坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年4月21日 復活祭イースター礼拝説教「心は燃えていた」

聖書  ルカによる福音書24章25~35節  
説教者 山岡創牧師

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

                     「心は燃えていた」
 東坂戸団地を過ぎて、川越市に入ると、キングスガーデン川越というキリスト教主義の老人ホームがあります。そこに、私たちの教会で最高齢の教会員であるMさんが入居
しておられます。今年の誕生日で98歳になられます。
 キングスガーデンの中では、いくつかクラブ活動が行われています。Mさんはパレット・クラブや書道クラブに入っていて、絵や書を書いておられます。皆さんの書いた絵や書がガーデンの廊下の壁に掲示されています。私は、毎月1回、礼拝で聖書のお話をするためにお伺いした時に、今日はどんな作品が飾られているかと廊下を歩きながら、絵や書を眺めます。特に私は書が好きで、その言葉に感動することがしばしばあります。
先日、3月の礼拝に伺った際に、Mさんがお書きになった書に感じるものがあり、職員の方にMさんの作品、後でいただけませんか?と頼んでみました。すると、4月の礼拝に伺った時、ご家族の方が今までの作品をたくさん用意してくださり、その中から気に入ったものを選んでください、と職員の方に託されたというのです。私は、6点ほど選んで、いただいて来ました。その中に、次のような作品がありました。
“生きる事は燃ゆることなり”
ところで、今日読んだ聖書の32節にも、“燃える”という言葉が出て来ました。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。
この御言葉からMさんの書を思い起こしました。生きることは燃ゆる事、言い換えれば、信仰とは、復活とは、御言葉の感動に心が燃えることだと思うのです。

 エルサレムからエマオに向かって歩く二人の弟子がいました。クレオパともう一人の弟子です。二人の心は燃えてはいませんでした。むしろ、傷つき、絶望して、暗く沈んでいました。なぜなら、師と仰ぎ、従って来た主イエスが、十字架に架けられ、処刑されてしまったからです。そのため、二人は故郷に帰る途中だったのかも知れません。
 そこに一人の旅人が加わり、一緒に歩き始めました。復活した主イエスです。主イエスの復活は、福音書には、まるで“生き返った”かのように書かれています。けれども、復活とは地上の命に生き返ることではありません。けれども、クリスチャンは、定かには分かりませんが、復活を信じます。天において新しい命に生きること、永遠の命を信じるのです。
復活した主は二人と一緒に歩きはじめます。けれども二人は、それが主イエスだとは気づきませんでした。私たちも同じではないでしょうか。主イエスはもう既に自分の隣にいて、人生を一緒に歩いてくださっているのかも知れません。けれども、私たちの心の目はさえぎられていて、そのことに気づかないことがしばしばあるのです。
 主イエスは、二人が何を話しているのか尋ねました。二人は、主イエスとは気づかぬまま、この三日間の出来事を話しました。師と仰ぎ、従って来た主イエスが十字架に架けられ、処刑されてしまったこと。その後、仲間の婦人たちが墓に行き、「イエスは生きておられる」と天使の言葉を聞いたこと。墓には主イエスの遺体がなかったこと。それらの出来事を、二人は暗い顔で話しました。絶望して、心の灯が消えていたからです。終わった‥と思っていたからです。
 ところが、主イエスは“始まり”の物語を語り始めます。希望の物語を二人に語り始めます。フィクションではありません。同じ出来事を、主イエスが十字架で死に、復活したと天使が告げ、墓が空っぽだったという同じ出来事を話し始めたのです。
 けれども、大きく違う点があります。それは、主イエスが、聖書の視点で三日間の出来事を見て、語っているという点です。二人の弟子は、常識的な考え方で、目に見える出来事だけを見て判断する見方で、これらの出来事を見ています。だから、希望も栄光も信じることができません。けれども、主イエスは、「聖書全体」(27節)から、神さまのシナリオで、神の御心という視点で、これらの出来事を捉え直し、話してくださったのです。そこには、「こういう苦しみを受けて、栄光に入る」(26節)という大逆転劇がありました。敗者復活の物語がありました。喜びと希望がありました。その話を聞いて、絶望とあきらめに暗く沈んでいた二人の心は燃え始めたのです。
 私たちの人生は、モノの見方を変える、ということが、とても大事でありましょう。同じ出来事でも、見方を変えれば、全く違う意味を持つものになります。そういう意味で、信仰とは、常識とか、この世の価値観によって作り上げられている自分の見方を一度打ち壊して、聖書の視点から、神さまの見方で、自分の人生を、そこに起こる出来事を見直し、捉え直してみることにほかなりません。そして、神さまの見方の鍵になるものは“愛”です。私は神さまに愛されている。聖書が私たちに伝えること、教えることは、それです。神さまの愛を信じて、そこから私たちの人生を捉え直してみる時、無意味なもの、無駄なものはきっとなくなります。絶望でしかないもの、苦しみ悲しみでしかないものはきっとなくなります。傷ついた心が癒されます。そこに喜びが、希望が生まれます。心が燃え始めます。そして、いつかきっと、神の恵みを実感し、神の栄光を仰ぐ時が来ます。

 話は変わりますが、日本基督教団が発行している月刊誌『信徒の友』の4月号には、イースターの特集が組まれていました。3つの文章が掲載されていましたが、どの内容にも感銘を受けました。
 その一つは、原田裕子牧師(千葉・薬円台教会)のメッセージでした。原田先生は、20数年前、結婚して10年目を迎えた頃、看護学を学ぶために、単身でアメリカに留学したということです。けれども、異国の地で、孤独を感じ、考えの違いに戸惑い、居場所の無さに悩み、自分を見失いかけました。その時、日本語で礼拝をささげる小さな教会に導かれました。神さまに重荷を下ろし、ありのままでよいとの御言葉を聞いて、先生は、心の底からホッとして洗礼を受けます。救いの恵みに感動し、感謝する良き交わり、「世にはなき交わり」にも恵まれたといいます。
 ところが、先生が何気なく言ったひと言が、教会の仲間の問題に触れ、大事件が起こります。その人が牧師に相談していた深刻な問題に、知らずに、偶然触れてしまったのです。その人は牧師が守秘義務を破ったと勘違いして、“裏切り者”と怒って、教会を去ってしまったのです。教会は動揺し、やがて原田先生は、教会の人々から、不信の目で見られ、信仰が浅いからだと蔑まれるようになったといいます。先生は、あの感動と感謝の交わりは、こんなにも脆いものかと、不信感と恐怖心を持つようになりました。
 やがて帰国し、夫が通う教会に一緒に通うようになりましたが、不信と恐怖感はぬぐえず、心はうつろで、傷つくのを恐れて交わりから遠ざかっていたといいます。そのような歩みの中で、先生は、復活の主イエスと出会いました。聖書(ヨハネ21章1~14節)の御言葉を通して、裏切り、逃げ去った弟子たちに対する、主イエスの変わらぬ態度を通して、全く変わらない主イエスの愛を知り、傷ついた心が癒されたのです。原田先生は最後に、こう書いておられます。
 私が主と仰ぐ方は、この世の誰が私を否定しても、常に変わらぬ愛をもって私に寄り添い続けてくださるとこの御言葉は告げています。それは、私が受洗時に、既に知っていたはずのことでした。しかし、あらためて知らされたのです。この方にもう一度従い直そうと、私は思いました。もう一度、「世にはなき交わり」を信じてみよう。主の群れを、主が愛された人を信じることから始めよう。
それ以来どんなときも、この救いの御言葉は、私の力の源です。献身の志をいただき看護師をやめたときも、私よりも2年早く伝道師となった夫が急逝したときも、そして今も、ご復活の主が私を導き続けてくださっています。(『信徒の友』4月号・17頁)
 私は、原田裕子先生の証しに、復活した主イエスによって、聖書の御言葉によって心を燃やされた人の証しに、私もまた心を燃やされた思いです。

 そして、もう一つ感銘を受けたのは、ヘンリ・ナウエンという人が書いた『傷ついた癒し人』という本の内容を紹介している酒井陽介先生というカトリックの司祭の方の文章でした。すべてを紹介することはできませんが、例えば酒井司祭は、〈哀しみと癒し〉ということについて、こう書いておられます。
 哀しみとは、悲しみが心の中で花開いたものであり、「哀しみは、他者への深い憐れみを産む」と言います。そうだとしたら、哀しみの花を内に秘めつつ生きることは、他者への憐れみの情感を養い育てる、愛を知る人間の崇高な行為だと言えます。‥‥すなわちたやすく割り切ることのできない悲しみを生き、他者への憐れみが育まれるとき、癒し人になりつつある私たちがそこにいます。そうやって、少しずつ、ゆっくりとイエスに近づいていくのです。(前掲書19~20頁)
 傷つき、悲しむ心によって、他者への憐れみ(哀しみの心)が育まれていく。その憐れみの心、言い換えれば“愛”をお互いに相手に向けることを“もてなし”と呼びます。そして、もてなしを実感するために必要なのは、共同体という場所だと言います。その共同体の姿を、酒井司祭は、復活した主イエスと弟子たちの関係に見て、こう書いておられます。
 イエスを裏切り、主の受難と死から遠のいていた弟子たち。彼らは自分の無力さと薄情さに打ちのめされ、許されざる者という思いに囚われていたことでしょう。しかし、‥‥主イエスは先立って弟子たちを招かれ、許され、共に過ごされました。関わりを諦めず、自尊心を失いかけていた弟子たちをもてなした復活した主が、そこにいました。復活した主に出会った弟子たちは、その出会いによって変えられていきました。これが、主のもてなしの共同体による関係性の回復ということです。そしてさらに弟子たちは、もてなしてくれた主のようでありたいと望むようになりました。(前掲書20頁)
 今日の聖書箇所で、復活した主イエスが二人の弟子にパンを裂いたシーン、あれは教会の姿だと思います。そして、教会とは心が燃やされる場所、愛によって傷ついた心が癒される共同体だと思うのです。主イエスに愛されたお互いの愛の心、愛のもてなしによって、傷ついた心の癒し、関係の回復が起こる場所が、教会だということです。
もちろん、完全な、理想的な教会などありません。教会も人間の集まり、罪人の集まりですから、原田裕子先生が経験されたようなことが起こります。誤解し、すれ違い、不信の目で見、教会から離れ去ることもあります。どうしても自分中心に物事を見てしまったり、苦しみや悲しみのために余裕がなかったりして、愛の心で相手を配慮し、信頼することのできない時があります。けれども、聖書から教えていただく主イエスの愛を信じる時、私たちの傷ついた心は癒され、主イエスが愛した共同体を信じてみようという思いに立ち帰ることができるでしょう。そのような癒し、それは地上における私たちの復活にほかなりません。
 私は、この坂戸いずみ教会がそういう教会でありたい、愛と癒しと復活の教会でありたい、そういう交わりを皆さんと一緒に造り上げていきたいと心から願っています。教会は単なる仲良しサークルではありません。いわゆる仲良しな人はいないかも知れない。また、弱く、自己中心な罪人であるため、お互いを傷つけることもあるかも知れない。私もそうです。
 それでも、あきらめない。逃げない。忍耐がいるでしょう。祈りがいるでしょう。時間もいるでしょう。それでも、私はそういう教会を目指していきたい。今日の御言葉は、そのことを私に、私たちに示してくれた、と思うのです。

 

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