坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年5月26日 主日礼拝説教 「世を救うために」

聖書 ヨハネによる福音書12章44~50節
説教者 山岡 創牧師

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 
                「世を救うために」
 今年度、私は越生教会の代務者をしております。越生教会の牧師をしておられた方が3月で退任され、4月からその後を引き継ぐ牧師を招聘することができませんでした。代務者というのは、本来引き継ぐはずの牧師に代わって、その務めをする代理者ということです。主に、毎月1回、日曜日の礼拝と、水曜日に祈祷会を2回、また役員会の務めを行っています。良い機会ですから、越生教会と坂戸いずみ教会の交流を実施できればと考えています。
 ところで、越生教会には、みどり幼稚園が併設されています。4月10日に入園式がありまして、来賓として出席しました。入園した年少の子どもたちがうごうごするのを何とか落ち着かせようとして、先生方が努力しておられました。泣き出す子どももいて、先生がひざに抱えて抱っこしていました。(私も50年前、自分が入園した式で、泣いていたことを思い出しました)そういう空気の中で、年中さん、そして年長さんは立派ですね。落ち着いて座っているのです。この年少さんたちが、やがてはこういうふうに成長していくのだなぁ、とほほえましく感じました。
 来賓には、越生町の町会議員の方々も多数出席しておられました。みどり幼稚園の卒園生だという方がだいぶおられました。町の教育長もその一人でした。事情で出席することができない町長に代わり、教育長が挨拶をされました。
 このような式典の際には、出席するべき人の代理として別の方が出席し、挨拶することがあります。その人の文章を代読することもあります。その人がその場にいなくても、その人の言葉を聞くことができるわけです。
 主イエスと神さまとの関係も、言わばそのような関係だと言うことができます。49節に、こう書かれています。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」主イエスが語った言葉は、父である神が、そのように語れと命じた言葉、言わば父なる神ご自身の言葉の代わりに語ったものです。主イエスの言葉を聞けば、神の言葉を聞いたことになるのです。

 さらに突っ込んで、主イエスと神さまとの関係が次のように語られています。「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(45節)。「わたしを信じる者は‥‥わたしを遣わされた方を信じるのである」(44節)。
 当時のユダヤ人は、神というお方は天におられ、自分たちとはかけ離れた、超越的な存在だと考えていました。神さまを見ることはできないし、万が一、神さまを見るようなことがあったら、神さまの聖さと自分自身の罪深さのギャップがあまりに大き過ぎて、圧倒され、死んでしまうと思っていました。
 けれども、遠く離れた神さまを、主イエスは、非常に身近な、親しい存在として捉え、ユダヤ人に、そして私たちに紹介してくださったのです。主イエスはまず、神さまを「父」と呼ばれました。それは“アッバ”という呼びかけであり、小さな子どもが“お父ちゃん”と呼ぶような、親しい呼びかけです。それほど神さまと親密な関係にある。だから、神さまが何と言われるかが分かる。どのように行動されるかが分かる。主イエスの言葉は神の言葉であり、主イエスの行動は神の行動。主イエスを見た者は神を見たのであり、主イエスを信じる者は神を信じることだというのです。
 私たちにとっても、神さまというのは“雲の上の存在”、見ることのできない、触れることのできない、捉え難いお方です。けれども、主イエスを見れば、神さまがどのようなお方か分かる。聖書の中で、主イエスが人々にどのように関わっているかを見れば、神さまが私たちにどのように関わってくださるかが分かるのです。
 最近、ある方が、自分にとって主イエスがとても身近になって来た、と証ししてくださいました。今までは、神さまの方に信仰の意識が向いていて、イエス様のことは脇に置いていた。けれども、最近、イエス様がともて身近な方に感じられるようになってきて、イエス様の後ろに神さまを見るということが段々分かるようになってきた、とお話してくださいました。そのとおりです。私たちは、人となられた主イエスを通して、父なる神を知る。私たち一人ひとりを愛する神の愛を知る。それがキリスト教の信仰です。

 さて、そのように神の言葉を語り、神のように行動する主イエスがこう言われました。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うためにきたからである」(47節)。
当時のユダヤ人、特に主流派であるファリサイ派の人々は、神の掟によって人を裁きました。掟を基準に、それを守れない人がいると、あなたは神の国には入れない、見捨てられ、呪われた人だと決めつけ、交際をせず、仲間外れにしました。
 けれども、主イエスは、ファリサイ派に裁かれた徴税人や遊女、罪人や病を負った人々のところへ行き、決めつけず、食事を共にし、あなたも神の愛する子だと告げました。その典型的な話がヨハネによる福音書8章にあります。
 一人の女性が姦通の現場で捕らえられました。売春をする遊女だったのでしょう。それは、姦通してはならない、という神の掟に背く行為でした。人々は、神殿の境内にいた主イエスのもとに、この女性を引っ張って来ました。そして、姦通の罪を犯した者は石打ちの刑で死刑だと掟に定められている。あなたはどう思うか、と主イエスに詰め寄りました。主イエスを試し、陥れようとしたのです。
けれども、主イエスはこう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。すると、人々は一人去り、二人去り、やがてすべての人が去って行き、主イエスとこの女性だけが後に残りました。その時、主イエスはこの女性に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。主イエスは裁くこともできたでしょう。けれども、裁かず、救われたのです。この女性を信じ、生かし、命の道へと送り出されたのです。
生きることは簡単なことではないと、だれしも知っています。一人ひとり、事情があり、抱えている重荷があり、苦悩があり、悲しみがあります。開き直るつもりはないけれど、正しく生きたい、理想的に生きたいと願っても、そうはいかないことが少なからずあります。“分かっちゃいるけど‥”と、もどかしい思いで生きているのです。それを杓子定規に決めつけられ、裁かれたら、たまりませんし、立つ瀬がありません。
主イエスは、人の人生を“今”、決めつけてはならない、裁いてはならないことを、よくご存知です。人の人生は、どんな時も神さまに見守られてあり、神の愛に包まれて、生かされてある。主イエスは、この神の愛に基づいて行動しておられます。

 主イエスは“今”、裁かず、救われます。けれども、他方で“終わりの日”の裁きを語っています。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(48節)。
 “最後の審判”という言葉を、皆さん、お聞きになったことがおありでしょうか?キリスト教信仰では、神さまがお造りになった天地世界が終わり、新しい世界、神の国に代わる時が来る。その終わりの日に、主イエスによって最後の審判が行われると信じられています。
 そして、今日の48節では、「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」と言われています。言葉が裁く、とは、どういう意味でしょうか?
 先日、新しい自動車を購入する契約をしました。今、乗っている日産のセレナが15年車になりました。GWの直前に、エンジンを始動するセルモーターが壊れて、出先からレッカー車で修理工場に連れて行かれるという、偉い目に遭いました。7月で車検なのですが、話を聞くと、タイヤも変えないと溝が減っていてダメ、シャフトも交換しないとグリスが漏れていて車検が通らないと言われました。もう少し乗りたい気持もあったのですが、色々考えて、買い替えることにしました。今回は軽自動車を買うことにしました。色々調べて、運転の安全性を考えて、レーザーセンサーによる自動ブレーキ機能が付いている車を選びました。
 契約の際に、この自動ブレーキ機能について、詳しく説明されました。速度が何キロ以下で作動するとか、曲がる時には作動しないことがある、前方の車との位置関係がまっすぐではなくズレている時には作動しないことがある等々、色々と自動ブレーキが作動する場合、しない場合を説明されました。たぶん、“自動ブレーキが作動しなかった!どうしてだ?!”とクレームをつけられたことがあったのかな?と思いました。そういうことが後日起こった時に、“あの時、説明しておきましたよ。それは、こちらの責任ではなく、あなたの運転の責任ですよ”と言えるための事前説明なのでしょう。
 それを思い出しまして、終わりの日に言葉が裁く、というのは、イエス様が“あの時、こう言っておいたよ”と言われるということだと思いました。“あの時、こう言っておいたよ。でも、あなたはその言葉を拒み、受け入れなかった。だから、これはあなたの責任だよ”と、私たちの罪とその責任が明らかになる、ということでしょう。
 そのように、私たちの信仰生活は、人生の終わりの時か、それともこの世の終わりの時か、主イエスの言葉によって裁かれる時が来るのです。

 けれども、大切なことを見落としてはなりません。主イエスの言葉によって私たちの罪が明らかにされた後、どうなるのでしょうか?地獄に落とされるのでしょうか?私たちは、最後の審判というと、地獄に落とされるための裁きだと思ってはいないでしょうか?‥‥そうではない、と私は信じています。
 既に主イエスによる救いを信じて洗礼を受けた者は、主イエスの十字架による罪の赦しという約束手形を持っているのです。自分の罪を悔い改め、その約束手形を出せば、“あなたの罪は赦された”と赦しを宣言され、天の御国に入れる者とされます。
 また、人生において洗礼を受けていなかったとしても、終わりの日に自分の罪が明らかにされた時、心から悔い改めて、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と赦しを乞うならば、神さまは私たちを赦し、天の故郷に迎え入れてくださるに違いないと私は思うのです。神さまは人間のようにケチなお心ではないと私は信じているのです。
 主イエスが十字架に架けられ処刑された時、一緒に処刑された罪人の一人が悔い改めました。その時、主イエスはその罪人に、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23章43節)と宣言されました。ある意味でまさに“終わりの日の裁き”です。けれども、それは救いへの裁きであり、永遠の命への裁きです。
 そして、そのように言われる主イエスの言葉は父なる神の言葉であり、主イエスを見ることは神を見ることであるならば、それが“神の裁き”です。徹頭徹尾、最後の最後まで、私たちを救い、永遠の命に迎え入れることが、神さまの御心なのです。
 主イエスを拒み、受け入れない者でさえ、神さまは受け入れ、救われる。そんなにも大きく、広く、深い愛を、私たちが信じる神はお持ちです。


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