坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年12月23日 待降節アドヴェント第4主日・クリスマス礼拝説教「幼子が共にいる喜び」

聖書  マタイによる福音書2章1〜12節
説教者 山岡 創牧師 

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


          「幼子が共にいる喜び」   
 12月2日から、イエス・キリストの誕生祭・クリスマスを待ち望むアドヴェントという期間を過ごして来ましたが、今日はアドヴェントの第4の日曜日、クリスマス礼拝の日を迎えました。イエス・キリストのお生まれを祝い、礼拝するために、今日、私たちはこの教会にやって来ました。言わば、私たちは、現代における“占星術の学者たち”だと言ってよいでしょう。

 イエス・キリストを最初に礼拝した人物として、マタイは、「占星術の学者たち」(1節)を登場させています。ちなみに、ルカによる福音書のクリスマス物語で、最初にキリストを礼拝したのは羊飼いたちでした。

 占星術の学者たち、おそらくペルシアの国でマギと呼ばれた学者たちです。占星術と言えば、現代でも、雑誌や民間の報道番組等で、私たちは星占いとしてお目にかかります。自分の星座で、その日の運が良いと、ちょっと良い気分になったりします。私たちにとって占星術との関わりはその程度のものでしょうが、当時の占星術は天文学として最先端の科学と考えられていました。人々は、その判断によって農作物の植え付けや収穫の時期を定めたようです。彼らは、科学者であり、また宗教家であり、医者であり、社会の指導者でした。そういう人物が、イエス・キリストを礼拝するためにやって来たのです。
 きっかけは、彼らの専門分野である「星」でした。彼らはユダヤの都エルサレムにやって来て、呼びかけます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。彼らは、星を調べて、ユダヤ人の新しい王のお生まれを知りました。当時、ユダヤ人の間にあった救世主を待ち望む風潮が、お隣りのペルシアにも伝わっており、学者たちは、待望の救世主、神の子が生まれたと星で占ったのです。
 私たちもイエス・キリストを礼拝するために教会に集まります。今日生まれて初めて教会に来た、という人もいらっしゃるかも知れません。一人ひとり、きっかけの“星”があったと思います。

 家族や友人のお誘いがきっかけになった人もいるでしょう。キリスト教関連の本を読んで、という人もいるでしょう。教会のホームページを見て、という人もいるでしょう。この道を通りかかって、ここに教会を見つけて来た、という人もいるでしょう。教会で結婚式や葬儀をしたことがきっかけで、という人もいるでしょう。デパートやスーパーで流れている讃美歌を聞いて、教会に行ってみたくなったという人もいるかも知れません。何がきっかけになるかはそれぞれですが、私たちは皆、ここに導かれたきっかけの“星”があったはずです。
 占星術の学者たちは、星をきっかけに、イエス・キリストを礼拝するためにエルサレムにやって来ました。けれども、彼らはまだ、イエス・キリストを見つけていません。イエス・キリストと出会っていません。
 彼らはエルサレムで、「どこにおられますか」と叫んでいます。これは、文字どおりに考えれば、ユダヤ人の王、救い主がお生まれになった“場所”を尋ねる問いかけです。けれども、その裏側には、“救い主はどなたですか?”“救いとは何ですか?”という本質的な問いが込められているのです。
 私たちも教会に来ました。けれども、それだけではキリスト教が説く救いがどんなものかは分かりませんし、イエスが救い主だとも信じられません。この中には、礼拝を守りながら、占星術の学者たちのように、救い主は「どこにおられますか」と問いかけ、求めている方がおられるに違いありません。あるいは信仰を告白し、洗礼を受け、クリスチャンとなった人も、イエス・キリストによる救いを確認し続けていると言うことができます。そういう意味で私たちは皆、「どこにおられますか」と救い主を、救いを求める者なのです。

 占星術の学者たちは、「どこにおられますか」と新しい王、救い主を探し求めました。その彼らに、救い主の生まれた場所を、つまり救い主とはだれか、救いとは何かを示したものは、聖書の御(み)言葉でした。
 彼らの問いかけに、別の動機で過敏に反応したヘロデ王が、祭司長、律法学者たちを集めて問いただしたところ、6節に引用されている預言者の言葉が提示されました。これは、旧約聖書・ミカ書5章1節の御言葉です。この御言葉によって、救い主はベツレヘムに生まれることが示されました。言い換えれば、キリスト教による救いは、聖書の御言葉によって私たちに示される、ということです。

 余談ですが、聖書の御言葉からイエス・キリストの場所を学者たちに伝えたのは、ヘロデ王でした。王は、新しい王の誕生という噂に、自分の地位が脅かされるのではと不安を感じ、その不安の芽を摘むために、学者たちを利用して新しい王、救い主の生まれた場所を突き止めさせ、抹殺しようと企てたのです。その意味では、ヘロデ王からの情報は、単純に喜べるものではありません。けれども、それによって学者たちはイエス・キリストを捜し当てることができました。だから、そのようなマイナスなものによってさえも、救い主が、救いが示されるきっかけや動機になることがあるということです。私たちにとって、不都合な出来事であったり、なかなか解決しない問題であったり、失敗や挫折(ざせつ)、苦しみや悲しみ、そういった人生のマイナスと思われるようなものが、教会に足を運び、聖書の御言葉を真剣に聴かせる動機になることがあり得るのです。私たちの人生は、何が自分を救いへと導くか分からない、もしかしたらすべては救いへとつながっている、そういう希望に満ちているかも知れないのです。
 話を戻しますが、ヘロデ王を通して聖書の御言葉を聞いて出かけた学者たちは、再びきっかけの「星」を見出しました。星は「幼子のいる場所の上に止まり」(9節)、学者たちは「その星を見て喜びにあふれた」(10節)といいます。きっかけの星が“喜びの星”に変わるのは、つまり、“あのきっかけがあってよかった。私は救いへと導かれた”と喜べるのは、聖書を通して、救い主イエス・キリストと、キリスト教の救いの内容と出会った時です。
 では、その救いの内容とはどんなことでしょうか。11節に「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と書かれています。今までこの聖書の箇所を何度も読んで来て、ほとんど注目していなかった、読み飛ばしてきた節でした。けれども、今回はなぜか、この御言葉に最も注意を引かれました。
 そのきっかけは、どうして「母マリアと共に」なのだろう?どうして父ヨセフは出て来ないのだろう?という疑問でした。そして、思い巡らしているうちに、これは1章18節以下と対になっている言葉ではないかと思ったのです。

 先週の礼拝でお話しましたが、1章18節以下で、ヨセフは、自分に覚えがないのにマリアが身ごもっていることを知り、苦悩します。一度は離縁を決心しますが、夢の中で、マリアの子は神の聖霊によって宿ったのだ。恐れずマリアを妻としなさいとの神のお告げを受け取ります。そして、聖書を通して「神は我々と共におられる」(1章23節)という御言葉が示されました。それは、訳が分からず、どうして良いかも分からず、人に知られたら何を言われるかと不安を感じるような現実とその問題の中で、神はあなたと共にいる。あなたを孤独の苦悩の中には置かない。わたし(神)が、あなたの“味方”として、目には見えないけれどそばにいる。あなたを受け入れ、励まし、支える、という意味であり、苦しみを背負って生きていく慰めとなり、希望となる神の約束でした。
 その約束が、2章においては、マリアにも与えられている、ということだと気づかされたのです。ヨセフが苦悩したように、マリアはマリアで、深く苦しみ悩んだに違いありません。もしかしたら、死んでしまおうとさえ思うほどに、苦しみ悩んだかも知れません。その苦悩は、もし自分は独りぼっちだ、だれも私の悩みを聞いてくれる人はいない、苦しみを分かち合い、支えてくれる人はいない、共にいてくれる人はいない、と感じたら、実行に移されていたかも知れません。
 けれども、マリアにもきっと、神のお告げがあったに違いないのです。わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたの味方となり、話を聞き、苦悩を分かち合い、支える。この神のメッセージを聞いたに違いないのです。

 ルカによる福音書1章によれば、マリアのもとにも天使が現れて、聖霊によって身ごもることを告げています。その際、天使は、マリアに親族のエリサベトのことを紹介しています。それを聞いてマリアは、急いでエリサベトのもとに向かい、3カ月の間、その家に滞在したと記されています。マリアはきっと、エリサベトに、自分の胸の苦しみを打ち明け、聞いてもらい、癒(いや)されたに違いありません。
 あなたと共にいる、と言われる神は、共にいてくれる人を備えてくださいました。共にいる人を通して、神が共におられることを味わわせてくださいました。エリサベトと共に過ごす日々の中で、マリアは、人生とは、神が共にいてくださるもの、言い換えれば、愛によって支えられているものと示され、それを信じたのです。
 ヨセフだけでなく、マリアもまた、自分と共に神がいてくださることを信じました。だからこそ、ヨセフとマリアは離縁するのではなく、神が共にいてくださるから、自分たち二人も、苦しみを分かち合い、共に生きていく道を選びました。クリスマスに私たちに告げられる喜びとは、苦しみ悩みのない、単純な喜びではなく、苦悩の中に輝く喜び、苦悩の中で捜し当てる喜びなのです。

 占星術の学者たちは、マリアと共におられる幼子イエス・キリストを捜し当てました。言わばそれは、神が人と共にいてくださる人生の真理を捜し当てた、と言ってよいでしょう。人生の慰めを、励ましを、喜びを捜し当てた、それがまさに私たちにとっても“救い”なのです。
 けれども、彼らはまだ見つけたに過ぎません。その救いを、人生の実感として、まだ身に付けたわけではないのです。学者たちは、ここから信仰の人生、救いの旅を始めると言ってよいでしょう。

 彼らは、「宝の箱を開けて、黄金、入香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物として献げた」(11節)とあります。それは礼拝なのですが、言い換えれば、自分の宝(価値あるもの)を、もっと言えば自分の人生を、神の救いを獲得するために懸けた、と言うことができます。
 先週の礼拝でも、信じるとはどういうことかという信じ方の話をしました。今日の御言葉から言えば、信じるとは、神が共にいてくださるという救いを身に付け、実感するために、自分の大切なものを懸け、自分の人生をかけて信仰生活を送るということです。

 占星術の学者たちは、イエス・キリストを礼拝して、「別の道を通って‥‥帰って行き」(12節)ました。別の道とは、神が共におられるという救いを捜し当て、その救いを自分のものとするために、自分の人生をかけて信仰生活を始めたということにほかなりません。
 私たちも、聖書を通して、イエス・キリストによってもたらされる救いを見つけ、自分のものとするために、「別の道」を、信仰の人生を歩みましょう(始めましょう)。


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