坂戸いずみ教会・礼拝説教集

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2018年11月18日 主日礼拝説教「わたしの目を開けてくださる」

聖書 ヨハネによる福音書9章13〜34節
説教者 山岡 創牧師 


9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
9:18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。



          「わたしの目を開けてくださる」

 生まれつき目の見えない人の目を、主イエスは癒(いや)されました。彼は、主イエスに言われたとおり、シロアムの池に行って目を洗い、見えるようになって帰って来ました。目が見える!それは、生まれつき目の見えなかった彼にとって、どんなに大きな感動であり、喜びだったことでしょう。彼は躍り上がって帰って来たに違いありません。
 けれども、目が見えるようになって帰って来た彼を迎える周りの人々の態度は、何か不自然な感じがします。9章8節以下を読む限り、皆さんも、何か違和感のようなものを感じないでしょうか。
 もし私たちの家族や知り合いの病気や障がいが治ったら、私たちは大喜びすることでしょう。抱き合い、涙を流し、お祝いをするかも知れません。信仰を持っていれば、神さまをハレルヤ!とほめたたえ、感謝と祈りをささげることでしょう。
 ところが、9章8節以下に登場する人々の間には、そういった喜びや感謝が感じられません。何だかよそよそしく、そわそわしている感じがします。あってはならないことが起こった、というような雰囲気です。いったいどうしてでしょうか?それは、彼の目が癒されたのが「安息日(あんそくび)」(14節)だったからです。

 今日の聖書箇所に登場するファリサイ派の人々が、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(28〜29節)と語っています。「神がモーセに語られたこと」とは、律法と呼ばれる神の掟です。ユダヤ人の先祖たちをエジプトから脱出させた時、モーセは、シナイ山という山で、神さまから、守るべき神の掟を示されました。その中で、最も重要なものの一つが「安息日」の掟です。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留(きりゅう)する人々も同様である」(出エジプト記20章8〜10節)。
 ファリサイ派というのは、神の掟を熱心に、厳格に守るユダヤ教の主流派であり、特にこの安息日の掟を重んじていました。彼らは、「いかなる仕事も」という点を具体的に考え、例えば、何歩以上歩いてはダメ、火を使って料理をしてはダメ、というふうに決め事をつくりました。病気や障がいを癒す治療行為も、してはならないことの一つでした。
 彼の目が主イエスによって癒されたのは、安息日でした。それで、彼の周りの人々は、ファリサイ派の人々を恐れ憚(はばか)って、おたおたしているのです。掟には当然のことながら、罰則もあるからです。特に今回の件は、主イエス絡(がら)みです。22節には、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」とあります。つまり、イエス様のことを、神のもとから来られた“救い主”と信じて告白する人は、ユダヤ教から破門する、ユダヤ人社会から追放するということです。だから、目が見えるようになった事情を彼に尋ねた時、彼が「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われたのです」(11節)と答えるのを聞いて、人々は、ギョッとしたに違いありません。このことは、安息日に行われた事柄である上に、主イエスが絡(から)んでいる‥‥。これは隠しておけることではない。ともすれば自分たちにも類が及ぶ。そう考えて、「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った」(13節)のです。

 宗教裁判が始まりました。彼の目がどうして見えるようになったのか、彼の答えに対して、ファリサイ派の人々は、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来たものではない」(16節)と批判しました。ファリサイ派の中には、安息日を守らないイエスは罪人である、という答えがあり、しかもイエスを信じる者はユダヤ人社会から追放と決めていました。しかし、中には「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」(16節)という者もいて、ファリサイ派の中で意見が割れました。
 そこで彼らは、彼の両親を証人喚問しました。けれども、両親はファリサイ派を恐れ、ユダヤ人社会から追放されることを恐れて、「本人にお聞きください。もう大人ですから‥‥」(21節)と“逃げ”の発言をしました。
 そこでファリサイ派の人々は、彼をもう一度呼び出して、彼の証言を求めました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(24節)。ファリサイ派の人々は、彼が証言する前に“イエスは罪人だ、だから信じるな”という彼らの答えをぶつけて、“もし信じたら追放だぞ”と暗に脅迫しています。彼らにしてみれば、最初から“イエスは罪人だ”という答えありきで、何としても証人の口から“イエスは罪人です”という証言を取りたいのです。自分たちの意見に賛同させたいのです。自分たちが正しいのだと周りにも認めさせ、満足したいのです。

 主イエスに目を開かれた人は、ものすごく違和感を感じて戸惑ったことでしょう。目が見えるようになったという現実に喜び、感謝して帰って来たら、何だか“それはいけない”といった空気になっている。周りの人々は、一緒に喜んでくれるどころか、自分を宗教裁判の席に連れて行く。両親は自分に味方するどころか、明らかに逃げて、自分を見捨てるような証言をし、ファリサイ派の人々からは、“イエスは罪人である”との誘導尋問を再三される‥‥。彼は、よく分からない孤独のようなものを感じたでしょう。
 けれども、そのような空気の中で、彼の態度は次第に変わって来たように感じます。リスクを恐れず、堂々とした、勇気あるものに変わっていったのです。
 確かに、主イエスは安息日の掟を破ったことになるのかも知れない。けれども、果たしてそれだけで、罪人と判断し、決めつけることができるのだろうか。主イエスは、自分の目を見えるようにしてくださった。その事実、その現実こそ、いちばんに心を留めるべきことではないか。もし主イエスが罪人なら、生まれつき目の見えない人の目を開けるといった「神の業」(3節)をできるはずがない。それが彼の本心です。その思いに立って、彼は、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(33節)と、はっきりと答えました。つまり、彼は、「イエスはメシア(救い主)である」と公に言い表したのです。
 「神の前で正直に答えなさい」。ファリサイ派の人々の、この一言がかえって、彼の心の引き金になったようです。正直であるとはどういうことか?彼の心は自分の目を開いてくださった主イエスに感謝し、神を賛美していたでしょう。それは、たとえ社会から追放され、人との交わりを断たれたとしても、自分の中で、曲げることのできない現実であり、喜びだったでしょう。だから、彼は、勇気を持って、正直に答えたのです。彼は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と証言しました。それは、肉体の目が開いたということ以上に、自分の心に正直に生きる勇気に目覚めた、という意味だと言ってもよいでしょう。

 自分の心に正直に、自分の人生に正直に生きるためには、勇気がいります。正直とは、何も考えず、人の気持を配慮せず、思ったとおりに行動する自分勝手のことではありません。そうすることによって、周りから非難されるかも知れない。自分の立場が危ういものになるかも知れない。何かを失い、損をするかも知れない。それでも、自分の心にまっすぐに、自分を曲げずに生きること、それが正直です。
 10月31日は、宗教改革記念日でした。マルチン・ルターが、ヴィッテンベルクの教会の玄関に、カトリック教会に対する95カ条の意見書を貼り付け、公開した日です。昨年は宗教改革500周年記念ということで、日本基督教団でも様々な記念行事が行われました。聖書に基づいて、カトリック教会の間違いを指摘し、協議し、正していきたい。そう考えて、この意見書を公開するまでに、ルターの心の中にどれほどの葛藤(かっとう)があったでしょうか。激しく非難され、何かを失うことになる。そんな恐れがルターの中にもあったに違いありません。けれども、ルターはきっと、神の前に正直に生きる覚悟をし、決断をし、勇気を奮ったのでしょう。
 『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健著)という本があります。以前にも説教でお話しました。アドラー心理学について書かれています。ザックリ言えば、この内容は、聖書の言葉、イエス・キリストの教えに則(のっと)ったキリスト教心理学だと、私は感じています。
 その中に、次のようなくだりがあります。
哲人 ‥‥他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
青年 先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?
哲人 嫌われることを恐れるな、といっているのです。(前掲書163頁)
 私たちも、自分の生活の中で、人間関係において、少なからずこのことを感じるのではないでしょうか。非難を恐れ、損失を恐れ、嫌われることを恐れては正直になれない。自分の生き方を貫けない。この問題は、ほんの小さな、些細(ささい)なことから、大きなことまでいろいろあるでしょう。そういう自分に不自由を感じ、ストレスを抱えながら生きているところがあるでしょう。そして、何かに、だれかに縛られたような不自由さから解放されて、自由に、まっすぐに、気持ち良く生きたい。そう願っている心があるでしょう。その二つに挟まれて、葛藤しながら生きているのが、私たちのリアルではないでしょうか。
 私自身がまさにそうです。この説教を準備しながら、私自身、自分の内に抱えている現実に、自問自答しながら、この説教を作りました。正直になれない自分、まっすぐになれない自分、勇気を持てない自分がいます。勇気を持てたら、自分に正直になれたら、どんなに気持ち良く、心が晴れ晴れするだろうか。自由を感じられるだろうか。そう思う自分がいます。
 聖書は、そのための道を用意してくれています。だれから嫌われようとも、何かを失おうとも、主イエスは、あなたを見捨てない。あなたを愛される。あなたと共にいてくださる。この恵みを信じた時、きっと私たちの心の中に、勇気が湧き上がります。そして、私たちは、正直で自由な人生に、信仰の人生に、一歩踏み出すのです。



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