坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年6月9日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教 「世界中の国々の言葉で」

聖書 使徒言行録2章1~4節
説教者 山岡創牧師

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

            「世界中の国々の言葉で」
                 ~ 言葉を越えるもの ~
「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。
 本日は、教会の暦の上で、聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)ペンテコステと呼ばれる記念日を迎えました。復活した主イエス・キリストが弟子たちと別れ、天に昇られた後、約束の聖霊が弟子たちに降りました。そして、聖霊の力を受けた弟子たちは、キリストの救いを宣(の)べ伝え、それを信じて洗礼を受けた人々によって世界で最初の教会が生まれた。それがペンテコステ、今日の聖書箇所では「五旬祭(ごじゅんさい)」(1節)と記(しる)されている日です。
 この日、弟子たちは聖霊に満たされて、「ほかの国々の言葉で」キリストの救いが語られるという出来事が起こりました。その出来事にちなんで、今日は、日本語による聖書朗読に加えて、同じ聖書箇所を、ギリシア語、イタリア語、英語で朗読していただきました。皆さん、いかがでしたか?何かをお感じになったでしょうか?
 けれども、およそ2千年前のペンテコステの出来事は、これとは少しばかり違っていたと思うのです。その時の現象にできるだけ近づけて再現してみましょう。Nさん、Oさん、Yさん、その場でお立ちください。私が日本語で今日の聖書箇所を朗読します。3人も同時に、それぞれの言語で同じ聖書箇所を朗読してみてください。では、準備はいいですか?できるだけ大きな声で、さん、はい!‥‥(同時に朗読)‥‥
 皆さん、いかがでしたか?これが当時のペンテコステに起こった出来事に、より近い現象だと思います。5節以下を読むと、どの地域の言語が話されているのかが書かれています。それを読むと、もっと多くの言語が同時に話されていたことが分かります。
 この現場に、居合わせた人々があっけにとられ(6節)、驚きあやしんだ(7節)のはもっともです。13節に「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)とあざける人がいたと書かれていますが、そのように言うのも無理はありません。多くの言語が同時に話されているカオス(混沌)状態なのですから。私たちもほとんどの人が辛うじて、日本語の朗読をところどころ、聞きとることができたぐらいでしょう。
 けれども、一見、多くの言語が話されていて、混沌(こんとん)として、秩序がないように思われる出来事の中に、一致している点がありました。それは、「神の偉大な業」(11節)が語られているということでした。言葉は違っても、語られているのはキリストの救い、ほめたたえられているのは神の救いの御業(みわざ)だったのです。
 五旬祭に参加するために、海外に住む多くのユダヤ人たちがエルサレム神殿を訪れていたでしょう。そして、彼らが最も驚いたのは、この点だったと思われます。数多くの言語が同時に語られている。何事か!?と思う。けれども、混沌とした多言語の中で、ふと自分の故郷の言葉が聞こえて来た。しかも、それは神の業を語っている。それが何よりの驚きだったと思います。だから、11節に「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きの言葉が記されています。

 ペンテコステのこの日、どうしてこのような不思議な出来事が起こったのでしょうか?それは、復活した主イエス・キリストが弟子たちに約束されたことが実現したのだと思われます。
 使徒言行録1章には、天に昇る直前の主イエスと弟子たちとのやり取りが記されています。その8節で、主イエスは弟子たちの次のように語りかけています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1章8節)。
 「証人」というのは、主イエスが十字架で死んだこと、その死から復活したことを証(あか)しする人ということです。単に目撃証言ではなく、主イエスの十字架と復活によって自分が救われたこと、まただれでも救われるという恵みを宣べ伝える証人です。
 しかも、エルサレムにおいてだけではなく、ユダヤ人にだけではなく、「地の果てに至るまで」宣べ伝える証人となる、と言うのです。地の果てに至るまで、ということは当然、数知れない多くの国々、多くの民族にも宣べ伝えるということになります。と言うことは、主イエス・キリストによる救いを、その国その民族に伝わる言葉で伝えていく必要があります。だから、ペンテコステの日に、多くの言語でキリストの救いの御業が話されたという出来事は、「地の果てに至るまで」、すべての人に至るまで、神の救い、キリストの救いは伝えられていくのだ、というキリストの御心(みこころ)を、神のご計画を表わしているのではないでしょうか。そのためには、相手に合わせ、相手の言葉で神の恵みを証しし、伝えることが必要です。
 このことを考えながら、私はふと、パウロの言葉を思い起こしていました。コリントの信徒への手紙(一)9章19節以下に記されている言葉です。
「わたしはだれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては‥‥‥律法に支配されている人のようになりました。‥‥‥律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。‥‥‥弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」
 パウロは、何とかして何人かでも救いたいと、つまり何人かでも伝えたいと、その人のようになったと言います。自分の習慣を捨て、自分の考えを捨て、自分のこだわりを捨て、その人に近づき、理解し、寄り添おうとした。そのようにしてキリストの救いを伝えようとしたのです。その態度は言わば、相手を思いやり、相手と共に歩もうとする“愛”の現れです。愛による生き方です。こちらの言葉を聞け、理解しろという態度ではなく、相手の言語で神の救いを語り伝えるということは、相手を思い、共に歩もうとする愛の一つの形だと言うことができるでしょう。だから、地の果てに至るまで、すべての人に救いを宣べ伝えるということは、神さまご自身の愛の現れ、私たちに対する愛の表れだと言うことができるでしょう。

 けれども、矛盾したことを言うようですが、多くの言語で、相手の言語で伝えようとすることは、必ずしも最も大切なことではないのではないか、という気がします。なぜなら、キリストの救いというものは、言語を越えて、言葉の壁を越えて伝わるもの、通い合うものがあるからです。
 12年ほど前に、私たちの教会でC.Sさんというカナダ人の女性が、共に教会生活をなさいました。覚えている人もいるでしょう。彼女は2年間、坂戸市の学校で英語教育をするALTとして来日していました。その2年間、最後の最後まで、この教会で教会生活を送りました。帰国する日の朝、坂戸駅から成田空港へバスで向かう彼女を見送ったことを、今も思い出します。
 C.Sさんは、日本語がほとんどできませんでした。だから、コミュニケーションを取る時は、必ず英語でした。私は英会話が得意ではないので苦労しました。この教会で英会話ができるのは当時、ほんの数名でした。礼拝はもちろん日本語で司式され、信仰告白や主の祈り等は英文のものを用意しましたが、説教を英語でだれかに通訳していただくには、私が準備不足でした。礼拝を守っていて、彼女はほとんどチンプンカンプンだったでしょう。私は、そして私たちの教会は、彼女の言語でキリストの救いを証しし、伝えることができませんでした。
 それでも、彼女は休まずに礼拝に来続けました。いつもニコニコしていました。彼女自身が熱心なクリスチャンだったから、という点がもちろんあったでしょう。けれども、それだけではなかったのではないか、と私は思うのです。言葉を越えて伝わるもの、通い合うものがきっとあったのだ、と思うのです。それは、お互いに信頼し合い、思い合い、祈り合う“愛”だったのだと思うのです。それがあったから、C.Sさんと私たちは、共に教会生活を送ることができた。共に生きることができた。
 我が家の長女・Yが大学生だった時に、カナダの彼女の家庭にホーム・ステイさせていただいたことがありました。教会から今も、彼女の夫・A.Sさんが日本語をできるので、会報『流れのほとり』を送り続けています。

 2千年前のペンテコステの日、聖霊の働きによって、多くの国々の言葉で神の救いが語られました。それは、地の果てに至るまで、すべての人に、神の愛と平和を伝えようとする、神の愛の心の現れでした。けれども、相手に合わせ、相手に寄り添って、神の救いを、神の愛を伝えるということは、必ずしも言葉の問題ではありません。大切なことは、“愛”が私たちの内に宿ることです。聖霊によって、愛することの意味に気づかされ、愛を与えられ、相手の気持や状況を思い、振る舞い、行動することでしょう。その愛こそが、日本人であろうと、外国の方であろうと、家族であろうと、友人であろうと、職場の同僚であろうと、赤の他人であろうと、どんな人であろうと、神の救いを伝えていくために最も重要な“言葉にならない言葉”“言葉を越えた言葉”“世界共通のコミュニケーション手段”ではないでしょうか。
 使徒言行録2章の最後、39節で、ペトロは、聖霊は「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と語っています。
 そして、今ここで、聖書の言葉を聞いている私たちも、神さまに招かれています。主イエス・キリストの救いを信じるならば、必ず聖霊がその心に与えられます。そして、聖霊の最も大きな働きは、最も大きな賜物は“愛”なのです。
何はなくとも愛がある。そういう私たち、そういう教会でありたいと願います。信仰により、聖霊によって与えられる愛によって、今、自分はだれを、どのように愛することができるか、だれを愛することが必要か、お一人おひとり、どうぞ考えてみてください。

 

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