坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教「馬に乗る王か、ろばに乗る王か」 

聖書  ヨハネによる福音書12章12~19節
説教者 山岡 創牧師
12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」
12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

    「馬に乗る王か、ろばに乗る王か」  

 私たちの信仰は、もしかしたら“誤解”なのかも知れません。聖書に書かれていることがよく分かっている。そんなふうに思っているとしたら、それは過信であり、傲慢(ごうまん)なのでしょう。私も牧師の一人ですが、牧師などは特に気をつけないと、自分はよく知っていると思い、更には自分の信仰は正しいと思い込みがちになります。よく知っていると思いながら、自分の期待や考えを神さまに押し付けているだけかも知れません。
 あるいは、聖書をよく知っているとは思わない、むしろ難しくて、よく分からないと感じている方も少なからずおられるでしょう。分からないと思っていれば、偉そうにしたり、自分は正しいと主張したりすることはないでしょうが、分からないからこそ、そこに自分の期待や思い込みや価値観が入って来て、それが本来の信仰とすり代わっているかも知れないのです。例えば、神さまは罰(ばち)を当てません。けれども、何か不都合な、良からぬことがあると、“神さまの罰が当たった”と思うことがあります。また信じたら自分の願いを聞いてくれるのが神さまだ、と思っていて、願いが聞かれないと、“どうして神さまは叶えてくださらないのか。神さまなんて、信じても無駄だ”と考えたりします。それは、聖書のこと、信仰のことが分かっていないがための誤解でありましょう。

 エルサレムの人々も、自分たちの期待や思い込みから、主イエスのことを誤解しました。過越の祭りのためにエルサレムに集まっていた大勢の群衆は、「主イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出」(12~13節)ました。そして、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。イスラエルの王に」(13節)と叫び続けたといいます。彼らは、「イスラエルの王に」と叫んでいますが、なつめやしの枝を持って迎えるのは、戦いに勝利して凱旋(がいせん)する王を迎える伝統の作法でした。つまり、人々は主イエスに、戦いに勝利する英雄としての王の姿を期待していたのです。
 当時のユダヤ人には英雄が必要でした。自分たちを導く強力な王が必要でした。と言うのも、当時ユダヤ人はローマ帝国に支配され、独立を失っていたからです。屈辱を耐え忍んでいたユダヤ人は、ローマの支配を打ち破り、独立を勝ち取り、王国イスラエルを復興したいと願っていました。そのために、神さまが英雄を遣わしてくださると信じ、祈っていました。それが彼らにとっての王であり、救世主です。
 今日の聖書箇所の直前にある11章では、主イエスが死んだラザロを生き返らせる奇跡が記されています。それを目撃した多くの人々が主イエスを信じました。主イエスが祭りに参加するために、エルサレムの隣町のベタニアに来ていることが知れ渡り、主イエスのもとに大群衆が押し寄せたことも12章9節以下に記されています。
 人々は、ラザロを生き返らせる主イエスの力に、神の後ろ盾を感じ、期待しました。その力で自分たちを導き、イスラエルを復興する王を期待しました。「世をあげてあの男(イエス)について行った」(19節)のは、そのためです。
 けれども、当の主イエスは、そのようなことは考えもしていませんでした。主イエスのお考えは、ろばの子にお乗りになったことで、はっきりと示されています。ろばの子に乗ったのは、旧約聖書・ゼカリヤ書の預言に従ってのことでした。つまり、預言によって示された神の御心(みこころ)に従ってのことでした。15節にその預言が引用されていますが、ゼカリヤ書9章9節(旧約1489頁)には次のように記されています。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。
高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌(め)ろばの子であるろばに乗って」。
重要なのは続く10節に、こう書かれていることです。
「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。闘いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。‥‥」
 人々が期待するような王であれば、軍馬にまたがり、格好よくエルサレムに入られたことでしょう。けれども、主イエスがろばの子に乗られたのは、明らかにこの預言を知っていて、ユダヤ人の間から戦車や軍馬を絶ち、戦うことなく平和をもたらすという神の御心に従ってのことと思われます。主イエスは、力によって、戦いによって、ユダヤ人の独立を勝ち取る王様ではなく、力を捨て、戦いを捨て、ある意味で“弱き王様”としておいでになったのです。
 言い換えれば、それは“愛の王様”としておいでになったということでしょう。力と戦いの先には本当の平和はない。本当の平和を告げ知らせるためには、自分の心の中で、愛によって憎しみに打ち克っていくこと、愛によって自分の好き嫌いに打ち克っていくこと、愛によって自分の考えで人を裁いたり、差別したりすることに打ち克っていくこと、そのようにして神を愛し、人を愛する道の先に、本当の平和がある。人の救いがある。そのことを示すために、主イエスはろばの子に乗られたのです。
 そして、主イエスは、ご自分を陥れ、殺そうとする祭司長たちやファリサイ派の人々とも戦わず、力を使わず、彼らに捕らえられ、十字架に架けられて殺されてしまいます。それは一見、主イエスの敗北、主イエスの道の敗北、愛の敗北のように思われます。けれども、目に見える結果だけがすべてではありません。神さまは、十字架の死から主イエスを復活させて、愛の勝利を示してくださったのです。だからこそ、教会は、迫害や困難を乗り越えて、2千年の時を越えて、今日まで続いているのです。私たちもまた、愛の道を、愛の勝利を信じて生きるのです。

 そして、その愛のゆえに、人々の期待や願望から来る誤解も、主イエスはそのままにしておられます。今すぐに正そうというのではなく、そのままに受け止めて、いつか人々が、主イエスがろばの子に乗ったことの意味を、力ではなく愛の道を、愛の勝利を信じるようになることを期待して、待っておられるのだと私は思います。最後の最後まで、天国まで、待っていてくださるのだと思います。主イエスが人々の大歓声の中を、大きな誤解の中を、淡々とろばの子に乗って進まれるのは、そのためだと思います。
 だから、主イエスは、私たちの信仰の誤解も間違いも、そのままに受け止めて待っていてくださるのです。自分の期待や願望、価値観や思い込みを持ち込んでの信仰の誤解はダメだ、信仰失格だなどということはないのです。そんなに簡単に聖書のこと、信仰のことがすべて分かるなら、何の苦労もありません。主イエスの直弟子たちでさえ、「最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」(16節)と書かれているのですから、私たちは尚更でしょう。信仰の道を歩みながら、時間をかけて分かっていく、誤解していたことも正されていく。それでいいのです。大切なことは、聖書のこと、信仰のことを、私たちがよく分かっているから救われているのではなく、つまり“自分の力”で救われているのではなく、誤解のようでしかない私たちのつたない信仰を、つたない私たちを、神さまが受け止めてくださっているところに救いがある、ということです。誤解を今すぐに正そうとはなさらず、私たちの信仰の歩みを長い目で見、広い心で受け止めてくださっているところに、つまり“神の恵み”にこそ救いがある、ということです。このことを私たちは忘れずにいましょう。

 そして、私たちを長い目で見、広い心で受け止めてくださる神の愛が私たちの心にとどく時、私たちの心には喜びと感謝があふれるでしょう。喜びと感謝は、神さまへの賛美となって、神さまへの応答となって現われるでしょう。こんなにつたない信仰の私でも、愛が足りない私でも、神さまは愛してくださる。こんなに力のない私でも、神さまは、御心のままに用いて、役立つ者としてくださる。その喜びが心に湧くとき、私たちは、礼拝し、伝道し、献金し、奉仕し、信仰生活を営む者となるでしょう。
 榎本保郎先生という牧師がおられました。『一日一章』など著書を通して、この先生をご存じの方もおられるでしょう。榎本先生は、『ちいろば』というタイトルの本をお書きになりました。その本の後書きに、榎本先生は、神さまに愛され、用いられる喜びを、
次のように書いておられます。
 「ちいろば」というのは、イエスさまがエルサレムにご入城なさったときにお乗りになったろばの子のことで‥‥す。そこには「向こうの村」につながっていたところを「主がお入用です」と言って召し出されたことが記されているだけですが、この小さいろばの子を短く縮めて「ちいろば」と私が勝手に名付けたのです。私はしばしば子どもたちに「ちいろば」の話をしてきましたが、いつのまにかそれを自分自身に当てはめてみるようになりました。というのは、このろばの子が「向こうの村」につながれていたように、私もまたキリスト教には全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼な友だちが、私が牧師になったことを知って、「キリストもえらい損をしたもんじゃのう」と言ったそうですが、その評価のとおり、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じ馬科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見ばえのしない「ちいろば」にひとしお共感を覚えるのです。しかし、あの名もないろばの子も、ひとたび「主の用」に召し出されたとき、その背にイエスさまをお乗せする栄光に浴し、おまけに群衆の歓呼に迎えられてエルサレムへ入城することができたのです。私のような者も、キリストの僕(しもべ)とされた日から、身にあまる光栄にひたされ、不思議に導かれて現在に至りました。つまり、あの「ちいろば」が味わったであろう喜びと感動が私にもひしひしと伝わってくるのです。
(『ちいろば』212~213頁)
 この榎本保郎牧師の喜びと感動を、私たちも感じることができます。既に、榎本先生のこの気持が分かるという人もいるでしょう。主イエスによって愛され、そのままで受け止められ、用いられる。この喜びと感謝の道を、私たちも、ろばの子が歩くように、たどたどしくても、遅くても、一日一日、一歩一歩、愚直に、誠実に歩んでいきましょう。

 


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