坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年10月28日 大人と子どもの礼拝説教「友のために命を捨てる」

聖書  ヨハネによる福音書10章7〜14節
説教者 山岡 創牧師 


10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。


          「友のために命を捨てる」
 皆さんは、生で羊を見たことがあるでしょうか?かく言う私もほとんどありません。一度だけ見た記憶があるのは、秩父高原牧場に行った時のことです。夏の小学生合同キャンプの帰りがけに、アイスクリーム作りを体験するために、立ち寄る牧場です。
 この牧場では、斜面の草原にヤギが放し飼いにされており、触れ合うことができます。でも、羊を見かけることは滅多にありません。もう10年ぐらい前になるでしょうか、たまたま羊が放されている時がありました。7〜8頭の群れで、茂みの中を移動していました。触ろうと思って近づくと、ヤギと違って警戒心が強いのか、逃げてしまいます。
そこで、一計を案じました。草原の中に、柵に囲まれた通路があります。そこに追い込んで、挟み撃ちにしました。先頭の羊が、前を見、後ろを振り返り、前にも後ろにも人がいることに気づきました。一瞬の間があって、次の瞬間、羊たちは私に向かって、一団となって走って来ました。私は、体を横にして柵にピタリとくっついて、やり過ごしました。羊たちは、すごいスピードで私の前を通り過ぎて行きました。ほんのいたずら心でしたことでしたが、まさかそんな行動に出るとは思わず、驚きの体験でした。
 羊たちにしてみれば、私のことなど知らず、私の言うことを聞くはずもありません。彼らから見れば、私は言わば「盗人」であり、「強盗」(8節)のようなものでしょう。自分たちの安全を、平和を脅かす存在だったのでしょう。

 聖書の中で、神の民であるイスラエルの人々(ユダヤ人)は、しばしば羊の群れにたとえられます。そして、指導者たちや預言者たちが羊飼いにたとえられるのです。詩編23編のように、時には神さまご自身が、羊飼い、牧者として語られることもあります。今日の聖書箇所では、主イエスがご自分を羊飼いに、「良い羊飼い」(11節)にたとえておられます。
 今日のたとえ話の中には、色々な登場人物が出て来ます。羊飼いのほかに「盗人」、「強盗」、そして「雇い人」、「狼」(12節)です。
 「盗人」「強盗」というのは、羊を「盗んだり、屠(ほふ)ったり、滅ぼしたりする」(10節)人のことです。主イエスは、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と言われました。もちろん、主イエスが、イスラエルの人々に神の掟を授けたモーセや、エリヤやイザヤといった預言者たち、また洗礼者ヨハネ等のことを、このように評しているとは思えません。
 今日読んだ聖書箇所の直前に、今日の話と関連する〈羊の囲いのたとえ〉があり、その最後の6節で、「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。また、9章からの文脈も合わせて考えると、主イエスが「盗人」「強盗」にたとえているのは、ファリサイ派の人々とその律法学者であると思われます。
 ファリサイ派というのは、ユダヤ教の主流派でした。神の掟である律法を熱心に、厳格に守っていました。そうすることで、神さまに認められ、神の国に入れてもらうことができると信じていました。自分の行いが救いに関わると考えていたのです。そういうファリサイ派の中で、律法を研究し、人々の生活に具体的に適用する教師が律法学者でした。彼らは熱心の余り、律法を守れない人々を否定し、差別しました。そのような人間は罪人であり、神に見捨てられ、神の国に入れないと軽蔑しました。そして、食事や会話をするといった普段の生活の中での関わりを避けていました。
 彼らからそのように見なされた人々、特に徴税人や遊女、障がいや病を負った人々は、信仰的に、また社会的に“命”を失ったようなものです。彼らは、社会の中で常に否定と軽蔑の目で見られ、差別され、疎外され、苦しくつらい気持を抱いていたでしょう。自分を肯定し、認めることができず、心に平安や喜びを持つことが、なかなかできなかったのではないでしょうか。そのような人々は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」(マタイ9章36節)と、マタイ福音書(ふくいんしょ)では記されています。
 そういう意味で、ファリサイ派とその律法学者のしていることは、彼らの命を盗み、平安や喜びを奪い、社会的に屠り、信仰的に滅ぼしていた、と言うことができます。
 そのような信仰的な態度と社会の在り方に疑問を感じ、切り込まれたのが主イエスでした。神さまの御心(みこころ)は、果たしてファリサイ派が考えているようなものだろうか?すべての人を愛し、救いへと導こうとなさるのが神ではないだろうか?そのように確信して、主イエスは、徴税人(ちょうぜいにん)と食事を共にしました。遊女を助けました。障がいや病を負った人を癒(いや)しました。“あなたは神に見捨てられた人間ではなく、神に愛されている人間だよ、安心して生活しなさい”と、言葉で、行いで伝えました。それによって、どれだけの人が心を救われたか、喜びと平安を取り戻したか、分かりません。その意味で、まさに主イエスは、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(10節)に来た「良い羊飼い」でした。
 けれども、その結果、主イエスはファリサイ派から疎(うと)まれ、怒りを買い、命を狙われ、ついには十字架に架けられ処刑されることになるのです。「羊のために命を捨てる」(11節)ことになったのです。

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。
“命”とは何でしょうか?命を受けるとは、どういうことでしょうか?
 昨日の朝日新聞の〈be〉という折り込み版に、小児科医の公文和子さんという方のことが掲載されていました。ケニアにある、障がい児とその家族のための療育施設〈シロアムの園〉で働く49歳の女性です。
 私も記事を読んで驚きましたが、ケニアでは、障がい児を持つ母親のほぼ半数が、その子を殺すように圧力をかけられている、ということです。ケニアは今、高度経済成長の時で、効率性や生産性が重視され、これまで守られてきた弱者に目が行かなくなった、ということです。そのため、効率性や生産性の低い、一言で言えば何も“できない”障がい児は抹殺するように、国の圧力、社会的な圧力がかかっているのでしょう。意図的な栄養失調で子供を逝(ゆ)かせてしまうケースがあるようですし、殺さないまでも、障がい児が生まれたために父親が家を出て行ってしまった、母親がおばあちゃんにその子を預けっぱなしにしているといった現実が少なからずあるということです。
 公文和子さんは、国際協力機構(JICA)のプロジェクトでケニアにおいてエイズなどの感染症対策に取り組んでいました。そして7年が過ぎたころ、もっと困って助けを必要としている子どもたちがいるのではないかと感じ、2015年に〈シロアムの園〉を設立したということです。そして、多くの障がいを負った子供たちとその家族と関わって来た中で、最も印象に残っているのは、昨年13歳で亡くなったジェーンちゃんという子供だったそうです。
 ジェーンちゃんは、小頭症(しょうとうしょう)で重度の障がいがあり、11年間カーテンを閉めた暗い部屋で暮らしてきたために、くる病を患い、施設に来た時には体重は11歳で10キロしかなく、ケニア人なのに肌の色は公文さんよりも白かったといいます。最初は能面のように表情がなかった。それが、名前を呼ばれたり、触ってもらったりしているうちに、ある日突然、笑ったといいます。驚きだったそうです。この出来事を通して、公文さん等スタッフは、何かができるようになる、機能を向上させるという目標しか設定して来なかったが、子どもたちに生きる喜びを感じさせるという目標があることを教えられた、ということです。
 シロアムというのは、聖書の中に出て来る池の名前です。ヨハネ福音書9章で、生まれつき目の見えない障がいを負った人を主イエスが癒された時、シロアムの池で目を洗いなさい、と言われた場所です。記事を読みながら、この人はきっとクリスチャンに違いないと思い、後でプロフィールを見ましたら、高校1年の時、キリスト教の洗礼を受けたと書かれていました。
 私は、神の御心を、主イエスの道を歩んでいる人だなぁ、と感動しました。障がいを負った子供たちに、生きる喜びを感じさせるために、自分の人生をささげている、命を献げていると思いました。そして、先ほどの、命とは?、命を受けるとは?という問いかけに戻りますが、それは、生きる喜びを感じさせるということではないか、失っていた笑顔を取り戻させることではないか。そう思ったのです。主イエスは、弱り果て、打ちひしがれていた人に、生きる喜びを感じさせ、笑顔を、“魂の笑い”を取り戻させるために来た。命を与える、命を受けるとは、そういうことではないでしょうか。

 beの紙面に、手と手で触れ合い、目を合わせて向き合っている公文和子さんと子どもの写真が載(の)っていました。その様子はあたかも、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)と言われた主イエスの言葉をイメージさせるものでした。様々な苦しみ悩みの中で、命を与えるためには、信仰によって生きる喜びを感じ、笑顔を取り戻すためには、主イエスが私のことを知っており、私も主イエスを知っているという霊的な“魂の関係”が大切です。主イエスは、私の苦しみ、悩み、悲しみ、痛みを知っておられる。私の心のひだを知っておられる。そして、重荷を負った私に寄り添ってくださる。そのような情け深い、愛に厚いお方だということを、私が知っている。感謝している。その愛の中で、私は癒され、喜びを与えられ、生かされる。
 そのような主イエスとの愛の関係を育んでいくために、聖書の御(み)言葉を聴き、読み、深く黙想し、祈り、信仰生活を積み重ねていくのです。それが命を受けること、豊かに受けることにつながっています。



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