誘い、信仰に導くということも、愛に根ざした思いであり、行動であることが重要です。私たちは、人が信仰を持つことができたら、どんなに幸せか、人生に土台を据えて、悩みや苦しみがあっても、きっと救われながら生きていけると思います。けれども、当然のことですが、それを相手に強いてはなりません。相手の価値観を受け入れ、今現在の生き方を認めることも、また愛だと思うのです。言うなれば、そこが伝道のスタート地点です。相手との対話の中で、その人の事情や悩みを伺うこともあるでしょう。その人が何か救いを願っていると感じることがあるでしょうし、その人があなたのことをクリスチャンだと知って、キリスト教の信仰を求めて来ることもあるでしょう。そういう関係の中で、“相手のために”を思いながら生きていると、神さまが自然と背中を押してくださる機会があるように思います。今こそ、網を打って漁をしなさい、と。

 話は変わりますが、私たちの教会で実習しているI神学生は今日、千葉県八千代市の勝田台教会で礼拝説教の奉仕をしています。実は、そのことにまつわる不思議な出来事がありました。
 私たちの教会の会員であるIKさんの弟さんご夫妻が千葉県に住んでいます。IKさんは時々、そのご家庭に呼ばれて、健康上の悩みや色んなお話を伺っているようです。そんな中で、弟さんご夫妻は、IKさんがクリスチャンだということを知っていて、自分たちも教会に行ってみたい、できれば坂戸いずみ教会に行ってみたいと願うようになられたそうです。けれども、千葉県から通うのではあまりに遠い。それで、近くに通えそうな教会はないかと、私も一緒に考えていました。
 ちょうどそれが、I神学生が千葉県の勝田台教会に伺うタイミングと重なりました。IKさんと同じ教会の神学生ということで親近感が湧くでしょうし、勝田台教会がご自宅の近くにあるといいですね、などと話しながら、調べてみると、何と!勝田台教会は、IKさんの弟さんご夫妻が住んでいる隣りの駅のそばにある教会でした。この偶然は、まさに神さまのお導きだなぁ、と思いました。その後、連絡を取り合って、今日、そのご夫妻は、I神学生と駅で待ち合わせをして、勝田台教会の礼拝に出席されたことと思います。そんな、すてきな機会を神さまは備えてくださいました。

 今回の出来事のベースとなったものは何だったのでしょうか?私は、IKさんがクリスチャンとして信仰生活を続けて来たことだと思うのです。特別なことをして来たわけではないでしょう。IKさんの方から教会に誘ったわけでもないでしょう。IKさんは、ただ聖書の御(み)言葉を聴きながら、淡々と信仰生活を続けて来た。その生活が、今回の機会を生んだのだと思うのです。
 既に天に召されましたが、藤木正三先生がこう言っておられました。伝道とは、道を伝えて信仰に導くことではない。道は、伝えるものではなく、自分が生きるものだと。人生を生きる道は数多くあるけれど、その中で、煩悩(ぼんのう)にあえぐ私たちがそのままに受け入れられ、生かされて生きる道を生きる。この道以外は選ばない。断固として選ばない。それが伝道だ、と藤木先生は書いておられます(『灰色の断想』「伝道」)。
 信仰の道を生きる。それは、私たちが、どんな時にも神さまに愛されていることを信じて生きることです。愛によって生かされていることを信じて生きることです。そして、自分が神さまに愛されているからこそ、人を愛することを志して生きる生き方です。この道を歩み続けること、この生き方を選び続けることこそ伝道である、伝道のベースであると言うことができます。
 今日の聖書箇所で、主イエスの勧誘に、シモンとアンデレが「すぐに」(18節)従ったとありました。前後の経緯や動機など一切記されておらず、誘う方も従う方も急だな、いきなりだなと思います。
 けれども、今回準備をしながら、「すぐに」という言葉は、信仰の道を選び、生きる“単純さ”“素直さ”“断固さ”“誠実さ”ということではなかろうか、と感じました。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。
この主イエスの招きを受け止めて、神に愛され、人を愛する愛の生き方、信仰の道を、素直に、単純に、誠実に歩いて行きましょう。



記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/