坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年6月2日 主日礼拝説教 「あなたを洗わないなら」

聖書 ヨハネによる福音書13章1~11節
説教者 山岡創牧師

◆弟子の足を洗う
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 

               「あなたを洗わないなら」
                        ~ この上ない愛の刻印 ~
 主イエスは、一人ひとり、弟子たちの足を洗いました。食事のたびに毎回していたわけではないと思います。特別な、メモリアルな(記念としての)主の業(わざ)であり、出来事でした。
 本来、足を洗うという行為は、奴隷の仕事でした。あるいは、集団の中でいちばん下の者が行うことであったかも知れません。そういう当時の習慣からすれば、弟子団のリーダーであり、師匠である主イエスが弟子たちの足を洗うことなど考えられない。だから、ペトロは、“まさか”という思いで「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)と驚いて尋ねました。そして、主イエスが躊躇(ちゅうちょ)なく自分の足を洗おうとする様子に、「わたしの足など決して洗わないでください」(8節)と、奴隷の行為、いちばん下の僕(しもべ)の仕事をなさろうとする主イエスに遠慮したのだと思われます。
 けれども、主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)とまで言われて、ペトロの足を、弟子たちの足を洗いました。

 どうして主イエスは、そこまでして弟子たちの足を洗うという行為をなさったのでしょうか?それは、「この世から父のもとへ移るご自分の時が来た」(1節)からです。「神のもとに帰ろうとしていることを悟っ(た)」からです。
 簡単に言えば、それは主イエスが“死ぬ時”ということです。主イエスが十字架に架けられて処刑される時ということです。主イエスの教えや行動に反対するユダヤ教の指導者たち、また主流派であるファリサイ派の人々の敵意はピークに達していました。主イエスの内には、そのようなユダヤ教の現状を覆(くつがえ)し、彼らを返り討ちにし、自分が王になるといった意図は全くありませんでした。だから、主イエスは早晩、自分が敵対者たちに捕らえられ、裁かれ、処刑されるであろうことを予想しておられたのでしょう。
 自分が処刑される。それはつまり、弟子たちとの“別れの時”が来る、ということです。もはや弟子たちに教えることも、食事をすることも、旅をすることもできなくなるのです。その別れを悟って、主イエスが弟子たちになさったことは何か?「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)ということなのです。そして、この上ない愛を象徴するしるしが、弟子たちの足を洗うという行為でした。弟子たちの足を洗うことは、主イエスの愛の証しであり、また、弟子たちの心に、この上ない愛のメモリーを刻もうとする行為だったのです。

 大切な人との別れを悟った時、私たちは、何か特別なことをしたくなる、メモリアルなことをしたくなるのではないでしょうか?
 つい先日、私も“別れ”を経験しました。人との別れではありません。俗な話で申し訳ありませんが、それは自動車との別れでした。先週の説教でもお話しましたが、今まで乗っていた日産のセレナというワゴン車を買い替えることにしました。平成16年車で、私の前の人が5年乗り、その後、私が10年乗りました。色々なパーツが劣化して、修理や交換が必要になり、大きな車なので税金やガソリン代なども考えて買い替えることにしました。けれども、私の中に“まだ乗れるのではないか?”という未練と愛着がくすぶっていました。
それでも、別れの時は刻々と迫って来ます。私は最後に、この車と思い出をつくろうと思いました。それで、よく行く思い出の場所に、遠出のドライブをしました。そして、ドライブに行く前に、車をきれいに洗ってやることにしました。“10年間お世話になったなぁ”という思いで、丁寧に洗いました。三日後には別れる車に、しかもたぶん廃車になるであろう車に何を無駄なことを、と思われるかも知れません。けれども、そうせずにはいられない気持でした。
 車を洗いながら、イエス様はどんな思いで、弟子たちの足を洗ったのだろうか?と思い巡らしました。切ない気持だったかも知れない。寂しい思いもあったかも知れない。心配もあったに違いない。けれども、それ以上に、今まで共に歩んで来た弟子たちに“最後の愛”を注ごう、という思いだったのではないでしょうか。今までも、この上ない愛で弟子たちを愛して来た。そして最後まで、この上ない愛で愛し抜こう。その愛を、主イエスはご自分の心にも、また弟子たちの心にも、メモリーとして、記念として刻もうとされたのではないでしょうか。
 主イエスは、この上ない愛で弟子たちを愛し抜かれました。その愛を象徴するものが、足を洗うという行為でした。

 ところで、この上ない愛とは、いったいどんなな愛なのでしょうか?今日の聖書箇所に大きなヒントがあります。それは、イスカリオテのユダと主イエスの関係から見えて来ます。
 イスカリオテのユダは、主イエスを裏切る弟子と記されています。この後で、ユダは、主イエスを引き渡すために、オリーブ山に敵対者たちの手引をします。そのようにユダが裏切ることを、主イエスは、「ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた」(11節)と書かれています。
 それならば、主イエスは裏切り者の足は洗わなかったのでしょうか?そうではないと私は思うのです。6節に「シモン・ペトロのところに来ると」とありますから、それまでに何人かの弟子たちの足を洗われたのです。その中に、既にユダはいたかも知れません。あるいは、ペトロの後だったとしても、主イエスがユダ一人を洗わずにおいたとは考えられません。主イエスは、ご自分を裏切るユダの足を、僕のように洗ったのです。
 ユダが裏切ることが分かっていたなら、ユダを拘束するとか、対処することもできたでしょう。けれども、主イエスはそれをなさいませんでした。「あなたがたは清いのだが、皆がきよいわけではない」(10節)と、裏切り者がいることを暗にほのめかしながら、しかし名指しすることはせず、ユダが裏切りの気持を翻(ひるがえ)すことを促されました。そして、ユダが気持を翻さないと分かっても、「しようとしていることを、今すぐしなさい」(27節)と言って、その場からユダを送り出しました。だから、他の弟子たちは、ユダが裏切り者だとは、事が起こるまではこれっぽっちも気づかなかったのです。
 自分の意に沿わない人、自分から離れていく人、自分を裏切る者でさえも、憎まず、赦(ゆる)し、受け入れて、その人がしようとしていることを自由にさせ、見守る。それが、この上ない愛の正体です。
ユダだけでなく、弟子たちはある意味で皆、主イエスの意に沿わない者、離れ去る者、裏切る者でした。主イエスがどんなに、いちばん下になって皆に仕えよ、と僕の道を教えても、自分がいちばん偉くなりたいと、最後の最後まで出世を願い、競争した弟子たちでした。ユダのように裏切らずとも、主イエスが逮捕された時には、皆、主イエスを見捨てて逃げ出し、ペトロは、主イエスを知らない、関係ないと否認して、我が身を守りました。
そういう弟子たちを、主イエスはそれでもずっと愛して来られたのです。この上なく愛し抜かれたのです。だから、弟子たちは皆、最初から最後まで、主イエスのこの上ない愛に包まれていました。それが、「既に体を洗った者は、全身清い」(10節)という意味です。もう既に、弟子たちの魂が、存在の全てが、主イエスのこの上ない愛の中に受け入れられているのです。あとは、その愛の恵みが、行為という形で、また心のメモリーとして刻まれるだけでよいのです。それが、足を洗うという行為でした。
もし弟子たちの中に、清い者と清くない者の違いがあるとすれば、それは本人の清い心とか善い行いとか、そういう問題ではありません。それは、自分が主イエスのこの上ない愛に、裏切り者さえも赦し、自由にさせる愛に気づいたかどうか。そして、後で悔い改めて、感謝して、帰って来たかどうかの違いでしょう。帰って来て、この愛の下に生きるようになったかどうかの違いでしょう。

 車を運転していて、ナック・ファイブというラジオ番組を聞いていた時、こんな話を聞きました。番組に投稿したリスナーの話ですが、その人はプロ野球で、大の広島カープ・ファンでした。広島に新井貴浩という選手がいました。通産2000本安打も達成した偉大な選手です。新井選手は当初、“自分は広島一筋です。絶対に広島から移籍はしません”みたいなことを公言していたそうです。ところが、元広島の先輩で“兄貴”と慕っていた金本選手が阪神タイガースの監督に就任すると、新井選手はフリーエージェントという移籍制度を使って阪神に移りました。広島ファンは大ブーイングでした。このリスナーも“お前、広島一筋、移籍しないって言ってたじゃないか。この裏切り者!”といった調子で、新井選手が出るたびに罵(ののし)っていたそうです。
 すると、その罵声(ばせい)を聞いていた妻から、“やんちゃな子どもがおいた(悪さ)をしただけと思えばいいじゃないの。あなた、小さいわね”と言われた。グサッと来て、でもハッとしたそうです。
 何年か経って、新井選手が阪神で戦力外通告され、退団することになった時、広島の松田オーナーが“広島でもう一度やる気があるなら歓迎する”と新井選手に伝えました。もう戻れないと思っていた広島からの誘いに新井選手は即断。その時、松田オーナーは、“やんちゃをしていた放蕩息子が戻って来る。これでいい”と妻と同じことを言ったそうです。その言葉を聞いて、この広島ファンのリスナーさんも、大いに思うところがあり、反省したそうです。後日、新井選手は、復帰直後からの広島のセ・リーグ3連覇に大いに貢献(こうけん)して、40歳で隠退したとのことです。

 自分の意に沿わない人、離れていく人、自分を裏切る者でさえも、憎まず、受け入れて、その人がしようとしていることを自由にさせ、見守る。その人の全存在、魂のすべてを受け入れて生かす。それが主イエスの愛です。十字架の死を通して表された神の愛です。この愛が、私たちにも注がれている。人生を通して、様々な出来事の中で、人間関係の中で、私たちにも注がれている。聖書を通して、この愛を信じた時、味わった時、私たちも主イエスに足を洗っていただいた者、主イエスとかかわりのある者に変えられます。主イエスとかかわる、とは、そういうことなのです。

 

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