坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年7月28日 主日礼拝説教 「イエスを通って」

聖書  ヨハネによる福音書14章1~6節
説教者 山岡創牧師

◆イエスは父に至る道
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

                                   「イエスを通って」
 私たちの教会では、何人かの青年たちが、教会に来た時に、不思議な挨拶(あいさつ)をします。普通は“おはようございます”もしくは“こんにちは”“こんばんは”でしょう。ところが、彼らは教会の玄関を開けて、“ただいま”と言って入って来ます。そういう時は、こちらも“お帰り”と言って迎えます。
 それはつまり、教会を自分の家だ、自分の帰る場所だと意識している、ということです。神が人と共にいてくださる場所を、神の愛の下に人の愛がある場所を、自分の帰るべき場所、帰ることができる場所だと信じている、ということでしょう。
 “帰れる場所”がある。弟子たちも、帰れる場所がほしかったのかも知れません。この時、弟子たちは、主イエスと過越(すぎこし)の食事と言われる祭りの夕食を共にしていました。後に“最後の晩餐(ばんさん)”と呼ばれる夕食です。ただならぬ空気が流れていました。いつもと違って、主イエスが弟子たちの足を洗いました。食事の席で、裏切り者の予告がなされました。そして、直前の箇所で、弟子たちは、「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」(33節)と主イエスから突き放され、ペトロが、命を捨ててもついて行きます、と言うと、あなたはわたしを知らないと言うだろう、と予言されてしまうのです。
 そのような、ただならぬ言葉のやり取り、異常な空気の中で、弟子たちは心を騒がせていたに違いありません。“イエス様、何を考えておられるのだろう?”“どこへ行かれるのだろう?”“自分たちはついては行けないのだろうか?”“ついて行くためには命を捨てなければならないのだろうか?”そんな動揺(どうよう)と不安が、弟子たちの頭の中をグルグルと駆け巡っていたことでしょう。それは、弟子たちにとって、見知らぬ世界に放り出され、右も左も分からず、帰れる場所もない‥‥そんな、孤児(みなしご)のような不安だったに違いありません。
 それを察して、主イエスが言われます。
こころを騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じない」(1節)。
そして、あなたがたは孤児ではない、帰れる場所がある、ということをお示しになります。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(2節)と言って、主イエスは、行って場所を用意したら、戻って来てあなたがたを迎える、と弟子たちを安心させようとなさっています。
 「住む所」とは、弟子たちが帰れる場所だと言い換えても良いでしょう。それは、“魂の故郷”であり、“居場所”とも言えるところです。
私たちは普段、何気なく生きていると、居場所の問題など考えもしませんし、また自分には居場所があるということに感謝することもありません。けれども、私たちにとって居場所があるかどうかということは、生きていく上で、重大問題です。もしそれがなかったら、私たちは不安に陥ります。そして、この世に自分の居場所はどこにもないと感じたら、ともすれば死んでしまいたくなるような死活問題でさえあるのです。
 主イエスはそのことを、よくご存じです。だから、弟子たちに、わたしはあなたがたを放り出すわけではない、見捨てるわけではない。一時離れるが、それはあなたがたのために場所を用意しに行くのだ。
 ただ、弟子たちは、その主イエスの言葉がすぐには分かりませんでした。この後で、主イエスが祭司長やファリサイ派の人々に捕らえられ、十字架に架けられ処刑された時、弟子たちは、自分たちにもその累(るい)が及ぶのではないかと震え上がり、戸に鍵かけて部屋にこもっていたことが、ヨハネ福音書20章に記されています。そして、その後、彼らは故郷のガリラヤ地方に帰ります。それは、弟子たちが、帰れる場所を求めていた、自分たちが安心して居られる場所を求めていたことを表わしていると思います。

 私たちの人生は、この「場所」を求める旅なのかも知れません。帰れる場所を探し続ける道なのかも知れません。問題は、その場所を、いつ、どこに探し求めるかということなのだと思います。
 主イエスは、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」(3節)と言われました。この言葉を考えると、その場所とは、この世のものではなく、その時とは将来のことと思われます。それは、“天国”と呼ばれる場所であり、その時は“世の終わり”と言われる将来の時が思い起こされます。
 けれども、ヨハネによる福音書と言うのは、ちょっと特殊な書でありまして、この時と場所を、将来、天国で、と考えるよりも、“今”“ここで”と考えるのです。もちろん、将来、天国で、ということを否定しているわけではありません。けれども、私たちの「場所」は“今、ここなんだよ”とヨハネ福音書は強く訴えてくるのです。
 だから、主イエスが「戻って来て」と言われるタイミングは、将来、“最後の審判”と呼ばれる時ではないのです。それは“今”です。十字架に架けられた主イエスが復活して現われてくださった“今”です。そして、復活した主イエスが天に帰られた直後、代わりに聖霊(せいれい)が送られて来て、それが霊なる主イエスが戻って来た、ということなのです。
 だから、私たちにとって、主イエスが用意してくださる「場所」とは、“今”“この人生において”なのです。将来、天国で、という希望はもちろん、私たちの胸に灯しておきましょう。聖霊の働きを通して、主イエスが私(たち)と共にいて愛してくださると信じられる今、この人生こそが、私たちの「場所」。居場所であり、帰ることができる場所であり、「父のもと」(6節)なのです。

 けれども、主イエスの言葉を聞いても、トマスはわけが分からず、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(5節)と尋ねています。私たちの信仰も大なり小なり、トマスと似たり寄ったりなのではないでしょうか。分からないことが少なからずある。すぐには分からない。信じて歩いてみなければ分からない。だから、主イエスは言われました。
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
 主イエスの歩く「道」とは、どんな道でしょうか?それは十字架への道です。父なる神の言葉に聴き、神の御心(みこころ)に従って生きる道です。神に愛されていることを信じ、神を愛することと、隣人を愛することとが最も大切だと心に刻んで歩く道です。そして、それは主イエスの場合、友のために、弟子たちのために命を捨て、すべての人をその罪から解放するために命をささげる愛の道でした。命をささげて十字架に架かる苦難と悩みの道でした。けれども、その苦難の先に命があることを、父なる神が復活の命の栄光を用意してくださっていることを信じて歩く道でした。
 わたしは道である。そのように言われる主イエスの道、主イエスと同じ道を歩くことを弟子たちは求められています。私たちも招かれています。神に聴き従う道です。愛を信じ、愛して生きる道です。苦難の道です。命を信じる道です。光を信じる道です。

 私は、「道」ということを黙想しながら、ふと星野富弘さんの『鈴の鳴る道』という本を思い起こしました。多くの方がご存じと思いますが、星野富弘さんは、高校の体育教師をしていましたが、24歳の時、器械体操の着地に失敗し、首の骨が折れて、首から下が麻痺(まひ)してしまいました。そういう中で、口に絵筆をくわえて、草花の絵と詩を描くようになったクリスチャンです。星野さんは、『鈴の鳴る道』という詩画集の中で、最後にこんなエッセイを書いておられます。


 電動車椅子に乗るようになって12年、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。脳味噌までひっくり返るような振動にはお手上げであり、舗装道路でも、いたるところに段差や傾斜があって怖い思いをすることがある。ところが、最近、そういった道のでこぼこを通る時に一つの楽しみができた、と言って、星野富弘さんは次のように書いておられます。
 ある人から鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶらさげた。‥‥‥道路を走っていたら、例のごとく、小さなでこぼこがあり、私は電動車いすのレバーを慎重に動かしながら、そこを通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴ったのである。心に沁みるような澄んだ音色だった。「いい音だなあ」。私はもう一度、その音色が聞きたくて、引き返してでこぼこの上に乗ってみた。「チリーン」「チリーン」、小さいけれど、ほんとうに良い音だった。その日から道のでこぼこを通るのが楽しみになったのである。
 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通って来た。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持を持つようになっていた。しかし、小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持を、とても和(なご)やかにしてくれるようになったのである。
鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか”。その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。美しく鳴らし続ける人もいるだろうし、閉ざした心の奥に、押さえこんでしまっている人もいるだろう。
私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色(ねいろ)で歌い、キラキラと輝くような毎日を送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回(うかい)せずに進もうと思う。(『鈴の鳴る道』90~91頁)


星野富弘さんも心の鈴を押さえこんでいる時期があったと思います。けれども、主イエスを信じた時から、クリスチャンとして、主イエスという道、主イエスの道を歩くことを思いながら、生きているのだと思うのです。命を信じ、光を信じて歩いているのだと思います。
 もう一つ、〈道〉という詩で、仏教徒の相田みつをさんが書かれたものを見つけました。


長い人生にはなあ どんなに避けようとしても
どうしても通らなければならぬ道というものがあるんだな
そんなときはその道を黙って歩くことだな
愚痴や弱音を吐かないでな 黙って歩くんだよ
ただ黙って 涙なんか見せちゃダメだぜ
  そしてなあ その時なんだよ
人間としての いのちの根がふかくなるのは


 私は、この詩を読みながら、「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエスが言われたことが、スーッと自分の心に入って来ました。主イエスは、父なる神の愛を信じ、その真理の御(み)言葉に聴き従って、避けることのできない十字架への道を歩かれました。愚痴や弱音を吐かないで‥‥と言われると、イエス様もゲッセマネの園で、ちょっと吐いたかも知れません。でも、相田みつをさんも、そういった人の心の機微(きび)はよく分かってらっしゃると思います。愚痴や弱音を吐いても、思い直して自分の道に帰ってくる。それがある意味で“愚痴や弱音を吐かず黙って”ということだと思います。主イエスはその意味で、思い直して、避けることのできない十字架の道を歩き抜かれました。そして、その先に復活の命が備えられていました。
 それは言い換えれば、人間としてのいのち根が深くなる、ということなのだと思います。それが、「わたしは道であり、真理であり、命である」、私を通って父のもとに行くのだよ、と言われた主イエスの言葉の意味ではないかと思いました。
 主イエスを信じ、父なる神の愛を信じて、自分の人生を歩み、命の根を深めていく、命を深めていただく。それが、今、ここを、自分の人生の「場所」として、居場所として、帰れる場所として生きる。そういうことではないでしょうか。

 

記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/