坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年4月28日 主日礼拝説教「命を失う人、命を保つ人

聖書 ヨハネによる福音書12章20~26節
説教者 山岡創牧師

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

                             「命を失う人、命を保つ人」
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」(24節)
 一粒の麦があります。それは麦の種です。その種を畑にまきます。麦の芽が出ます。その時、土の中にまかれた種はもはやありません。跡形もありません。それが一粒の麦が死ぬということです。けれども、その種から麦の芽が出、育ち、穂をつけ、やがて30倍、60倍、100倍もの実がつきます。多くの実を結びます。これは、一つの死が、多くの人の命を生かし、育むことのたとえです。
 主イエスは、ご自分が十字架に架けられて処刑される死を、一粒の麦の死にたとえたのです。ご自分が死ぬことで、多くの人の命を生かし、育むことになる、と。
 実際、主イエスは、弟子たちの命乞いをされたと私は思うのです。主イエスの教えや活動に反対して、ユダヤ教の宗教指導者たちは、主イエスを捕らえ、冒瀆罪の罪を着せ、裁判にかけました。主イエスが捕まった時、弟子たちは、ある者は裏切って手引をし、ある者は主イエスとの関係を否定し、多くの者が逃げ去りました。そんな弟子たちの命乞いを、主イエスは裁判の席でしたのではないか。私の命を差し出すから、その代わりに弟子たちは助けてほしい、と。
 主イエスの死が、弟子たちの命を救うことになったのです。弟子たちは、そのことを後で知ったのでしょう。イエス様を捨てた自分たちを、イエス様は救ってくださった。その主イエスの業に、主イエスの愛の心に、絶望していた弟子たちは命を吹き込まれ、立ち上がります。そして、イエスを救い主として、イエスの愛を宣べ伝え始めます。主イエスによって示された神の愛は、裏切り、見捨てた自分たちの罪だけでなく、主を十字架に架けたユダヤ人の罪も、いやもっと広く、すべての人の罪を赦し、その人を救い、生かすものだと宣べ伝え始めたのです。
 弟子(使徒)たちの言葉を受け入れ、イエスを救い主と信じる人々が起こりました。教会が生まれました。その言葉はユダヤからローマ帝国全体へ、全世界へと広がって行きました。そして、2千年後の今日、日本において、私たちもイエスを救い主と信じる者として、ここにいます。神を信じ、愛を大切にする者として生きています。主イエスの死は、多くの教会、多くのクリスチャンを生み出しました。いや、もっと広い意味で、主イエスの死から始まったキリスト教は、この世界に大きな影響を与え、様々な実を結んでいると言うことができるでしょう。

 そのようなご自分の死を、主イエスは、「自分の命を憎む」(25節)こととして、弟子たちに教えられました。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。
 この言葉を聞いて、“えっ!、何かおかしいんじゃない?、違うんじゃない?”と思う人もいるかも知れません。自分の命を憎む者はそれを失うが、自分の命を愛する者は、それを保って永遠の命に至る、というのなら分かる。イエス様だって、自分の命を憎むような、捨てるような、粗末にするようなことをしたから、命を失ったんじゃないの?それに、自分の命を愛したら、自分の命を失うなんて、おかしい。聖書にだって、隣人を自分のように愛しなさい、って書いてあるじゃない。それって、隣人だけじゃなくて、自分の命も愛しなさい、ってことでしょう?。自分の命を愛して、それと同じように隣人を愛しなさいってことでしょう?‥‥‥そんな疑問を感じ、反論をしたくなったとしても不思議ではありません。
 けれども、主イエスが言われている意味は、それとはだいぶ違います。「自分の命を愛する」とは、大切にすると言うよりは、“欲”です。自分の欲望から、自分が得をしようとする自己愛の生き方です。極端に言えば、“自分さえ良ければ”という生き方です。そういう思いで生きたら、一時的にはうまく行くかも知れませんが、きっとどこかで破綻します。
そうではなく自分の欲を捨てる。それが自分を憎む、ということです。単に欲望、願望ということだけでなく、自分の主張を捨てる、自分の価値観を捨てる、自分のエゴを捨てる、といったことも考えられます。そのように自分を捨て、人のことも考え、人を大切にするような生き方をする。それが本当の意味で、自分の命を愛するということではないでしょうか。そのように生きることが、自分の命も、人の命も豊かにすることだ、多くの実を結ぶことだと主イエスは教えているのです。

 そのように生きた人の証しが、『信徒の友』4月号の特集に記されていました。吉田博さんという、多摩ニュータウンキリスト教会のクリスチャンの方の証しです。“階段を降りなさい”。それが、吉田さんの証しのキーワードです。
 吉田さんは山形県の天童市に生まれ、育ちます。そして高校3年の時、友だちに誘われ、教会に行くようになります。自分の中にある憎しみと良い子のギャップに葛藤していた吉田さんは、その年のクリスマスに洗礼を受け、イエス・キリストを救い主として受け入れました。
 その後、早稲田大学から当時の三菱銀行に就職。けれども、胃潰瘍でつまずき、出世コースから外れます。ところが、10年後、人事部に異動したことによって人生が急展開、競争の最前線に押し出され、42歳の時、同期で一番早く支店長になったといいます。
 けれども、忙しすぎて家庭を省みないような生活が続いたことから、妻に離婚を切り出され、何とか赦しを乞い、離婚は免れます。しかし、忙しい日々は続き、子どもとの確執も深まったということです。
 そんなある日、妻の誘いで、ある読書会に出席するようになった吉田さんは、カトリックの司祭ヘンリ-・ナウエンと出会います。ナウエンが著書の中で言う“階段を降りなさい”という言葉に心打たれたのです。吉田さんは、こう書いています。
 私はキリスト者として良い証しをするには、社会的に評価される必要があり、そのために上を目指さなければならないと考えていました。ところがナウエンは、それは自分の欲に過ぎず、むしろ「階段を降りなさい」と勧めます。
(『信徒の友』2019年4月号23頁)
 ナウエン自身が、ハーバード大学で教鞭をとり、カトリックの制度の中で高い地位に就くことを約束されていたのに、そのコースから外れた人でした。ジャン・バニエという人に影響を受け、彼が創ったカナダにあるラルシュ共同体という施設に移住し、そこで知的障がい者と生活を共にする道を選んだのです。階段を降りたのです。
 読書会で学んだ吉田さんはその後、銀行内の健康相談室長を頼まれ、引き受けます。出世コースを捨て、銀行の役員候補から降りたのです。健康相談室では、精神科医やカウンセラーと一緒に、競争や激務で心の病を持った方に寄り添います。吉田さんは、ナウエンがラルシュ共同体で知的障がい者と生活することから自分の弱さに向き合い、本当の自分を回復して行ったのと同じ経験をすることができた、と言います。
 実際に階段を降りた後の人生の変化を考えると、22年前の「階段を降りなさい」という一言が、神からの細い声であったのではと感じています。年齢を重ねるにつれて気づかされることは、自分が主体的にがんばって備えるより、神によって備えられることを待つ大切さです。階段を降りることが、神との新しい冒険となり、今もその冒険は続いています。(前掲書同頁)
 こう言って、吉田博さんは証しを結んでいます。階段を降りる。それは自己中心の欲を捨てるということです。主イエスが言う、自分の命を憎むということは、そういう生き方をすることだと思います。そういう生き方が、「永遠の命」に至る道、命の本来を生きる道なのです。もちろん、すべての人が吉田さんのようにできるわけではりませんし、また、そうすることが常に正解だとも言えないと思います。ケース・バイ・ケースでしょう。具体的にどうするか。階段を降りるとはどう決断し、どう行動することか。それは主イエスの教え、聖書の言葉を自分自身で考えて、答えを出す必要があります。

 主イエスも、言わば階段を降りたのです。敵対するユダヤ教指導者たちに反撃し、自分がカリスマ的英雄となってユダヤ人を従え、ユダヤ王国を再興し、その王となることもできたでしょう。けれども、道を捨てて、この世の地位も名誉も栄光もなく、十字架に架けられて処刑される道を選ばれたのです。そうすることで、多くの人の命を救う、命を生かす道を選ばれたのです。
 私たちも、そういう道に招かれています。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(26節)と主イエスは弟子たちに、そして私たちに言われます。この言葉は、主イエスが別の聖書箇所で言われた、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)との言葉と通じるものがあります。
 主イエスは、私たちを無理に従えようとはなさいません。強制的に“ねばならない”では実を結びません。自分の命を憎むことの意味を、階段を降りることの大切さを、人を愛することの喜びに気づいて、自分で納得して、自分で決めて、主イエスに従うことが必要です。“私は主イエスに従ってよかった。この道を生きることが、人を愛することが嬉しい”と思えることが、私たちを後押しします。
 吉田博さんは、階段を降りることは、神との新しい冒険だ、と言いました。冒険って、ワクワクするものです。何歳になってもワクワクできるって、すてきなことではないでしょうか。そういうワクワク旅、神さまと冒険する嬉しさ、楽しさを感じて、私たちも信仰生活を歩んでいきたいと願います。

 

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