坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年3月17日 受難節第2主日礼拝説教「もし信じるなら」

聖書  ヨハネによる福音書11章45~57節
説教者 山岡 創牧師

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

          「身代わりの死」  

 スケープ・ゴートという言葉があります。“贖罪(しょくざい)のヤギ”という意味です。元々、旧約聖書・レビ記16章に由来する言葉です。イスラエルの人々が、神さまに対して、自分たちの罪を償うために、すべての罪を一匹のヤギに背負わせて、自分たちの身代りに、荒れ野に放つのです。

 そこから転じて、一般的には、責任を転嫁するための身代りとか、不満や憎しみを他へそらすための身代わりのことを、スケープ・ゴートと言います。例えば、20世紀前半に世界恐慌が起こって、ドイツが不況に陥った時、ナチスが台頭し、ヒトラーが国民の不満をユダヤ人に向けさせ、大虐殺を行いました。ユダヤ人はドイツ国民の不満のスケープ・ゴートにされたわけです。日本でも関東大震災の時に、多くの在日朝鮮人が殺されたことが、スケープ・ゴートの例として取り上げられていました。

 私たちの身近なところでは、学校でいじめが起こる時、一人の子どもがスケープ・ゴートとして、何かしらみんなの不満のはけ口にされていたり、家庭では親の不満のはけ口として、子どもが虐待されているという場合があります。また、企業や組織などでも、不正や失敗を取り繕うために、一人の人間もしくは一部の部署に責任が転嫁されることがあるかも知れません。(日産のカルロス・ゴーンさんが、それかどうかは分かりませんが)

 

 主イエスは、ユダヤ人全体のスケープ・ゴートにされようとしていました。大祭司カイアファは、主イエスのことで、こう言っています。

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50節)。

カイアファは、主イエスをユダヤ国民のスケープ・ゴートにしようと考えたのです。

 11章の直前の箇所で、主イエスが、死んだラザロを生き返らせた奇跡が記されています。そのため、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれています。

 その様子を見て、ファリサイ派の人々や祭司長たちは、不安を抱きました。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいのだろうか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47~48節)。

つまり、ユダヤ人滅亡の不安です。

 当時のユダヤ人はローマ帝国に戦争で敗れ、支配されていました。ユダヤ人は屈辱に耐えながら、何とかして独立を回復したいと願っていました。そのために反乱と独立運動のリーダーとなり得る英雄(救世主メシア)を、神さまが遣わしてくださることを祈り、期待していたのです。

 そういう風潮の中に、主イエスが現れた。病を癒したり、嵐を静めたり、5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させたり、ラザロを生き返らせたりしている。民衆は、この人こそ救世主と期待して、主イエスをリーダーに担(かつ)ぎ、反乱を起こすかも知れない。

けれども、強大なローマ帝国が黙っているはずがない。彼らは反乱を鎮圧するだろう。もし反乱の規模が大きければ、鎮圧だけでは済まない。全国民的な反乱となれば、今後のためにローマ帝国はユダヤ人を滅ぼすだろう。

 それが、祭司長やファリサイ派といった指導者たちの不安でした。民衆はローマの支配に屈辱を感じ、独立を期待していましたが、指導者層である彼らは、一定の自治権を認められていたので、その現状が崩れ去ることは不都合だったのです。

 そこで、彼らは、現状を守るために、ユダヤ人の自治権と自分たちの地位や権益を守るために、主イエスをスケープ・ゴートにしようと考えました。主イエスを、ローマ帝国に反対する政治犯に仕立て上げ、自分たちで捕らえ、ローマ帝国に差し出すことで、ユダヤ人の滅びを免れようとしたのです。

 

 このように、大祭司カイアファは、主イエス一人を犠牲にして、国民全体が滅びないように、自分たちの地位と権益を守るようにと提案しました。その発言を、福音書を書いたヨハネは、「預言」だと見なしています。

「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬと言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子を一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 「預言」というのは、神の言葉を預かって語る、ということです。つまり、神の御心(みこころ)を、神のご計画を語る、ということです。神の御心、神のご計画は、カイアファが提案したように、ローマ帝国の軍事力から国民を守る、という意味ではありません。そうではなくて、罪の力から、ユダヤ人を、散らされている神の子たちを守り、救うという意味です。つまり、罪の力ために神さまの愛から引き離されている人々を、神さまの愛のもとに引き戻すために、主イエスがスケープ・ゴートとなり、身代わりとなって死ぬ、ということです。

 これはもちろん、カイアファが「自分の考えから話した」ことではありません。カイアファはただ、国民を滅びから守るため、自分たちの地位と権益を守るため、主イエスを犠牲にしようと言っただけです。それがカイアファの考えです。

 けれども、神さまというお方は不思議です。神さまの御心など、まるで考えていないような人間の考えや行動を通して、ご自分の御心、ご自分のご計画を遂行されるのです。そういう意味で、私たちが自分の考えで取る行動とその結果の背後で、神さまはご自分の愛の御心、愛のご計画を進めておられるのです。当初は分からないかも知れませんが、後になって、神さまの愛の御心、愛のご計画に気づくことがあるかも知れません。“今”そのことを信じ、“後で”そのことに気づく。それが信仰です。信仰によって生きる、ということです。

 主イエスはこの後で、十字架に架(か)けられて処刑されます。それは、カイアファたちの思惑から見れば、国民と自分たちの権益を守るために主イエスを犠牲にしたということであり、ローマ帝国からすれば政治犯を処刑したということです。けれども、神の御心からすれば、ユダヤ国民を、散らされている信じる者たちを、罪から救い、神の愛のもとに引き戻し、愛において一つとするために実行された“救いの御業(みわざ)”だということです。主イエスの十字架刑を、そのように信じることが、そして、主イエスの十字架は“私”を救うためだと信じることが、すなわち信仰です。その救いが、その愛がきっと、一人ひとりの人生にも隠されています。込められています。

 

 クリスチャンの小説家であった三浦綾子さんのことは、ご存じの方も多いと思います。その三浦綾子さんが、『光あるうちに』という著書の中で、次のように書いておられます。

 わたしが聖書を読みはじめて、何が一番理解できなかったか、いや、信じられなかったかというと、イエスが神の子であるということだった。イエスだって人間じゃないか。女から生まれた人間に過ぎないじゃないか。わたしはイエスが神の子と聞かされる度にそう思い、そして反発した。(上掲書127頁)

 そんな三浦さんが、結核で脊椎カリエスを病む闘病生活の中で、聖書を通して主イエスの深い愛に触れ、イエスは神の子であると信じるようになります。そして、イエスがどうして“人間”ではなく、“神の子”でなければならないのか、について、それは、私たち人間の罪が赦(ゆる)されるためには、“神の子”の命の身代りが必要だったのだと書いています。

 ここにきて、わたしたち人間は、罪の前に全く無力であり、人間自身ではどうにもしようのないことを知らされる。しかし、それ故にこそ神は神の子をこの世に遣わされたのだ。‥‥‥つまり、神の子は十字架にかかられて、全人類の罪を、神の前に詫びるために、この世に来られたのだ。これがキリストへの信仰なのだ。

 神の子イエスは、全く清い方であられたからこそ、わたしたちの罪を贖うことができたのだ。これが、豚や犬の命では罪はゆるされはしない。犬、畜生にも劣る人間の世界では、人間の命をもってしても、罪はゆるされない。どうしても、神の子でなければならなかったのだ。(上掲書142頁)

 確かに、イエスが神の子だ、神だという教えはなかなかピンッと来ないかも知れない。イエスが人間のために、“私”のために、身代わりとなって罪を償うために十字架にかかられた、なんていうことは、全くもって信じられないことかも知れません。けれども、自分の姿を、自分の心を深く見つめ、自覚していくうちに、自分の力では自分をどうしようもないことを知り、神にすがり、神の憐れみを祈るようになっていくでしょう。その時、主イエスが十字架におかかりになったことの意味も、私たちの胸にストンと納得されるようになっていくのではないでしょうか。人は自分の力で生きているのではなく、生きられるものでもなく、もっと大きな力に赦され、生かされているのだ、と。

 

 ところで、主イエスの苦しみを心に刻む受難節レントが始まって、礼拝堂の十字架には、いばらの冠が掛けられています。主イエスが十字架刑に処せられる時、無理やりかぶらされた冠です。夜、講壇の天上の電灯だけを付けると、後ろの壁に影ができます。いばらの冠を掛けていると、十字架の影と重なるようにハートの形の影ができます。それはまるで、主イエスの十字架刑によって示された神の愛を表わしているかのようです。

 その影を見ながら、私はふと、罪とは、私たちが神の愛を見失い、忘れ、気づかずにいることではないだろうか、と思いました。聖書が言う罪とは、法を破る犯罪とは少し意味が違います。法には引っかからないけれど、人の悪い心や悪い行い、言葉なども罪と考えます。けれども、そんな罪人の私たち、失敗や欠点の多い私たち、この世から見放されているかのような、取るに足りない私たちに、神の愛は、主イエスの十字架を通して無償で注がれているのです。

 けれども、私たちはその愛を見失います。自分の力で何とかしよう、何とかしなければと思い、どうにもできない現実に、変われない自分に打ちのめされて、こんな私ではダメだ、救われないと自分を否定します。苦しみや悲しみの中で、こんな人生に神の愛などあるはずがない、とあきらめ、気づかずにいます。神の愛を信じることができず、自分を愛し、自分を受け入れることができない。それが、私たちの陥りがちな姿なのかも知れません。

 けれども、実はそこに、神の愛は注がれている。“私”のために、主イエスは十字架にかかり、命を捨ててくださることによって、神の愛を示してくださったのです。この愛を信じたら、人生、捨てたものではありません。

 

 

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