坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年11月11日 主日礼拝説教「原因ではなく、目的を見つけよう」

聖書  ヨハネによる福音書9章1〜12節
説教者 山岡 創牧師 


4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 



       「原因ではなく、目的を見つけよう」

「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(2節)。
ドキッとする問いかけではないでしょうか。不幸な、悪い結果の原因を、だれかの罪のせいにする。もし本人がそれを聞いていたら、どうするのでしょう。とても傷つける言葉ではなでしょうか。
なぜ自分は目が見えないのか?自分は何も悪いことをした覚えはないのです。考えても分からないのです。それなのに、周りから、あなたの不幸の原因は、あなたが罪を犯したからだ、あなたが罪人だからだ、と言われたら‥‥。ただでさえ、生まれつき目が見えないという現実に打ちのめされ、苦しんでいるのに、その苦しみにさらに追い打ちをかけられることになるでしょう。
エルサレムの街中(まちなか)を、主イエスと弟子たちが歩いていた時、道の傍らに、生まれつき目の見えない人が座っていました。生きるために物乞いをしていたのです。それを見た弟子たちが、主イエスにこのように尋ねたのです。心ない言葉を言うなぁ、と思います。
 けれども、この言葉は、必ずしも弟子たちだけが悪い、デリカシーがない、と言い切れない面があります。と言うのは、当時のユダヤ人の考え方がそうだったのです。善を行えば、神さまが良い報いを与えてくださる。けれども、悪を行い、罪を犯せば、神さまは怒り、悪い結果をもたらされる。ユダヤ人は、そのように物事を見ました。
 原因があって、結果がある。現実がある。だから、生まれつき目が見えないという不幸な現実には、必ず神さまを怒らせるような原因があるはずだ。そのように逆算して、その原因は本人が罪を犯したからだ。本人でなければ、親が罪を犯したからだ、と考えたのです。障がいや病気の原因は罪である。そのようなむごい考え方が、心ない言葉となって現れたのです。
 けれども、私たちも、このような考え方をすることがないでしょうか。“罰が当たった”。私たちはそのように思い、言うことがありはしないでしょうか。自分のことも、他人のことも、何か悪いこと、不幸なことが起こると、罰(ばち)が当たった、と考えることがあります。それは、何か悪いことをしたから、悪い報いを受けたと考える因果応報の思考であって、ユダヤ人の考え方と全く同じです。
私たちにはどうも、不幸な出来事、悪い結果を前にすると、“なぜ?”と、その原因・理由を考えたくなる思考がしみついているようです。理由づけ、原因探し、犯人捜しをしたくなる。その方(ほう)が、ネガティブな意味でですが、安心し、納得できるからでしょう。

 けれども、主イエスはその考え方をくつがえすのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」(3節)。
 神の業が現れる。神の栄光が現れる。神の恵みがこの人に与えられる。良いものがこの人に与えられる。主イエスは、不幸な出来事や悪い結果が起こっても、その原因を探ろうとはしません。原因を探って、それを正し、現状を変えられるならそうするでしょう。けれども、原因を特定したところで何も変わらず、かえって落ち込み、苦しみ、ネガティブになることもある。苦しいことほど、悲しいことほど、そういうものが多いことを主イエスは知っておられるのです。
 また、なぜ?と考えても、病気や障がい、事故や災害による不幸など、原因・理由が分からない事柄も少なからずあります。そのような不条理な苦しみについて、どんなに“なぜ”と考えても、かえって苦しみが増すことを主イエスは知っておられるのです。
 だから、主イエスは“なぜ”と原因を探らない。そうではなく、その出来事その結果は、“何のために”あるのか?と、その意味を考える。将来へとつながる目的を見つけようとする。そして、そこにはきっと「神の業」が現れるとポジティブに考えるのです。
 だから、皆さん、今日まず一つ、心に刻んでください。“神さまは罰を当てない”と。
罰(ばち)という考え方を、私たちの中から払拭(ふっしょく)していきましょう。

 ところで、新潟青陵大学の臨床心理学研究科で教授をしている碓井真史さんという方がおられます。この人は〈心理学総合案内・こころの散歩道〉というブログをインターネット上にアップしています。その中に、“「なぜ」ではなく「何のために」”と題する、次のような文章を書いておられます。
私たちは、何か問題が起こったときに、「なぜそれが起ったのか」と考えてしまいます。大きな事故にあったり、家族が大病にかかったときなど、なぜ私たちの家族がこんな目に合わなくてはいけないのかと考えてしまうこともよくあるでしょう。生まれつき障害のある子を持ったお母さんは、あれが悪かったのか、これが悪かったのかと、つい考えてしまうと言っていました。でも、「なぜ」を考えても、何か良いことがあるでしょうか。医学や物理学では意味があるかもしれません。原因を考え、原因を取り除き、問題が解決することもあるでしょう。けれど、人の心や人生はどうでしょうか。悪い出来事が起きたときに、「なぜ」を考えると、たいてい悪いことしか思いつきません。ますます暗くなってしまうこともたびたびです。
どうしてこの子が暴力を振るうのか、学校へ行けないのか。親の育て方が悪かったのか。もしかしたら、それも原因の一部かもしれません。でも、タイムマシンで昔に戻ってやり直すことはできません。「なぜ」を考え、原因を探ると、「犯人探し」が始まってしまいます。「家族がめちゃくちゃになったのは、乱暴するこの子が悪いのだ。」「この子が乱暴になったのは、母親の育て方が悪かったのだ」「夫が悪い」「姑が悪い」「学校が悪い」「社会が悪い」などなど。でも、「犯人」を探し、その人だけをみんなで責め立てても、問題は解決しないのです。「この問題は、私たちみんなの問題だ」と考え、みんなで協力し始めたとき、問題は解決へ向かうような気がします。‥‥(中略)‥‥
私たちの人生の問題も、「なぜ」を考えても解決しないことが多いように思います。聖書に登場する「ヨブ」という人は、幸せの絶頂から不幸のどん底へと突き落とされます。彼も、彼の友人も、「なぜ」そうなったのかを考えます。しかし、その結果は、彼を責め立てるか、それとも原因など良くわかるはずもなく、ただ悩み、迷います。ヨブは、神に原因を聞きます。神は、質問には具体的に答えず、ただ神が作った大自然をゆったりと見せていきます。するとヨブは原因探しを止め、そして、神への信頼と平安な心を取り戻していくのです。不幸が襲ってきたとき、だれでも原因を考え、落ち込んだり、恨んだりします。でも、意味のない原因探しをやめて、その出来事を受け入れることができたとき、光が見えてくるのではないでしょうか。
障がい児が生まれたご家庭では、大きなショックを受け、時には家族がいがみ合い、ばらばらになることもあります。しかし、その危機を乗り越えたご家族の多くは、異口同音に「この子は私たちの宝だ」と語ります。この子のおかげで、自分は人生を学んだ。温かい家族になれた。この子がいなければ、今の自分たちはなかったと。そう、まるで何かの目的をもって、その子が自分たちにプレゼントされたような気持ちです。もちろん、不安や心配が何もなくなったわけではありませんし、困難が消えたわけではありません。でも、子供のため、家族のために、より良い方法を考え、実践していけるようになるのです。原因探しや犯人探しを止めて、現実を受け入れたとき、心は平安になります。そして、さらにその困難に意味を見いだしたとき、私たちの心は、もっと前へ、前へと、進んでいくでしょう。‥‥
様々な困難はできれば起らないほうが良いのでしょうが、でも、その困難のおかげで、真の問題が見え、その人が成長したり、家族がいやされていくこともあるのです。‥‥
私はなぜこんな困難に出会うのかと考えるのではなく、何のためにこの困難はやって来たのかと考えられるとき、その困難は、私たちの心を押しつぶすことができなくなるのです。
 だいぶ長い引用になりました。けれども、まさにその通り、と私も思うのです。碓井さんは、このページの執筆のきっかけとなったのは、闘病生活中のクリスチャンの知り合いからのメールだったと最後に書いて、そのメールの言葉を引用しています。
発病したときは、思わず「なぜ?」を問おうとしましたが、
今は、むしろ「何のために?」の方が大切だと思っています。
 なぜ?ではなく、何のために?と考える。その先に、きっと光が見えて来ます。「神の業」が現れます。

 ところで、主イエスは、「神の業がこの人に現れるためである」と言われた後で、続けて、弟子たちにこう言います。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」(4節)。
 「わたし」というのは主イエスご自身のことです。では、「わたしたち」とはだれのことか?イエスを主と信じて従う弟子たちです。と言うことは、現代的に考えれば、私たちのこと、教会のことを指しているのです。つまり、私たち教会が「神の業」を行うのです。その大切な務めを、主イエスから託されているのです。
 とは言っても、もちろん私たちが直接「神の業」を行うわけではありません。その人に「神の業」が現れるための、その人が神の恵みに気づくための手助けをする、ということでしょう。すなわち、“なぜ”ではなく“何のために”と考える聖書の考え方を伝えること、それが人生の意味を見つけ、目的を見つけ、光を見いだす道であることを伝える、ということです。
 けれども、苦しみ悲しみのただ中にある人には、ストレートに、このようなことは言えない、伝えられないことが多いです。言ったらかえって、傷つけ、怒らせ、落ち込ませることになるかも知れません。そうだとすれば、私たちにできることは、無言で、ただその人に、その人の苦しみ悲しみに寄り添うことだけではないでしょうか。
 先週、永眠者記念礼拝を行いました。その際、皆さんに永眠者名簿をお配りしました。私たちの教会で最初に天に召されたのは、T.Fさんという27歳の青年でした。この教会ができて1年目、1992年のクリスマスでした。ご家族が、特に母親であった教会員のFさん(昨年召天)が激しく嘆き、深い悲しみに襲われました。どう慰めようもなく、私はどうしたらいいのか戸惑い、Fさんと向かい合うことを恐れ、逃げていました。寄り添うことができませんでした。
 その時、黙ってFさんに寄り添ったのが、Aさんでした。直接その悲しみには触れず、ただそばにいて、一緒にどこかに出かけたり、家庭集会や泉会(手仕事の集まり)といった教会の活動を共にしました。寄り添ってくれる人の存在に、Fさんはきっと、大きな慰めを得ていたに違いありません。
 イエス様はきっと、私たちに、だれかに寄り添うことを求めておられるのではないでしょうか。それは一言で言えば、“愛の業”です。人を愛することです。そして、その愛を通して、神の業が現れる。その人が神の愛を知り、神の愛に包まれて、人生を“何のために”とポジティブに考えられるようになるかも知れない。人生の意味を、目的を見つけることができるようになるかも知れません。
 信仰によって私たち自身が神の愛を感じ、感謝して、今度は、だれかに神の愛を届けることで「神の業」の手助けをする。そういう教会でありたいと心から願います。



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