坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年5月5日 主日礼拝説教 「光のある内に」

聖書  ヨハネによる福音書12章27~36節

説教者 山岡 創牧師

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」

12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

              「光のあるうちに」

 5月1日から元号が〈令和〉に変わりました。ニュースや番組で、“令和第1号○○”なんていう報道をしばしば耳にしました。私もふと、“令和に変わってから、日本全国で最初に生まれた赤ちゃんはだれなのだろう?”と、そんなことを考えました。一つの時代の節目です。

 ところで、日本に歴史があるように、聖書的な観点で考えると、神の歴史というものがあります。昨年こちらの研修で、創世記に描かれている神の天地創造のお話をしましたが、神の歴史は、その時から始まりました。それは、神さまが最初、「極めて良かった」(創世記1章31節)と絶賛された世界で、最初の人アダムとエヴァが、神さまに背いて罪を犯し、この世界を汚してしまった。それ以来、罪を犯し続ける人間を救おうとされるのが“神の歴史”です。

 そして、神の歴史にも「時」があります。時代の節目があります。特に決定的なターニング・ポイントは、イエス・キリストがこの世に生まれ、十字架に架けられて死に、復活された時です。イエス・キリストは十字架の上で、全人類の罪を身代わりに背負い、犠牲となって死ぬことで、すべての人の罪が赦(ゆる)されるようにしてくださった。また、死から復活することによって、死によって滅びるはずの人間に、永遠の命に生きる道を切り開いてくださった。聖書は、キリストの十字架と復活を、そのような意味で語っています。

 ですから、キリストの十字架と復活によって、時代が大きく変わったのです。それまでは、人が罪を犯し、滅びの道を歩む時代。けれども、そこからはキリストによって人の罪が赦され、救いを約束されている時代です。だから、このキリストによる救いを信じた人々は、この時代の節目、変わり目を、この世の歴史にも表しました。皆さんも、学校の社会の授業で、歴史を紀元前と紀元後に分けることを学んだでしょう。紀元前は、B.C(Before Christ)と表します。“キリスト以前”という意味です。他方、紀元後はA.D(Annue Domine)と表します。西暦のことですが、ラテン語で“主の年”という意味です。主イエス・キリストによる救いの年という意味で、私たちは、主イエス・キリストによる救いの時代が始まって2019年目を生きている、ということなのです。

 

 今日読んだ聖書の中に、「時」という言葉が何度か出て来ました。この「時」というのが、イエス・キリストの死と復活のときです。それによって、神の歴史は、大きく時代が変化したのです。

 けれども、神の歴史の変化と、現代日本で、普通に生活している私たちとは、何の関係があるのか?私たち自身の何かが変化すると言うのでしょうか?

 実は、その変化の内容を、主イエスは、31節で次のように語っています。

「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」(31節)。

 この世が裁かれ、支配者が追放されるとは、どういうことでしょうか?私たちの時代に当てはめて言えば、元号の元になっている天皇制が終わるということでしょうか?それとも、安倍首相が、トランプ大統領が、その地位から転落するということでしょうか?‥‥‥否、そういうことではないと私は思います。

 「世」という言葉を、“私”と入れ替えてみたらよいと思います。つまり、この世が裁かれる時というのは、“私”が、自分自身が裁かれる時です。自分の内側で、自分を支配している何かが明らかにされ、追放されるのです。主イエスの十字架と復活によって、自分の内側にある「支配者」に気づかされ、主イエスの霊と愛によって、それが自分の内側から追い出されるのです。「支配者」は追い出され、代わりに主イエスの霊と愛が、私たちの内側に住んでくださるのです。

 

 自分の内側にある「支配者」とは何でしょうか?皆さんは、自分の内側にどんな「支配者」がいて、自分を縛り、不自由な生き方をさせていると思いますか?

 最近、シルヴァスタインという人が書いた『ぼくを探しに』(講談社)という絵本を読みました。昔テレビ・ゲームで流行ったパックマンのような姿形の主人公が登場します。“何かが足りない。それでぼくは楽しくない。足りないかけらを探しに行く”。そう言って、主人公は転がりながら旅をします。まん丸ではなく、欠けているので、あまり早くは転がることができません。それで途中、歌をうたったり、みみずとお話したり、花の前で立ち止まって薫(かお)りをかいだりします。カブトムシを追い越したり、追い越されたりします。チョウチョが飛んで来てとまります。

 やがて主人公は、自分の欠けた部分にピッタリはまるかけらを見つけます。“はまったぞ。ぴったりだ。やった!ばんざい!”そう言って、主人公は喜んで転がり始めます。まん丸になったので、今までよりも断然早く、スイスイと転がることができます。

 ところが、あまり早すぎて、みみずとお話できなくなりました。お花の前で止まって薫りをかげなくなりました。チョウチョも止まらなくなりました。歌もうたえなくなりました。その時、主人公はハッと気づいて、はめ込んだかけらをそっと下ろします。そして、ゆっくりと転がり始めるのです。歌をうたいながら。そんな主人公に、チョウチョがとまったところで絵本は終わります。

 この主人公の内側にあった「支配者」は、自分は欠けている、足りないという不満だったのでしょう。あるいは、コンプレックスと言ってもよいかも知れません。けれども、足りないかけらを見つけて、欠けが埋まったと喜んだのも束の間、それは決して幸せではなかった、救いではなかったのです。“自分は自分のままでいい。欠けがある、足りないところがある、その(ありの)ままでいい”。主人公はきっと、そこに救いがあることに気づいたのでしょう。

 私たちが、例えばそういう「支配者」に気づき、救いを得るために、信仰が大きなきっかけになることがあります。自分は神さまに、このままで愛されている。自分のままでよしとされている。主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の愛を信じる時、私たちの中にある不満やコンプレックスという「支配者」は追い出され、神の愛による平安と喜びが内に住むようになるでしょう。

 あるいは、月刊誌『信徒の友』4月号に、吉田博さんというクリスチャンの方が、自分の人生について、こんなことを書かれていました。吉田さんは銀行マンで、競争の最前線で、出世街道を驀進(ばくしん)していました。けれども、あまりの忙しさに、家族関係が悪化し、妻には離婚を迫られ、子どもとはコミュニケーションが取れなくなります。そんなある日、妻の誘いで入った読書会で、カトリックの司祭ヘンリー・ナウエンと出会います。“階段を降りなさい”。ナウエンのその一言は、吉田さんをハッとさせました。“私はキリスト者として良い証しをするには、社会的に評価される必要があり、そのために上を目指さなければならないと考えていました。ところがナウエンは、それは自分の欲に過ぎず、むしろ「階段を降りなさい」と勧(すす)めます”。社会的に評価される地位を得る、という欲が、“良い証しをするために”という信仰によって正当化され、二重の欲になっていたのでしょうか。吉田さんは、そういう自分に気づき、生き方を変えました。

 吉田博さんを支配していたものは、社会的評価という価値観であり、何としてもそれを得ようとする欲、執着心(しゅうちゃくしん)だったのかも知れません。主イエス・キリストの十字架と復活によって表わされた愛と、キリストのように愛によって生きる道が、ヘンリー・ナウエンを通して示され、それによって吉田さんは、自分の内側にある「支配者」に気づかされました。そして、主イエスの愛と愛の生き方が、その支配者を追い出し、吉田さんは救いの道を歩み始めたのです。

 自分の内側に「支配者」が住んでいる。それに縛られ、支配され、大切なものが見えず、神さまの思いから離れて生きている。その状態を、聖書は“罪”と呼びます。その罪から、主イエスの十字架の死と復活によって救われ、救いの道を、愛と平和の道を歩むように変えられます。それは今日の内容で言い換えれば、神の愛によって、私たちが自分の内側にある「支配者」から解放され、神の愛の下で生きる人に変えられる、ということです。それが、新しい命の道、永遠の命の道を歩み始めるという意味です。

 

 そのようにして私たちを救われる主イエス・キリストは、ご自分のことを「光」であると言われました。私たちは、自分の内側で、自分を縛っている「支配者」に気づかないことがしばしばあります。支配者に縛られて、苦しくつらい生き方をしていることがあります。それは確かに「暗闇」と言うべきものです。自分を支配しているものが見えず、生きる道が分からず、もがき苦しんでいるのです。その暗闇の中に、聖書を通して、イエス・キリストが「光」となって現れます。“こちらへおいで!ここに救いがある。”と私たちを招き、導きます。

クリスチャンの小説家として、既に天に召された三浦綾子さんが、『光あるうちに』という著書を書きました。三部作の最終巻・信仰入門編です。その中の最後の章で、三浦さんは、学校教員をしていた自分が、戦後、何を信じ、何を教えたら良いのか分からず、虚無(きょむ)に陥ったこと。そして脊椎カリエスを患い、闘病生活の中で、ますます生きる目的も喜びも見失い、二人の男性と婚約するような生き方をしていたこと。そんな自分のような人間が、どれほど大きな神の愛によって救われたか、変えられたか。その喜びを思い、三浦綾子さんは、最後に、読者にこう呼びかけています。

 かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。今までの生活が、どんなに疲れ切った、あるいは人に言えない恥ずかしい生活であっても、または言い難いほどに苦しく悲しい毎日であったにしても、今、あなたの前に、まだあなたの足跡が一つも印されていない純白のような道があるのです。

‥‥(中略)‥‥過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いになりませんか。そのことがあなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。〈人にはできないことも、神にはできる〉と。光あるうちに光の中を歩もうではないか。

(『光あるうちに』209~210頁)

 三浦綾子さんの呼びかけは、イエス・キリストの呼びかけそのものです。主イエスという「光」を信じて、救いの恵みを味わった張本人が、主イエスに代わって、読者を、私たちを招いている言葉です。

「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35~36節)。

  

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