坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年4月14日 受難説第六主日(棕櫚の主日)礼拝説教「十字架によって開かれた新しい時代」

聖書   ルカによる福音書23章44-49節
説教者  野澤幸宏神学生


23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

 「十字架によって開かれた新しい時代」  

人間の心は、なんと移ろいやすいものか、と思わされます。先ほど、招きの詞(ことば)として読まれたゼカリヤ書9章9節のみ言葉をもって主イエスをエルサレムへ迎え入れた群衆たちが、それからわずか5日後にその主イエスを十字架にかけて殺してしまうのです。

今日は、伝統的なキリスト教の暦で棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)と呼ばれる日曜日です。復活祭イースターの一週間前の日曜日をそう呼びます。先週の礼拝において、山岡牧師が解き明かされた聖書の出来事は、まさにこの日曜日に起こったことなのです。エルサレムにロバの子に乗って入って来られる主イエスを、エルサレムの人々は、ある人はナツメヤシの葉を手に、ある人は自分の服を道に敷いて迎えました。このナツメヤシのことを、かつての日本語の聖書では、棕櫚と記(しる)していまし。それでこの日曜日は棕櫚の主日と呼ばれるようになったのです。同時にこの日は、一年で最も聖なる一週間である、受難週(じゅなんしゅう)の始まりの日でもあります。この週の木曜日の晩、主イエスは、その活動に反対するユダヤ教の指導者たち、祭司長や律法学者たちに捕らえられ、死刑を望む熱狂的な群衆の声に押される形で、その夜のうちに死刑の判決が下され、ローマ帝国がユダヤ地方を支配するために送り込んだ総督ピラトによって、翌朝には十字架につけられるのです。

そして教会は2000年の歴史の中で、この出来事を忘れないために、教会の暦でこの時期を受難週として定め、記念し続けてきたのです。この伝統の中で教会の信仰を受け継ぐわたしたちはこの出来事を、2000年前、遙か遠くの中東イスラエルで起こったわたしたちからは何か遠い関係のない出来事と考えてはいけないのです。

この出来事を伝える聖書の物語に触れるとき、人間の自己中心的な実態を覚えます。人間は神を、自分の思いを叶える存在として捉えてしまうものだという罪の現実を教えているのです。自分たちをローマの支配から独立させるために戦う救い主として期待した主イエスが、その自分たちの期待通りの方ではないと分かると、手のひらを返したように、「十字架につけろ!」と叫ぶのです。

 

今日示されたルカによる福音書のみ言葉は、主イエスが十字架にお架かりになり、その上で死を迎える場面を伝えます。

まず「昼の十二時」「三時まで」と時間を詳細に語ります。これは、この日この時、主イエスが十字架で死なれたそのことが事実であることを示すものです。

主イエスは人間の世界に光をもたらすお方として太陽に象徴されることがありますが、「全地は暗くなり」「太陽は光を失っていた」と、その太陽が輝きを無くしていた様子が描かれます。主イエスが死を迎えることはわたしたちから光が失われるということなのです。

そして主イエスは、その暗闇の中、十字架の上で遂に息を引き取られます。ルカによる福音書は、その最期の言葉は「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」というものだったと伝えます。天の父なる神の御心を最期の瞬間まで信頼し抜いたのです。鞭で打たれ、釘で打ちつけられ、苦しみの極みにある時まで、自分自身の事よりも神のことをまず第一に考える主イエスの姿がそこにあります。また、ここでは「霊」をゆだねる、と語られます。これはギリシャ語ではプニューマという言葉で、同じように「霊」や「魂」、「命」などと訳されるプシュケーとは違います。とても単純にこの二つの語の違いを説明するなら、プシュケーは人間自身の内側から出てくるもの、プニューマは神からやってくるものと言うことが出来ます。単なる人間としての命を神にゆだねるのではなく、神から与えられた自身の本性、本質とでも言うべきものを神にお返しする。主イエスの臨終の言葉から、このような思いを、神から与えられたものを神にお返しするという思いを見ることが出来ます。

主イエスが十字架の上で息を引き取られたその瞬間、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と言います。垂れ幕と言いますとカーテンのようなものを想像されるとおもいますが、この垂れ幕は単なるカーテンではありません。英語の聖書ではヴェールと訳されています。今皆さんの前に、聖餐(せいさん)の器が置かれ、その上にレースがかけられていますけれど、このように、何かの上に覆い被せる物というようなイメージです。それは、神殿の中で神に最も近い場所である「至聖所(しせいじょ)」をそれ以外の場所と分けるためのものでした。ここには、神から与えられた契約を収めた箱、契約の箱が安置されていて、年にたった一度、特別な祭りの時に大祭司ただ一人だけが入ることを許された場所でした。その特別な祭りとは、すべての人間の罪を神様に赦(ゆる)していただくための贖罪(しょくざい)の儀式、罪を贖(あがな)っていただくという儀式です。神様の場所と人間の場所を隔てていた垂れ幕が裂けた、ということは、主イエスの死という一回限りの大いなる犠牲によって、もう人間の代表である大祭司を通して毎年神に取り次いでもらわなくても、良い時代になった。神と人とが直接つながることが出来るようになったことを象徴的に表しています。

また、主イエスが十字架の上で息を引き取られた様子を見て、ローマ帝国の軍隊組織の一員であるはずの百人隊長でさえ、「本当に、この人は正しい人だった」と言います。ここで「正しい」と書かれている言葉は、「罪がない」とか「神の意に合致した」という意味を持ちます。別の福音書では同じ場面の詞は「この人は神の子だった」となっていますが、まさにこの百人隊長は主イエスのお姿に神様を見たのです。そしてこのことは、神様の救いはこれまではユダヤ人だけに限定的に与えられるものだと考えられていましたが、ユダヤ人だけではなく、ローマの人々にも、ひいてはわたしたち日本人をも含む世界中のすべての人間に神様の救いがもたらされるものとなったことを示しています。

主イエスが十字架で死なれた事によって、神と人とが直接つながる時代、そしてその救いは世界中のすべての人にもたらされる時代になったのです。新しい時代の兆しが示されたのです。

 

ところで、新しい時代と言えば、先日4月1日に日本の新たな元号が発表されました。そして5月1日にはその新しい元号、「令和」が施行されます。テレビや雑誌などの報道は、平成が終わり、令和となることで、ひとつの時代が終わり、新しい時代が来るかのように語ります。平成の30年を振り返ってどうこう、なんていう番組が盛んに放送されています。しかし本当に元号がかわると時代が変わるのでしょうか。日本の元号という制度は、しょせん人間が定めたものです。今日わたしたちに聖書を通して示されたように、神である主イエス・キリストが命がけの愛によって切り開いてくださった新しい時代と、人が定めた制度である元号とは根本的に違います。主イエスの愛を信じるわたしたちにとっては、2000年前にただ一度主イエスが十字架にお架かりになった、そのことによって既に時代が新しくなっているのです。

わたしたち一人一人が、主イエスを十字架の死に追いやった当事者であり、関係ない人間は誰一人いないのです。教会に集うわたしたちは、そのわたしたちのために主イエスが命を懸けてくださったことを信じています。主イエスの命がけの愛を信じています。主イエスの愛が、この世に実現する新しい時代を築いて行かねばなりません。人が作る新しい時代ではなく、神の愛による新しい時代へ。わたしたちは、神によって創り変えられた時代を生きているのです。そして、そのような神の愛による新しい時代を生きているという自覚を新たにするためにも、今日から始まる受難週のひと時を、心を静めて、自分と向き合い、わたしのために命を懸けてくださった主イエスの十字架を覚えて、過ごしていきましょう。


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