坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年8月4日 主日礼拝説教 「神を知る、神を見る」

聖書 ヨハネによる福音書14章7~14節
説教者 山岡創牧師

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

                                「神を知る、神を見る」
主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)。
 “神さまを見たい!”、そう思ったことはあるでしょうか?牧師をしていて、神さまを見たい、と教会に来る人から言われたことは記憶にありません。けれども、こういう言葉は時々、聞くことがあります。“もしイエス様がここにおられたら‥”“もしイエス様が目の前におられたら‥”。それはつまり、“神さまを見たい”という願いと同じではないか、と思うのです。
 どうして私たちは、神を見たいと思うのでしょうか?それは、神さまを直接見れば、神さまを確信することができると思うからではないでしょうか。自分の信仰に迷いがある。分からないことがある。疑問がある。信じ切れていない。曖昧(あいまい)さがある。モヤモヤすることがある。時々、そんなことを感じて、“信じて生きることに意味はあるのか?”と考えてしまうこともある。だから、はっきりと信じるために、神さまを見たい、イエス様を見たいと思うのではないでしょうか。
神さまを見れば、そして神さまから直接言葉を聞けば、私たちは納得(なっとく)できる。確信することができる。そして、自分がどうすべきか、どのように生きたら良いかも知ることができる。そうすれば、幸せになれる。満足できる。そんなふうに私たちは考えているのかも知れません。
けれども、もし本当に神さまを見たら、私たちは確信するどころか、失望するかも知れません。なぜなら、私たちが神さまに願い求めていることと、神さまが私たちに願い求め、与えるものは違うかも知れないからです。私たちはともすれば、自分の内に、神さまに対する自己本位なイメージをつくり上げています。“もし本当に神さまがいるならば、こうしてくださるはずだ。この願いを叶えてくださるはずだ”、そんな期待と願望を抱いていることがあります。もしも、そういう神さまに対するイメージや、期待や願望と、本当に見た神さまとが違っていたら、私たちは、その神さまを受け入れることができるでしょうか。実はそこに、私たちの信仰の大切なポイントがあります。
信じるとは、“私”が願っていることを神さまに叶えさせ、“私”に神さまを従わせることではありません。“神さま”が私に語りかける言葉に聴いて従うこと、“神さま”が示してくださること、見せてくださるものを受け入れることです。良いものとして受け入れることです。それが、信じるということでありましょう。大切なことは、“私が”ではなく“神さまが”と、意識を転換すること、命の中心点を転換することです。

 さて、主イエスは、最後の晩餐(ばんさん)の席上で、弟子たちに言われました。
「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知ることになる。いや、既に父を見ている」(7節)。
 それに対して、フィリポが、8節のように、示してください、見せてください、と言うわけですが、それに対して主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)とお答えになっています。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(10節、11節)、つまり私と父なる神は一心同体である。だから、わたしが「言う言葉」(10節)は父なる神の言葉である。「わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業(わざ)そのものによって信じなさい」(11節)と主イエスは弟子たちに語りかけています。
 ご自分が行う「業」を見て、信じなさい。主イエスが、父なる神を示していることを信じなさい。あなたがたは今、神を見ていると信じなさい、と主イエスは言われます。
 主イエスが行う「業」とはどんな業でしょうか。奇跡を起こし、病を癒(いや)す業だ。そう考えたら、私たちは奇跡や癒しによって示される“力”に期待するようになります。神の力を信じること自体は間違いではありません。けれども、奇跡や癒しの力は、神さまが“私は神だよ”と私たちに示すための、言わばデモンストレーションです。神さまが私たちに言いたいこと、願っていることは、“力”とは別のところにあります。もしも主イエスが私たちに示したかったものが神の“力”であったならば、十字架にお架かりになるはずがありません。敵対する祭司長やファリサイ派の人たちを蹴散らして勝利した方が、その力を示すことができるからです。
 主イエスがその「業」によって弟子たちに、私たちに示したいものは“力”とは別のところにあります。けれども、私たちが何よりその力に期待して、その力によって自分の願いを叶えてもらおう、叶えさせようと考えたら、それは信仰が間違った方向に行くことになります。神さまの御心(みこころ)とは違う信仰になってしまいます。
 主イエスが言われる「業」というのは、“愛”を示す業です。例えば、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)8章で言えば、姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女性が神の掟によって処刑されそうになっているのを、その裁きから救い、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、その女性を赦(ゆる)して送り出す「業」です。その業は、神の愛を示しているのです。
 あるいは、最後の晩餐が始まった13章以降の内容から言えば、主であり師であるイエスが弟子たちの足を洗った「業」です。ご自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダを、それを知りながら罰さずに送り出した「業」です。友である弟子たちのために自分の命を捨てて十字架にお架かりになった「業」です。すべての人の罪を贖(あがな)い、その罪を赦し、罪から解放するために、ご自分の命をささげて十字架にお架かりになった「業」です。それらの「業」には、この世の常識や人間の損得計算を超えた“神の愛”が示されています。
 これらの「業そのもの」を見て、“愛”を感じて、主イエスを信じてほしい。主イエスがお示しになる神を信じてほしい。あなた自身が父なる神に愛されて生きているということを信じてほしい。愛されていることを信じて、喜び、感謝し、幸せに生きてほしい。主イエスが私たちに願い求めているのは、そのことです。
 そのように信じて、信仰を告白した弟子がいました。トマスです。主イエスが十字架刑で死んだ後、復活して弟子たちの前に現れた時、トマスはその場に居合わせず、主イエスを見ることができませんでした。他の弟子たちが信じて喜び合っているのに、自分独り、その輪の中に入ることができず、疎外(そがい)されたような寂しさを感じて、トマスは、信じないと言ってしまいます。主イエスが十字架に釘付けられた手の穴を見て、そこに自分の指を入れなければ、私は決して信じない、と啖呵(たんか)を切ってしまったのです。
 後でトマスは後悔したでしょう。自己嫌悪に陥り、自分は弟子失格だと落ち込んでいたかも知れません。そんなトマスのところに、主イエスは来てくださって、見てごらん、指を入れてごらん、それでいいから信じる者になりなさい、とトマスを責めずに、やさしく諭(さと)してくださいました。その主イエスの「業」に、トマスは、自分に迫ってくる“神の愛”を感じたのです。自分のすべてを赦し、受け入れてくださる愛の温かさに、“神”を感じたのです。その感動が、「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)という告白となってほとばしったのです。ヨハネによる福音書20章の話です。

 主イエスがなさる“愛の業”によって、主イエスを“神”と信じる。そのように信じた者は、「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)と主イエスは言われます。それは愛の業です。神の愛を示し、伝える業です。その業を私たちが行うことができるように、父のもとに昇り、天におられる主イエスが、その願いをかなえてくださるのです。「もっと大きな業」というのは、私たちの愛が主イエスの愛より大きいということではなく、神の愛を、ユダヤを越えて世界中に届けるようになる、という意味だと思われます。
 話が変わりますが、『こころの友』という伝道冊子に毎月、〈あなたへの手紙〉というコーナーが連載されています。今回、8月号には、勝田教会の鈴木光牧師が「神を利用した自分の醜さ」というタイトルで、ご自分の証しを書いておられました。同じ関東教区で、私もよく知っている先生です。
 鈴木先生は、子どもの頃、病弱でなかなか学校に行けなかったそうです。でも、ご両親に愛され、また祈りの中で神さまの愛を感じ、心に安らぎを感じていたと言います。やがて、高校生になる頃にはすっかり丈夫になって、信仰熱心な若者になります。
 ところが、熱心さが高じて、大学生の時、キリスト教関係のサークルでリーダーとしてかなり独善的に振舞い、メンバーをバラバラにしてしまったそうです。一人の先輩から、その間違いを指摘され、反省し、メンバーに謝り、一件落着をした‥‥‥と鈴木先生は思っていました。けれども、翌朝、与えられた聖書の御(み)言葉によって、鈴木先生は自分自身にハッとします。その時の体験を、先生は次のように書いています。
 その瞬間、自分はあんなに頼っていた神様を、いつのまにか自分に都合のよいように利用していたことに気づきました。敬虔(けいけん)な善人面(ぜんにんずら)をして、実際は自分のために神を利用している‥‥あふれるような汚れや悪がじぶんにあることを突き付けられたようでした。人には謝ったかも知れません。でも私は最も身近で頼って来た神さまに謝ったことがありませんでした。そのとき、聖書の教える「罪」に気づかされたのです。
 すると、不思議なことに急に眼の前に十字架のイメージが迫って来ました。神の子イエス・キリストは人の罪を赦すために十字架につけられたと聖書は教えています。「その汚れも悪もわたしが赦した」とイエス・キリストに言われ、救われたように感じました。
 以来、わたしはこの「赦しと救い」があなたのものであると伝えることに生涯をかけたいと願うようになり、牧師になりました。(『こころの友』2019年8月号)
 赦しと救いが“あなた”のものであると伝える。それは“神の愛”があなたのものであると伝える「業」だと言い換えても良いでしょう。鈴木光先生は、生涯をかけて、それを伝えたいと願いました。その願いを、主イエス・キリストは、かなえてくださったのです。
 私たちも、“愛”を届ける「業」を行うように、主イエスから求められています。自分の力ではできません。実生活の中で、人間関係において、信仰の弱さ、愛の足りなさを感じずにはおられません。けれども、そんな自分が神さまに赦され、愛されていることを知って、愛の「業」ができるようにと主イエスに祈り求める時、主イエスは私たちの内に聖霊(せいれい)を与え、助けてくださいます。
 私たちは決して、信仰の篤(あつ)い人ではありません。愛の豊かな人ではありません。“できる人”ではありません。聖人君子ではありません。
 けれども、神の愛を信じる人でありましょう。自分の罪に気づく人でありましょう。悔い改める人でありましょう。神の赦しを知る人でありましょう。神を愛し、人を愛することを願い求めるクリスチャンでありましょう。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(13節)。それが、主イエス・キリストのお約束です。

 

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