坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年2月17日 主日礼拝 「復活を信じるか」

聖書  ヨハネによる福音書11章17~27節
説教者 山岡 創牧師

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

          「復活を信じるか」 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25~26節)。

 もしも主イエスが今、私たちの目の前にいて、あなたに、このように問いかけたとしたら、あなたは、「はい、主よ」(27節)とマルタのように答えることができるでしょうか。もし私自身が問いかけられたとしたら、一瞬答えに詰まってしまいそうです。イエス様のこの言葉は、いったいどんな意味だろう?今日の聖書箇所を黙想し、説教の準備をしながら、そのように考えている自分がいるからです。

 けれども、聖書の言葉、主イエスの御(み)言葉は、深く考えることも大切なのですが、同時に、何かを感じること、何かを感じて単純に信じ、受け入れることも大切だなぁ、と思うのです。この御言葉は、その一つかも知れません。

 この御言葉を読むと、私の印象に強く残っていて、いつも思い起こす方がいます。佐古純一郎という、中渋谷教会の牧師を務められた先生です。佐古先生は、1945年の太平洋戦争終了後、生きて対馬の戦地から帰還しました。けれども、放心状態のような心で毎日を過ごしておられたといいます。そんな中で、佐古先生は聖書と出会いました。そして、1948年に中渋谷教会で洗礼を受け、クリスチャンになるのですが、そのきっかけとなった御言葉が今日の25~26節だったということです。「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」という主イエスの力強い語りかけに、佐古先生は、何かうまく言えないけれど、とても感じるものがあったようです。「このことを信じるか」という主イエスの問いかけに、佐古先生は、「はい、主よ」(27節)、信じます、と答えて、洗礼をお受けになったのでしょう。

 復活とか命ということに関わる聖書の御言葉は、理屈で考えるよりも、自分が置かれた人生の現実から何かを感じ取ることができた時、自分の心に強く響いて来るのです。

 

 マルタは、兄弟であるラザロが死んで、まだ4日目でした。愛する者を死によって失った現実、その悲しみと喪失感の中に置かれていました。いや、まだ、そうした悲しみや喪失感を感じる暇もないぐらい、お葬式で忙しくしていたかも知れません。

 そこに、主イエスの到着が告げられます。お葬式のために忙しく立ち働いていたであろうマルタに、立ち止まる時間が与えられます。マルタは数日前に、ラザロが病気です、と主イエスに伝えていました。けれども、主イエスはすぐに来てはくださらなかった。そのためにラザロは死んでしまった。悲しみと共に、主イエスに対する恨み、怒りのような気持が、主イエスを迎えに行くマルタの胸にふつふつと沸き上がって来たことでしょう。その思いが、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)という恨みがましい言葉となって現われています。

 話が少しズレますが、マルタの言葉に、イエス様に対して、神さまに対して、恨みや怒りの気持をぶつけても良いのだろうか?と思った方もおられるかも知れません。私たちは神さまに対して、賛美や感謝、悔い改めをおささげするべきで、自分の気持が言えるのは、せいぜい願いまで‥‥と考えてはいないでしょうか?

 いや、そんなことはないのです。私たちは、苦しみや悲しみの気持を、時には恨みや怒りさえも神さまにぶつけてよいのです。旧約聖書の詩編を読めば、あるいはヨブ記を読めば、それがよく分かりました。その中に出て来る信仰者たちは、神さまに対して、賛美や感謝、悔い改め、願いはもちろんのこと、苦しみ、悲しみ、恨み、怒りを、神さまに告白し、ぶつけています。そのようにして、苦しみや悲しみ、恨みや怒りさえも、ただ神さまに聞いてもらい、受け止めてもらう。あるいは、それに対する神さまの慰めや励ましを期待する。要するに、最も親しい、最も甘えられる、自分をさらけ出せる相手とのコミュニケーションなのです。そういう神さまとのコミュニケーションが、私たちの祈りと、神さまからの御言葉によって成り立つのです。

 そして、そのコミュニケーションの中で、私たちは、大切なことを、人生の真理を知らされるのです。復活ということも、命のことも教えられて、何かを感じるようになっていくのです。

 

 マルタも、素直に、恨みや怒りから始まって、主イエスとコミュニケーションすることによって、「はい、主よ」と答え、信仰へと導かれています。けれども、その途中ではやはり、チグハグと言いましょうか、主イエスの言葉がマルタに伝わっていないと思います。それが、対話によって深められ、伝わるように、感じるようになっていくのですが、主イエスとマルタの間で、チグハグだ、ズレていると思ったのは、「復活」の理解と信仰です。

 マルタに対して、主イエスは、「あなたの兄弟は復活する」(23節)と言われました。それに対して、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と答えました。

 当時のユダヤ人は、すべての宗派ではありませんが、かなりの人が「終わりの日の復活」を信じていたようです。この世が新たに、神の国に造り変えられる終わりの日が来る。その時、死んで眠りについていた人が復活し、新しい世界で生きる者となる。その信仰をキリスト教も受け継いでいます。「終わりの日の復活」を信じています。

 けれども、微妙に違うのは、「終わりの日」と新しい世界の理解です。新約聖書の中にも、ユダヤ教の信仰と入り混じった痕跡があるのですが、私たちは、新しい世界を、この世とは何か別の次元にある命の世界として信じています。それを“天国”と呼んでいます。そして、「終わりの日」を、人が死を迎える時と受け取って、この世界で死んだ者は天国に迎え入れられて、そこで永遠に生きるようになる。そのように「復活」を信じているのです。

 けれども、主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われたのはどうも、マルタが言う「終わりの日の復活」とは違う、少しズレているようです。マルタが口にした「終わりの日の復活」という信仰に対して、主イエスは、単純に同意したのではなく、「‥わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたわけです。だから、マルタが理解している復活とは、少し違うことを言おうとされたのだと思うのです。それは、終わりの日ではなく、“今”の復活でしょう。

 主イエスはこの後、死んだラザロを生き返らせます。けれども、「死んでも生きる」という言葉は、死んだ人が、主イエスを信じたら生き返る、ということだとは思えません。また、ラザロはその後、寿命を迎えて死んだでしょうから、「‥決して死なない」ということが、地上で死なずに永遠に生きることだとは考えられません。

 主イエスが言われているのは、そういった生物的な生命のことではないでしょう。生物的な生命とは別の命、命の本来の在り方と言いましょうか、そして本来的な命というのは永遠に変わることがない、そういう“命”のことを話しておられるのだと思うのです。

 

 そんな“命”を思い巡らしていて、昨年の『信徒の友』4月号の特集を改めて読んでみました。〈イースター〉という復活についての特集で、その中に、横内美子さんという方の〈神学校での学びに導かれて〉という証しがありました。

 横内さんは現在、町田市にある農村伝道神学校で、2年間の信徒コースを学んでおられます。牧師になるのではなく、信徒として教会を支え、伝道をしていくために学ぶコースです。そこに至るまでに、もちろん信仰生活の経過や家族との関わりがあるのですが、横内さんは2007年のクリスマスに長野県の松本教会で、夫と子ども二人、また夫の両親と一緒に、6人で洗礼を受け、クリスチャンになったということです。とても珍しいケースだと思いますが、洗礼に至る経過、事情を知ると、分かる気がします。

 横内さんは、息子が障がいを負っていて、教会に〈カンガルーの会〉という病気の親と子どもを支える会があったことから、家族で教会に通い、求道生活をしていました。夫は長らく肝臓を患っており、洗礼を受ける数ヶ月前に余命半年と宣告されました。そこで横内さんの肝臓の一部が移植されることになりました。その時の様子を、横内さんは次のように書いておられます。

 人間には限界があることを数々の出来事で思い知った私ですが、それは夫も同じでした。求道する中で、理屈ではなく、み言葉により命と向き合うことを教えられました。それはキリストが蒔かれた種だったのだと思います。

 移植手術を前に、高校生だった娘は、両親が帰らぬ人になるかも知れないと、息子と話し合ったそうです。姉としては弟に障害があるのでたいそう心配して、こんなに深く祈ったことはないくらい祈ったそうです。そのため、移植手術を無事終えた後、夫婦で受洗する意思を子どもたちに伝え、「あなたたちはどうする?」と尋ねると、おのおのすぐに同意しました。そして、驚いたことに義理の両親、とりわけ頑固一徹だった義父も「子どもたちの信じるイエス・キリストを私も信じる」と言うのです。私たちの住まいは農村で、一家そろって改宗など珍しいことでしたから、信じられませんでした。神の御業(みわざ)に驚くばかりでした。

 当初、私たち夫婦だけの受洗と考えていたので神さまを信じて生きていくのだという覚悟のような思いでしたが、家族での受洗となったので、洗礼式の日は皆でただただ感謝して家路につきました。

 横内さんの夫は、その5年後に59歳で天に召されたそうです。けれども、子どもの障がい、夫の病を通して教会に導かれ、聖書のみ言葉によって命と向き合うことを教えられた。きっと人間の限界を知り、命が自分の手の中にはなく、神さまの手の中にあることを理屈抜きに感じられたのだと想像します。そして神さまを信じて生きて行こうと決心した。その姿を見ていた子供たちも、両親も、たぶん聖書の教えなど、まだほとんど分かっていなかったでしょうが、素直に信じて行こうと決心された。その生きざまには確かに、生物的な生命とは違う命があります。神さまを信じ、神さまと共に、神さまの愛の中に生かされて、“よろしくお願いします”と神さまにお任せして生きる、命の本来があると思うのです。

 

 生物的な生命とは違う、もう一つの命を持って、その命を生きる。私は、25~26節の御言葉から、自分自身のこととして、ふと、子どもが不登校になった時のことを思い出しました。子どもが不登校になると、大抵の親は焦って、何とか子どもを学校に行かせなければと考えます。私もそうでした。けれども、無理に子どもを登校させれば、かえって子どもの心は傷つき、安心して居られる場所を失ってしまいます。私はその時、この子には、もう一つのワールドがあるから、無理に学校に行かせないでいい、待つことにしようと考えることにしました。子どもが、学校というワールドしか持っていなかったら、不登校になったら、ひきこもりになってしまう恐れがあります。けれども、この子には教会という、もう一つのワールドがある。日曜日ごとに出て来て、そこで教会の友だちと交わりを持つことができる。だから、それでいいだろうと考えたのです。

 それが、言わば、神さまの愛の下にあって、もう一つの命を生きていると考えてもよいのではないか、と思いました。主イエスを信じ、主イエスを通して神さまと共に生き、神さまの愛の中で生きる時、私たちは今、「決して死なない」命という恵みを生きることができるのです。「このこと(恵み)を信じるか」と主イエスから問われた時、「はい、主よ」とお答えして、信じたいという願い、信じようとする思いを持って生きていきましょう。

 

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