坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年11月25日 大人と子どもの礼拝説教「豊かに実を結ぶ」

聖書  ヨハネによる福音書15章1〜10節
説教者 山岡 創牧師 


15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。



          「豊かに実を結ぶ」

私たちの教会が建っている地域は泉町と言って、ご覧のとおり住宅街です。けれども、30年ぐらい前は、まだ雑木林と畑が広がっていたそうです。その名残でしょうか、ここから少し南に行って、住宅地の中に入ると、大安(たいあん)公園の近くに、少し広い畑があります。千坪ぐらいの広さがあるかも知れません。
 私は早朝、高麗川(こまがわ)の土手をジョギングするのですが、走り終わった後、帰りがけに、その畑の脇を通ることがよくあります。1年を通して野菜の栽培をしています。
 その中で、私が毎年“すごいなぁ”と思うのは、ナスの栽培です。ナス本体の高さが、私の身長よりも高いぐらいになります。そして、そこに丸々としたナスの実がたくさんつきます。どうやったら、こんなふうに育てられるのだろう?と本当に感心します。
 私も一昨年まで10年ほど、高麗川の向こう側で10坪ほど畑を借りて、家庭菜園をしていました。ですから、野菜作りのことが少しは分かります。夏にはナスも作りました。色々と工夫をし、手入れをします。実もよく付いて、収穫も多いです。でも、あの畑のナスのようにはなりません。枝の誘引(ゆういん)のやり方もありますが、私のナスは人の腰ぐらいの高さにしかなりません。高さが違う。太さが違う。そこがプロと素人の腕の違いなのでしょうが、毎年、夏の時期になると、“すごいなぁ”と思いながら見ています。ぶどうの棚も少しあったので、来年の夏は、ぶどうも注意して見てみようと思います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。
 主イエスは、ご自分と弟子たちの関係を、また父なる神との関係を、ぶどうの木とその枝、そして、ぶどうを手入れして育てる農夫の関係にたとえています。聖書の舞台であるパレスチナの地域は、ぶどうの栽培に適した気候で、ぶどう畑がたくさんありました。主イエスは、身近な題材を使ってたとえ話をする名人でしたが、ぶどうやぶどう園を題材にしたたとえ話をしばしばなさいました。
 今日の聖書箇所は、信仰生活の長い人であれば、何度も読み、また説教で話を聞いたことのあるところだと思います。私も何度も読みました。そういう中で、私が今回、黙想をしながら注意を引かれた御(み)言葉は、2節の後半でした。
「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2節)。
 この御言葉から、私はふと、ぶどうの手入れとはどのようにするのだろう?と思いました。そこで、ぶどうの手入れの仕方をインターネットで調べてみました。すると、思っている以上に、多くの手入れがあるんですね。
 山梨県にある雨宮ファームというぶどう園の年間作業について読んだのですが、まず12〜2月に、枝を切り、その数を減らす剪定(せんてい)作業をします。風通しを良くし、またどの枝にも日がよく当たり、栄養がよく行き渡るようにするためです。その後、枝の配置を整え、棚に固定する誘引作業を行います。剪定と誘引は、次の年の生育を左右する重要な作業だそうです。
 誘引の時期には、皮剥ぎと芽傷(めきず)処理というのもあります。木の皮の内側は虫や菌の住み家になるので、皮を剥いで虫や菌が住めなくします。こうすることで農薬も減らせるそうです。芽傷処理というのは、果樹には枝の先端の3つの芽が強く発芽する性質があるらしく、他の芽は発芽が弱くなります。しかし、すべての芽の脇に傷を入れてやると、芽が、自分は先端の芽だと錯覚して発芽がよくなるのだそうです。
 この他にも棚の手入れ、芽の数を減らす芽欠き、新しい枝の成長を抑制する新梢(しんしょう)誘因、新しい枝についた複数の穂を1つに減らす摘穂(てきほ)、一つの房についた実の数を減らし、形を整え、栄養の行き渡りを良くする花穂(かすい)の整形、枝の先端を切り、枝の成長を止め、実に栄養が行くようにする摘心、種無しブドウにするためのジベレリン処理、形の悪い房を除く摘房(てきぼう)、一房の粒の数を減らし、粒同士が押し合って割れるのを防ぎ、一粒一粒を大きくするための摘粒(てきりゅう)、そして病気や虫から実を守るための袋掛け、といった作業が1年を通してあります。
 読んでいて、私の知らなかった手入れ作業がたくさんあることを知り、改めて手間暇のかかる作業なんだなぁ、と思いました。そのホームページには、こんなことも書かれていました。
たくさん粒がついているので、粒を減らす摘粒を行います。‥‥
房を育てるというよりは、1粒1粒を育てる、という考えで栽培しております。‥‥粒を少なくするほど手間はかかりますが、その分残った粒が少ないほど1粒に養分が行き渡り、大粒で美味しいぶどうになります。
 この、1粒1粒を育てる、という考え方が、聖書にある、99匹の羊を野原に残しておいて、一匹の羊を探す、という主イエスのたとえ話と似ていると思い、育てるとはこういうことだなぁ、と感じました。
 手入れとは、手間暇のかかる作業です。手間暇をかける。それは言い換えれば、愛情をかける、愛情を注ぐということです。私も家庭菜園をしていた時、確かに、愛情をかければかけた分だけ、良い実ができると感じていました。手抜きをすると、野菜も応えてはくれません。
 ぶどうの手入れの仕方を調べながら、神さまも、私たち一人ひとりを育てるために、実を結ぶように、膨大な手間暇をかけてくださっている、大きな愛情を注いでくださっているのだと思いました。神さまとの関係というものは、目には見えませんし、形としては分かりにくいものです。けれども、神さまの愛の形としていちばん分かることは、神の独り子であるイエス・キリストを、この世に遣(つか)わしてくださったことです。そして、イエス・キリストを通して、神さまの愛を知らせ、すべての人の罪を、私たち一人ひとりの罪を贖(あがな)い、救うために、その命を犠牲にされました。イエス・キリストは、十字架に架けられ、命を失うまで、弟子たちを愛し、世の人々を愛しました。イエス・キリストこそ、神の愛の証しです。ヨハネによる福音書3章16節には、その神の愛が、次のように記されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 この神の愛が、聖書を通して私たちに告げ知らされ、届けられています。私たち一人ひとり、1粒1粒を、手間暇をかけ、丹精を込めて、愛情を注いで育て、生かす神の愛が、イエス・キリストの言葉、聖書の言葉を通して、私たちに示されているのです。

 この神の愛を受け取ることが、私たちが豊かに実を結ぶこと、言い換えれば、“救われる”ことの鍵です。
 今日の聖書箇所には、例えば5節に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、主イエスにつながり、またつながられているという相互関係が、何度も記されています。そうすることが、信仰の実、救いの実を結ぶために必要な神の愛を受け取るための、欠くことのできない条件だからです。
 神の愛は、天地創造の初めから、私たちに注がれています。それは、主イエス・キリストがこの世においでになったことで、いっそうはっきりとしました。神さまが私たちとつながっていてくださる、つながろうとしてくださることは、天地世界の終わりまで変わることのない神さまの御心(みこころ)です。神さまは、何としても私たちを救いたい、エデンの園で壊れた私たち人間との関係を回復したい。そして、この世界を「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)と言える天地創造の初めの世界に戻したいのです。そのために、主イエス・キリストが私たち一人ひとりとつながり、御言葉を通して愛を届けてくださるのです。
 ですから、問題は、私たちの方に、神さまとつながろうとする意思があるかどうか、ということになります。
 では、つながるとは具体的にはどういうことでしょうか?7節に、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら‥」とあります。この御言葉から考えると、つながるということは、主イエスの言葉、聖書の言葉を聞こうとする意思です。そして、聞いた言葉を自分の見方、考え方、生き方に反映させ、自分の人生における行動や人間関係に具体的に適用していこうとする意志のことです。この意志こそ、主イエスとつながっているということに他なりません。
 そして、御言葉への意思があるならば、御言葉を通して神の聖霊(せいれい)が私たちの内に働きます。私たちは、「自分では実を結ぶことができない」(4節)、実生活の中でそのことを感じることが少なからずあります。けれども、御言葉に聴き、従う思いを抱くならば、弱い私たちに聖霊なる神さまが豊かに働いて、私たちの見方、考え方、生き方が神の御心に沿うように、行動や人間関係に具体化されるようにしてくださるでしょう。御言葉を通して、神さまから、大切な1粒として愛されていることを知り、神を愛し、自分を愛し、人を愛し、互いに愛し合うようになるなら、私たちは豊かに実を結んでいることになるのです。

 私たちの人生には、自分は愛されていると信じることがどんなに必要でしょうか。カトリックのシスターであった渡辺和子さんの著書に、『愛と祈りで子どもは育つ』という本があります。その中に、ノートルダム清心女子大学で渡辺さんに教えられ教師になった教え子が、自分の受け持った生徒で学業的にも家庭的にも問題の多かった女子生徒から、「先生だけは私を見捨てないでいてくれた」という手紙をもらったと、渡辺さんに手紙をよこしました。何のことだろう?自分には特に覚えはないのだが‥‥。でも、授業中、その生徒と目が合った時、努めてほほ笑んだことを思い出した。そして、先生が授業で、ほほ笑みの大切を教えておられたことの意味が初めて分かったと手紙には書かれていました。それを読んで、渡辺さんは次のように書いておられます。
 他の先生たちからは“お荷物”として無視され、目を合わせてもらえなかったその女子生徒は、彼女のほほ笑みから「ああ、あなた今日も来たわね、よかった。先生はあなたが来て嬉しいわ。座っているだけでいいから、いてちょうだい」といメッセージを受け取っていたのでしょう。(前掲書151頁)
 また、別の教え子からは、渡辺さんが、授業の際の学生のメモに対して、一人ひとり一筆箋(いっぴつせん)で返事を返していたことに対して、次のような手紙が来たといいます。
 質問へのお返事を書いてくださって、ありがとうございました。私は今まで、シスターにとって何千人の中の一学生に過ぎない。きっと四年間在学していたことにすら気づいてもらえないのだろうと思っておりました。でも、違ったのですね。私もシスターに大切にしていただいていること、シスターに愛されていることを感じました。同時に、「ああ、こんなふうに私も神さまに愛されている、ごたいせつにされている一人の人間なんだ」と気づきました。私も教師になったら生徒一人ひとりを大切にしていきます。(前掲書148頁)
愛と祈りで子どもは育つ。子どもだけではありません。人間は何歳になっても、愛されることが必要な存在だと感じます。愛と祈りで人は育つ。神の愛で、人は育ち、救われる。御言葉を通して、“座っているだけでいい”“そこにいるだけでいい”と言われる神の愛を、本当の愛を知り、豊かに心の実を、人生の実を結んでいきましょう。



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