坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年5月19日 主日礼拝 「愛の神の選び」

聖書 申命記 7章6-8節
説教者:野澤幸宏神学生

◆神の宝の民
7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

    「愛の神の選び」
わたしたち坂戸いずみ教会の願い「キリストの愛と共に歩もう」
先日行われた教会総会の議案・報告書の表紙にもこの言葉が掲(かか)げられています。それとともに、ヨハネによる福音書13章34節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉が記(しる)されています。主イエスが、神さまご自身が、わたしたちをまず愛してくださっている。教会に集うわたしたちは常にこのことを忘れてはなりません。では、神様はどのような仕方でわたしたちを愛してくださっているのか。それは旧約聖書の初めから一貫して語られています。旧約聖書の中で最も大切な教え、モーセが神様から与えられた十戒の前文にも「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した主である」とあります。本日示された聖書のみ言葉、申命記(しんめいき)7章6~8節にも同じみ言葉が語られます。わたしたちを奴隷状態から導き出してくださったことが、まず神様がわたしたちに示してくださった愛なのです。奴隷状態とはどういうことでしょうか。そしてそこから救い出してくださったことが、新約の時代を生きるわたしたちとどのように関わるのか。それを今日の申命記のみ言葉から聴いていきたいと思います。

申命記は、旧約聖書の5番目にある書物です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記と合わせて、伝統的にはエジプト脱出の指導者、モーセによって記されたとされ、モーセ五書と呼ばれています。しかし、申命記の最後にはモーセが死んだことが記されており、自分が死んだことを書き残せる人間などいるはずありませんから、これは伝説上の解釈ですが、モーセの語った神様の言葉が残されている文書という点では間違っていません。また、この五つの書をまとめて、ヘブライ語でトーラーと呼ばれます。これは普通「律法」と訳されますが、よりヘブライ語のもともとの意味に近付ければ、「教え」です。守らなければいけない法というよりは、神様が教えてくださったものと考えた方が理解しやすいでしょう。申命記はヘブライ語では、「言葉」という書名で呼ばれています。これは申命記という書物をよく表しており、神さまから示された約束の地、カナンの土地へ今まさに入ろうとするイスラエルの人々を前に、モーセが神さまから伝えられた教えを語った遺言のような「言葉」が納められているのが申命記なのです。

そしてその教え、言葉は、常に神様の側からわたしたちを選んでくださった事から始まっています。聖書を読むとき、神様に選ばれたイスラエルの民は、今このときこうして聖書を読み神様と向き合っているわたしたちのことだと思って読む必要があります。神様の選びは、わたしたち人間の側には何の資格も理由も必要なく、心構えも何の準備もないところに、ただ、神様の側から一方的に注がれる慈(いつく)しみです。神様がイスラエルの民を選ばれたのは、強かったからでも、数が多かったからでも、頭が良かったからでも、良い事をしたからでもありません。「他のどの民より貧弱であったから」と書かれています。弱かったからこそ、少なかったからこそ、神様はわたしたちに「心引かれた」のです。ここで「心引かれた」と書かれている言葉は、「繋(つな)ぎ合わせる」「築き上げる」という意味も持っています。圧倒的に高い立場におられるはずの神様の方から、わたしたちに関係性を繋ぎに来てくださるのです。

それは、エジプトの国で奴隷とされていた状態から導き出してくださるという形で、具体的に示されました。当時、エジプトは世界最大最強の先進国です。今日にも立派にその姿を残しているピラミッドなどの建造物を、現在のようなブルドーザーやショベルカーもない時代に、数多くの奴隷を使って作り上げたような国家です。その奴隷とされていたのがイスラエルの人々です。ここで語られている奴隷とは、現在はもう存在しないのでしょうか。いや、形を変えて残っています。それは、その人がその人らしくあることが出来ない状態と言えます。権利を奪われている状態とも言えるでしょう。例えば、学校でのいじめや家庭内での暴力、職場などでのハラスメントなどです。これらが繰り返されていくと、その当人にはなんの落ち度もないのに、自分を自分のままで良しとする自己肯定の思いが失われていきます。それは生きる力を奪われることです。形を変えた現代の奴隷と言えます。また、もっと王と奴隷のような関係性がそのまま残っているのが、雇用関係においてでしょう。新興国におけるいわゆる先進国の搾取(さくしゅ)であったり、非正規雇用の問題などです。「足元を見る」という言葉がありますが、人間同士の関係では、強い者が弱い者の弱いところにつけ込むのです。しかし、神様の視点は、それとは逆に命令する側、強い側でなく、使われる側、弱い側に目を注がれます。神様は弱い側を愛し、救い出し、導き出してくださいます。

このような神様の愛、わたしたちに対する一方的に注いでくださる「築き上げる」関係性そのものが、わたしたちと同じ人間となってくださったのが主イエス・キリストなのです。そして主イエスは、わたしたち一人一人の自己中心のためにこじれてしまった神様とわたしたちとの関係を再び「繋ぎ合わせる」ために、十字架にかかってくださったのです。そしてその主イエスの大いなる犠牲によって、わたしたちは、神様との関係を回復させていただき、自分らしくあることが出来るようになりました。既にそうなっているのです。
神様の側は、これでもかと言うぐらいにわたしたちに愛を注いでくださっています。あとは、わたしたちの側がその神様の愛に応えて歩むことです。それは、使徒言行録1章5節の言葉で言えば聖霊(せいれい)による洗礼です。聖霊によって日々新しくされ、神様を見上げ賛美しながら、選ばれた者としてふさわしく歩んでいきましょう。

 

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