坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年8月11日 平和聖日礼拝説教 「戦うことを学ばない」

聖書 ミカ書4章1~3節
説教者 山岡創牧師

◆終わりの日の約束
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

 

                                「戦うことを学ばない」
 本日は〈平和聖日礼拝〉を迎えました。クリスチャンとして平和を祈り求める礼拝です。日本基督(キリスト)教団が8月に、この平和聖日を定めていることは、日本の教会にふさわしいことだと思います。
先週6~8日に、埼玉2区の小学生合同キャンプが行われました。その中で、6日の昼食の祈りの際に、ある方が“8月は6、9、15”と話をされました。70数年前、日本がアメリカと戦った太平洋戦争において、6日は広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、一瞬にして何十万という人の命が失われました。そして、15日には天皇陛下が日本の敗戦を認める宣言がラジオから流れ、敗戦記念日となりました。私も戦後生まれ、戦争を体験していない人間です。けれども、忘れてはならない、受け継いでいかなければならないと考えています。
そのような戦争に関わる大切な日が集中する8月に、私たちは、平和を祈り求める礼拝を守っています。

 さて、今日読んだ聖書の御(み)言葉の最後に、こう書かれていました。
「彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(3節)。
 聖書の神、主なる神は、このように「戦うことを学ばない」「道」(2節)を示される。平和への道を示されるのです。この主なる神のもとに、「多くの国々が来て」(2節)、この平和への道を学び、歩む日が来る、と預言者ミカは預言しています。
 紀元前の時代、メソポタミアからエジプトを結ぶ中近東は、民族サバイバルの時代、戦いの絶えない時代でした。そういう時代の中で、ミカは平和のビジョンを与えられたのです。私たちは、このミカのビジョンを、自分たちの神と宗教がいちばん優れていると、その優位性を語るものとしてではなく、みんなが“平和”の旗のもとに集い、「戦うことを学ばない」平和への道を共に歩く、という視点で語り直したいと思うのです。

 平和への道を学び、歩く。そのために大切なことは、2つあります。一つは、戦争をしないということです。戦争をしないために、剣を鋤とし、槍を鎌とする。すなわち、武力を放棄するのです。
 先ほどS.Sさんが、日本国憲法について証しをしてくださいましたが、私たち日本国民が、戦いを学ばず、平和への道を歩くために、戦争の放棄、武力の放棄、交戦権の放棄を唱っている憲法第9条は非常に重要なものだと思います。もしこれがなくなったら、歯止めが利かなくなり、日本はストレートに戦いへの道を進む国になるでしょう。
 けれども、戦争がなければ平和であると、単純には言えないのではないでしょうか。
もちろん、戦争がないことがどんなにありがたいことか分かりません。けれども、戦争のない時間が、次なる戦争への前段階になっていたら意味がありません。私たちはもう一つ、大切なことを、“心の中の戦い”を捨てることを学ばなければなりません。
 先週の小学生キャンプの中で、創世記4章の〈カインとアベル〉の物語を学びました。神への礼拝、献げ物が喜ばれ、受け入れられたアベルを、カインは妬(ねた)
み、憎み、殺してしまうのです。人間関係の中で、自分の心の中に芽生える妬み、憎しみ、優越を求め、邪魔な相手を排除する思い、自己中心的な考え‥‥‥そういった心の中に芽生える罪に葛藤し、支配されず、コントロールし、払拭していく。それなくして、平和への道は歩けません。
 主イエス・キリストが、私たちにとって良き模範です。自分の罪に気づくこと、隣人を愛すること、相手と対話すること、相手を敵ではなく友と思うこと、何かを譲り、何かを捨てること。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と言われ、愛によって十字架へと歩まれた主イエス・キリストの道を歩く。転んだり、踏み外しそうになっても、祈りながら、思い直して歩いて行く。
 平和への道とは、言い換えれば、十字架への道なのです。十字架の向こうに、光輝く平和があるのです。その平和は“私から”、私の身近な人間関係から始まります。
 〈みんなの学校〉と呼ばれる学校が大阪市にあります。大阪市立大空小学校です。先日、妻が研修で、その学校の教育の話を聞いて来ました。大空小学校に、セイシロウくんという転校生がいました。彼は転校当初、周りに対して攻撃的で、“こんな学校、ぶっ飛ばしてやる”と時限爆弾の絵を描いて、憚(はばかり)りなく校長室に持って来るような子供だったそうです。そんな子が受け入れられて、成長して3年後、卒業式を迎えて、6年生一人ひとりが一言メッセージを語った時、セイシロウくんは、次のように言ったそうです。
“5年生の皆さん、この学校をよろしくお願いします。‥‥人にとって一番大切なのは、平和です”。それを聞いた瞬間、先生たちは、“お前がそれを言うんかい!”と椅子からずり落ちそうになったと言います。しかし、彼は続けて“平和ってとっても簡単ですよ。自分のとなりにいる人を自分が大切にするだけで、世界中の人が大切にされます”と言ったそうです。
 自分のとなりにいる人を自分が大切にする。平和への第一歩は、まさにそれです。祈りと思いを持って、私たちも平和への道を進みましょう。

 

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