坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年12月2日主日礼拝説教(アドヴェント第1主日)「見えること、信じること」

聖書  ヨハネによる福音書9章35〜41節
説教者 山岡 創牧師 


9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」



          「見えること、信じること」

今日、ここにおいでになって、皆さん、いつもと雰囲気が違うことにハッとされたことでしょう。教会のところどころにきれいな飾り付けが施されています。教会の暦の上で、今日から待降節(たいこうせつ)アドヴェントが始まりました。
 待降節というのは、イエス・キリストの誕生祭であるクリスマスを待ち望む期間です。それをラテン語でアドヴェントと言います。
 アドヴェントの間、私たちの教会に施されている飾りは主に4つです。クリスマス・ツリー、クランツ、リース、そしてクリブです。礼拝堂のオルガンの上に飾られているものがクランツ、これは日曜日ごとにキャンドルの灯を増やしていき、クリスマスの訪れを意識します。丸い輪の飾りがリース、元々、冬に魔除として家に付けるという異教の習慣を、キリスト教がクリスマスの飾りとして取り入れたようです。リースが丸いのは、きっと太陽を象徴しているのでしょう。そして、ロビーのウィンドウに飾られているクリスマス・キャラクターの人形をクリブといいます。
 実は、私たちの教会にはもう一つ、もっと大きくて立派なクリブがあります。以前は、ウィンドウのところに飾っていました。けれども、教会のウィンドウは元々そういう作りではないので、ちょっとでも人や何かが台に触れると、人形が落ちてしまい、陶器でできているので壊れてしまいます。それで、小さなクリブを飾っています。
 けれども、もったいないので、できればどこかに飾りたいなぁ、と思います。どこがいいか?‥‥いちばん安定していて目立つ場所は‥‥。ピアノの上かな?と思うのです。でも、実際には置いていません。それは、この会堂を建てた時、プロテスタント教会の伝統に立って、礼拝堂には、視覚的なものは(できるだけ)置かない、と決めたからです。もちろん、私はガチガチに、そう考えているわけではありません。けれども、この礼拝堂で神を礼拝する時、見えるものよりも見えない神を意識してほしい。霊となって、私たちと共にいてくださるイエス・キリストを意識してほしい。信じてほしい。そういう意味で、皆さんに、「見えるようにな(って)」(39節)ほしいのです。

「わたしが来たのは、世を裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)。
 9章のはじめから、今日の話は続いています。主イエスは、生まれつき目の見えない人の目を癒(いや)しました。彼は、主イエスに言われたとおり、泥を塗られた目をシロアムの池に行って洗い、目が見えるようになりました。けれども、その日は安息日(あんそくび)でした。ユダヤ人の掟に、安息日には働いてはならない、という決まりがあり、主イエスがなさった癒しの業は、安息日違反の罪に問われたのです。
 そこで、彼は、ユダヤ人の主流派であるファリサイ派の人々から、裁判の席に証人喚問され、主イエスの罪を証言するように促されました。ファリサイ派は、主イエスのことを罪人と決めつけて、もしだれかが主イエスを「神のもとから来られた(方)」(33節)、救い主メシアだと告白する者がいれば、ユダヤ人の会堂から追放する、社会から追放すると決めていました。けれども、目を癒された人は、「神の前で正直に」(24節)、勇気を持って、主イエスは罪人ではなく、神のもとから来られた方だと証言しました。その結果、彼はユダヤ人の会堂から、社会から追い出されました。
 主イエスが彼の前に、再び現れたのは、その時でした。彼がシロアムの池に行って、目が見えるようになった時、主イエスは彼のそばにはいませんでした。彼がファリサイ派の人々から裁判の席に呼び出され、尋問されている時も、主イエスはそばにいませんでした。だから、彼は、目が見えるようになってから、一度も主イエスを見たことがなかったのです。お会いしたことがなかったのです。だから、彼は自分の目を癒した方がだれかも分からないまま、裁判の席で、あの人は神のもとから来られた方だと証言したのです。
 その彼が、初めて主イエスを見たのは、彼がユダヤ人社会から追放された後でした。そのことを聞いて、主イエスは彼のことを案じて会いに来てくださったのです。そして、「あなたは人の子を信じるか」(35節)と彼に問われました。「人の子」というのは、旧約聖書のダニエル書という預言の書に由来し、簡単に言えば、神のもとから来られた救い主メシアという意味です。
 ユダヤ人社会から追放された彼は、これからどうやって生きていったらよいのだろう、と途方に暮れていたに違いありません。社会において、ユダヤ人としての権利を奪われ、サポートを受けることができず、軽蔑され、人との交わりも断たれた、言わば“村八分”の状況です。社会的に抹殺されたようなものです。公共のサポート、サービスを受けられず、人とのお付き合いも禁じられる。そんな状況にいきなり放り込まれたとしたら、私たちだって行き詰まり、どうしたらいいのか途方に暮れ、絶望するに違いありません。主イエスが彼に現れてくださったのは、そういう“時”です。
 人生に行き詰まった時、どうしたらいいのか途方に暮れる時、悲しみの時、苦しみの時、悩みの時、不安な時、孤独の時、傷ついている時、弱い時、絶望している時‥‥‥。主イエスが私たちに出会ってくださるのは、どうもそういう時のようです。つまり、少なからず自分の力では生きていけないと感じている時です。そのように、助けを必要としている時にこそ、主イエスは寄り添い、共にいてくださる。支えてくださる。力を貸してくださる。勇気と希望を示してくださる。愛してくださるのです。
 いや、そういう時でなくても、主イエスは私たちのそばにいてくださいます。けれども、自分の人生が自分の力でうまくいっている時には、私たちは、この恵みを必要とせず、また気づかないのです。あるいはピンチに陥った時でも、強がって、自分の力で何とかしよう、何とかなると思っている時には、肩に力が入って、“よろしくお願いします”と主イエスに自分をおゆだねし、平安になることができないのです。私たちが心から主イエスを必要とし、求める時にこそ、主イエスは私たちと出会ってくださるのです。
 私にも覚えがあります。私は牧師の家庭で生まれ、生まれた時から教会育ちでした。16歳の時に“信じます”と告白して洗礼も受けました。けれども、自分の力で生きていました。“できる”ことに価値があると信じて生きていました。もしも大学受験に行き詰まって、自分の弱さを感じなかったら、私はその後、形だけのクリスチャンになっていたかも知れません。もちろん牧師になど決してならず、あるいは教会生活から離れていたかも知れません。
 だから、行き詰まりの時、途方に暮れる時、不安な時、孤独の時、悲しみ嘆きの時、苦しみ悩みの時、傷ついている時、弱っている時、絶望している時‥‥‥そういう時は人生にない方が良いのですが、そういう時に見舞われたなら、ある意味で大切にしてください。そういう時は、主イエスと出会うチャンスなのです。人生の真実と出会うチャンスなのです。全く新しい生き方を発見するチャンスなのです。
 行き詰まり、途方に暮れて、人の子を「信じたい」(36節)と願う彼に、主イエスは、「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37節)と言われました。その言葉に、目を癒された人は、「主よ、信じます」(38節)と告白しました。「ひざまづく」(38節)とは、礼拝するという意味です。まるで四面楚歌(しめんそか)のような、絶望的な状況の中で、彼は、新しい生き方を発見したのです。愛と希望を見つけたのです。頼れるものを見つけたのです。安心を手に入れたのです。
 主イエスと出会い、主イエスを信じるということ、それは自分の人生が主イエスに寄り添われ、包まれている人生だと見えるようになる、ということです。言い換えれば、主イエスの言葉、聖書の言葉を手掛かりとして、自分は独りではなく愛されて生きており、人生は希望に満ちていると信じられるようになることです。すなわち、人生は自分の力で生きるものではなく、“生かされて”生きているという真理に気づくということです。それが、イエスを神のもとから来られた救い主と信じる、という信仰の内容です。

 『こころの友』という求道者向けの冊子があります。その12月号に、山本聖悟さんという人が紹介されていました。鉄板焼き〈やまちゃん〉の店主で、宮崎清水町教会の会員の方です。山本さんは高校を卒業後、パティシエとして働き、25歳の時に独立して自分のケーキ店を持つようになりました。テレビでも店のことが取り上げられ、最初は売れに売れたそうです。けれども、その後パタリと売れなくなり、2002年に店を廃業。家計は破たんし、離婚を余儀なくされました。どん底に落ち、友人と話しても孤独を感じていた山本さんでしたが、ある時、母親からもらった聖書を思い出し、読み始めます。そして、ある日、自宅で考え事をしていた時、温かな光に包まれ、今までに体験したことのない安心感を覚えます。それは神さまからの呼びかけだと母親に言われ、山本さんは教会に通い始めます。そして、牧師に相談し、祈りの中で道が示され、両親が経営していた居酒屋で、鉄板焼き〈やまちゃん〉を始め、数年後には良き助け手を与えられ、再婚します。もちろん、すべてがうまくいくというわけではなく、店は開店休業の時もあるといいます。けれども、山本さんは言います。
 私たちがどうであれ、(教会の礼拝に出席することで)大切にしてくれる神の愛に触れられる。個人経営者が陥りがちな孤独にも陥らないで済む。
そんなクリスチャンとして歩む山本さんは、自分の人生をこのように語っています。
 かつての自分は力任せに生きていたが、今は違う。聖書に「力を捨てよ」とある。神が共にいてくれるのだから。
 自分の力で生きるのではなく、共にいてくださる神の愛を信じ、ゆだねて、生かされて生きる。そんな人生を山本聖悟さんも、そして目を癒された人も歩み始めたのです。

 イエスを主と信じた彼に、人生の恵みと癒しが見えた彼に、主イエスは言われました。「こうして、見えない者が見えるように、見える者は見えないようになる」(39節)。彼は、主イエスによって見えるようにされたのです。
 けれども、この一言に、一緒にいたファリサイ派が「我々も見えないということか」(40節)とかみつきました。彼らは、自分は見えている。神の御心(みこころ)が見えている。だから自分は正しい人間だと自負している人々でした。そういう思いで、他の人々を非難し、裁きました。自分の力で生きていました。その生き方に「罪が残る」(41節)と主イエスは言われました。
 真実を探している者を信じよ。真実を見つけた者は疑え。
フランスの文学者アンドレ・ジイドは、このように言いました。真実を見つけた、と言う人、つまり「見える」(41節)と言い張る人々の真実を鵜呑みにせず、吟味せよ、と言うのです。ファリサイ派の人々は、まさに“真実を見つけた”と主張する人でした。彼らの見つけた宗教の真実を疑い、主イエスは神の御心を探し続けて歩まれました。
 人生の真理、真実は、そう簡単に見えるものではないと思います。見えた、と思っても、部分的であったり、暫定的であったり、完全なものではありません。だから、私たちは探し続けるのです。神を探し続けるのです。愛と希望を探し続けるのです。人生に、ピンチとう名の信仰のチャンスは大なり小なり何度も訪れるのです。その中で、私たちは、生かされて生きている恵みを探し続けるのです。
その意味で、私たちは生涯“求道者”です。洗礼を受けてからも探し続ける者です。主イエス・キリストとの出会いを感謝して、一人ひとりの人生に込められている“恵みの宝物”を探しながら、進みましょう。



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