坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年1月27日  主日礼拝(大人と子ども)説教「家を建てるなら」

聖書  マタイによる福音書7章24~27節
説教者 山岡 創牧
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 

          「家を建てるなら」 

先日、三女の友だちから相談を受けました。その子は、高校で合唱部に所属していて、今度、大会でスペインのクリスマス歌曲を歌うことになったということです。けれども、その歌詞の意味がよく分からないところがあって教えてほしい、という相談でした。そこで、とりあえずメールで歌詞を送ってもらいました。占星術の学者たちが、東の方からやって来て、お生まれになったイエス・キリストを探し当てるシーンです。スペイン語とバスク語と英語の歌詞が並んでいました。その3番の歌詞の英語版を訳すと、こんなふうに訳せます。
  白い、きれいな靴  でも、紙で作ったら、雨が降ると溶けてしまうでしょう
  主よ、教えてください  出発するかどうか、を
  学者たちは ベツレヘムに急ぎます
  救いのために 私たちも行って キリストを探します
  家畜小屋にやって来た  さあ、中へ入ろう
  この小屋の中で 最高の贈り物を見つけよう
  学者たちは ベツレヘムを訪ねます。
  救いのために 私たちも行って キリストを探します
 私が解釈して訳したものなので、どこか間違っているかも知れませんが、それはさて置き、聞かれたのは、最初の歌詞の意味でした。
  白い、きれいな靴 でも、紙で作ったら、雨が降ると溶けてしまうでしょう
これはどういう意味ですか?と聞かれて、はてどういうことだろう?と考え込みました。聖書のクリスマス物語には、白い靴という言葉はもちろん出て来ませんし、私の知る限り、白い靴にまつわるキリスト教の伝説は聞いたことがありません。これは、スペインの格言か何かかな?と思いながら、長女にも話して一緒に考えてもらいました。そこで、長女が、英会話を習っているイギリス人の方に聞いたら何か分かるかも知れない、と言って、翌日、英会話教室の際に、この歌詞のことを尋ねてくれました。すると、その先生は、“聖書の中に、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の話があるでしょう。あの話の、砂の上に家を建てた人と同じことではないだろうか”とヒントをくださいました。それを聞いて、なるほど!と思いました。
 砂の上に家を建てれば、雨が降り、嵐に襲われたら、その家は壊れてしまう。それと同じように、白い靴も紙で作ったら、雨が降ったら溶けてしまう。だから、確かな土台の上に家を建てよう。しっかりした材料で靴を作ろう。そのように、私たちの人生も、イエス・キリストとその教えという確かな土台の上に建て、しっかりした材料でつくっていこう。そういう意味だと納得しました。

 マタイによる福音書(ふくいんしょ)では、5章のはじめから〈山上の説教〉と言われる主イエス・キリストの教え、言葉が続いています。今日読んだところは、その説教シリーズの最後、閉めの言葉です。主イエスの言葉を聞いて「行う者」と「行わない者」とが、それぞれ「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」にたとえられています。
 軟弱な砂の上に家を建てたらどうなるか、私たちも想像ができます。例えば、大きな地震が起きた時、軟弱な場所は液状化現象と言って、個体だった砂地が液体のようになって流れてしまい、その上に立っていた家が傾いてしまう様子を、ニュース等で見聞きすることがあります。だから、砂の上に家を建てるのではなく、岩のようなしっかりした地盤に家を建てよ、と言われる主イエスの教えはよく分かるでしょう。そして、人生という名の家を、人生の雨風や洪水、つまり悩み苦しみや悲しみが起こっても、あきらめず、投げやりにならず、絶望せずに生きていける人生を造り上げていくために、ご自分が語る言葉を聞き、神を信じて、その教えを行うことだと主イエスは言うのです。
 人生、あきらめず、絶望せずに、生き生きとポジティブに生きていくためには、何か頼れるものが必要だということは、ほとんどの人が納得するところでしょう。その頼るものを何にするかが問題なのですが、主イエスは、それは神の言葉だと言うのです。神の言葉を土台とし、それを聞いて行うことによって確かな人生を造り上げていきなさい、と言うのです。

 けれども、「行う」という言葉には注意が必要です。「行う」というのは、誤解を招きやすい言葉です。「行う」ということは、単純に考えれば、主イエスの教えを、自分の生活の中で実行するということです。それは、いわゆる“善い行い”をすることだ、と私たちは考えがちです。人生、善い行いをすることは確かに良いことです。
けれども、善い行いをすることが確かな人生を造り上げる“条件”だとしたら、それはきついのではないでしょうか。“行う”ことが、確かな人生の条件、言わば“救い”の条件なのだとしたら、私たちは必ず、その行いというものに行き詰まるに違いありません。マタイによる福音書5〜7章の山上の説教で言われている行ないだけでも、きっと行き詰まります。私たちは、主イエスの教えを本気で行おうとすればするほど、それができない自分に打ちのめされることになります。その結果、ともすれば“こんな自分は神さまに愛されないんだ、救われないんだ”“確かな人生なんて私にはつくれないんだ”と信仰的にも絶望することになりかねません。
 けれども、主イエスが「行う」と言っていることは、そういう意味ではないのです。主イエスの当時、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教徒がいました。主流派でした。彼らは、律法という掟に定められている神の教えを熱心に行いました。それを行うことによって、神に認められ、愛され、神の国に入ることができると考えたからです。
 けれども、ユダヤ人の中にも、神の教えを行うことのできない人が少なからずいました。そういう人を神に愛されない、神の国に入ることができないとファリサイ派は軽蔑し、差別しました。そのように見なされ、扱われた人は、ユダヤ人社会の中で、肩身の狭い思いで、絶望し、投げやりになり、それでも一筋の光を求め、一縷(いちる)の望みを求めて生きていたのです。そういう人々のところへ、主イエスは行かれました。交流されました。慰めと励ましの言葉をおかけになりました。あなたも神に愛されている神の子なのだ、と。そう言って主イエスは癒(いや)しました。赦(ゆる)しました。認めました。愛しました。
 そのような主イエスが言われた「行う」という言葉です。単純に、神の教えを行うことだ、善いことを行うことだ、とは思えません。
 マタイによる福音書の山上の説教、特に6章後半の〈思い悩むな〉との教えや福音書全体からも読み取れることですが、主イエスは、行いを神の救いの条件とは考えていないのです。こちらが行うか、行わないかにかかわらず、神さまは私たち一人ひとりを愛しておられる、と言うのです。私たちは、たとえ神の教えを行うことができなくても、何かができなくても、結果が出せなくても、失敗しても、神さまに愛されている人間なのです。何かができなければダメだ、自分には価値がない、なんて思わなくていいのです。いつでも、どこでも、どのようであっても、自分は神さまに認められ、愛されている人間だと信じてよいのです。信じて、安心して良いのです。“自分はだいじょうぶだ”と、“自分はこれでよい”と思っていてよいのです。
 イエス様が言う“行う”というのは、このことです。信じて、安心することです。自分は、いつでも、どこでも、どのようであっても、できなくても、神さまに愛されている人間だと信じることです。信じて“だいじょうぶ”“これでよい”と今の自分を肯定し、受け入れることです。この信仰を身につけること、それが主イエスの言う“行う”ということです。この信仰こそが、あきらめず、投げやりにならず、絶望せず、安心して生きていける人生の土台となるのです。
 “行い”という言葉で考えるならば、この“信仰”こそ、まず最初にすべき行いだと言えるでしょう。そして、信仰から生まれるその後の行いは、もはや“それをしなければ救われない”という条件にはならず、もう既に愛され、救われた人が、神さまに感謝して行う“応答行為”となるのです。

 人生の土台を、神の愛を信じる信仰と定めて生きていく。昨日、大宮教会で、埼玉県にある諸教会の子どもの礼拝や活動(教会学校)に携わっている人たちのためのCS教師研修会が開かれました。『こころの友』という教団が毎月発行している伝道冊子に、新居浜教会の子ども食堂のことが連載されています。その記事を書いている広瀬香織牧師を新居浜教会からお迎えして、〈教会を子どもの居場所に〉というテーマでお話を伺い、質疑応答と分かち合いの時間を持ちました。私たちの教会からも3名が参加し、お話を聞きました。
新居浜教会に、一人の中学生の男の子が“いじめられている。かくまってくれ”と飛び込んで来たことをきっかけにして、その子と関わっているうちに、その子の兄弟が来るようになり、友だちが来るようになり、彼らが安心して居られる居場所を作ろうと、子ども食堂が始まりました。今では、高齢の方や色んな人が集まって、地域の人たちの交流の場にもなっているようです。
子供の中には、親から食事を満足に与えられていない、虐待(ぎゃくたい)を受けている、といった子たちも少なくなかったようです。そういう子たちの話を聞き、勉強を教え、食事を一緒に作り、一緒に食べ、家や学校を訪ね、そういう働きを通して先生が、新居浜子ども食堂が子どもたちに提供していたものは、愛だと思います。神の愛だと思います。人が、いつでも、どこでも、どのようであっても、何もできなくても、その人のままで愛されている、という恵みです。その神の愛に、子どもたちの居場所をつくろうとしている。この愛を土台として、みんなの居場所をつくろうとしているのだと思います。そして、その場所、先生にとっても大切な居場所になっているのです。神の愛の下に、互いに愛し合う場所、互いに愛し合う関係の中に、私たちは自分の“居場所”を持てるのです。

 人生は、何の上に建てるかが、本当に大事です。言い方を変えれば、どこに自分が安心して居られる居場所を定めるか、ということです。神の愛を居場所とせよ。神の愛の上に自分の家を建てよ。主イエスが私たちに語りかけているのは、このことです。

 

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