坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年8月25日 主日礼拝説教「わたしの隣人とはだれですか」

聖書 ルカによる福音書10章25-42節
説教者:野澤幸宏神学生

◆善いサマリア人
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

               「わたしの隣人とはだれですか」

ルカによる福音書(ふくいんしょ)10章25-42節は、教会生活の長い方は何度も聞いておられるであろう大変有名な箇所です。物語はよく知られていますが、この物語を通して主イエスがわたしたちに何を語り掛けておられるのか、改めて考えてみたいと思います。
たとえ話が語られた状況はどのようなものだったのか見てみましょう。まず主イエスは律法の専門家から「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいですか」という質問を受けます。主イエスは直接答えず、「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に問いかけます。律法の専門家の答えはこうです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」。旧約聖書の律法の中で、最も大切な教えとして他の福音書でも主イエスが語っている教えですが、ここでは主イエスの口からではなく、律法学者の口から自問自答のように語らせています。

正しい答えはもう既に知らされているのです。置かれたそれぞれの状況を抜きにして、正論としてそれを語ることは誰にでも出来ます。しかし、それぞれが定められた状況の中で、その正しい答えを実行することの難しさを主イエスは指摘しています。正しいことを実行するのを邪魔しているのはわたしたち人間すべての心の中にある、「自分を正当化しようと」としたい思いです。律法学者が主イエスに問い返した「では、わたしの隣人とはだれですか」との問いは、神さまの前で自分を良しと見られたいわたしたち自身の問いです。

善いサマリア人のたとえとしてよく知られた物語を主イエスはここで語られます。このたとえに登場する人々が、それぞれ当時どのような社会的状況に置かれていたのかを無視してはいけません。
そこに血を流して今にも命を失いそうな人がいるのに、見て見ぬふりをする祭司とレビ人がいます。これは単に社会的地位の高い彼らが、お高くとまっていて、一般人が死のうが生きようが関係ないと考えている冷たい人なんだ、イヤなヤツなんだ、というような話だと誤解してはなりません。彼らは、旧約聖書に記された律法の定めにより、死体に触れるわけにはいかなかったのです。死体は汚れたものと考えられており、死者に触れると、触れた者の方も一定期間汚れたものとなるとされていました。祭司は現代で言えば牧師、神さまに仕え、祭儀を司(つかさど)る役割を持っています。そしてレビ人はその祭司の補佐役を務めていた人々です。死体に触れ、汚れたものとなってしまえば、清められるまでの一定期間、その神さまにお仕えする奉仕の業(わざ)を担うことが出来なくなってしまいます。彼らにとっては、もしかしたら死んでいるかも知れない血まみれの人に触れない、ということが、神さまに忠実であろうとする行為だったということです。

そして、この追い剥ぎに襲われた人を助けてくれたのは、彼にとって、“敵”だと思っていたサマリア人でした。当時ユダヤ人の慣例、常識の中では、「隣人」と言えば普通、同胞であるユダヤ人を指しました。当時のユダヤ人とサマリア人の関係を確認しておかねばなりません。サマリアは、紀元前にイスラエルの国が南北の王国に分裂していた時代、北の王国イスラエルの中心地でした。この北王国イスラエルが、強大な敵国アッシリアに滅ぼされた後、国の指導者たちは捕囚となって連れ去られてしまいました。そしてアッシリアの植民地となったその地に残された一般の民の間には、アッシリアによって他の土地からやってきた人々、ユダヤ人にとっては異邦人が入植し、混血が進みました。また宗教的にも、異教の偶像礼拝が行われるようになっていったのです。そのため、エルサレム周辺、南の王国ユダの民ユダヤ人から見ると、彼らサマリア人は、民族の純粋性を失い、もはや自分たちと同じ神の民イスラエルではないと見做されていました。またサマリア人の側も、そのようにエルサレム神殿に詣でて礼拝することが出来なくなってしまった訳ですから、独自に自分たちの神殿をゲリジム山上に建てました。このようにサマリア人は、エルサレム神殿を中心とするユダヤ人と宗教的にも政治的にも対立していたという当時の情勢があるのです。サマリアより北のガリラヤ地方に住む人々は、エルサレムに向かうのに、わざわざサマリアを迂回してヨルダン川東岸のぺレア地方を通っていたほどです。そのような当時のパレスチナ地方の社会情勢があった、ということを抜きにしてこのたとえ話を読むことは出来ません。

33節にある、サマリア人の言葉「憐れに思って」は、他の箇所で主イエスが病の人や悪霊に憑(と)りつかれた人を「憐れに思う」個所にも使われる言葉で、「はらわたがちぎれるような」憐みを示します。日本語にも慣用表現で「断腸の思い」という言葉がありますが、単に憐れむのではなく、自分自身の内臓が痛むかのような、他人事ではない憐みの思いを表しています。
オリーブ油とぶどう酒は当時傷口への塗り薬とされていました。傷付いた追い剥ぎに襲われた人に、当時として考えられる最大限の治療を施(ほどこ)し、宿屋に預けた後、治療費用を渡した上に、その後のことさえ充分に配慮して去るサマリア人の姿を語ってたとえ話は終わります。これを語って、主イエスは「この三人のうち、誰がその人の隣人になったか」と問われます。「その人を助けた人です」と応える律法学者に、「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われます。
隣人とはだれかと訊くのは定義を求めることです。それは言い換えれば枠を定め、その中で行動しようとすることだと言えます。それが人間の在り方です。対して主イエスは、物語を通して、その人の隣人に「なった」のはだれか、と問いかけるのです。
ユダヤ人とサマリア人の立場が逆であれば、福音書の別の個所で主イエスが教えておられる、「あなたの敵を愛せ」という教えの分かりやすい例話となるでしょう。しかし、聖書はそのように単純には語りません。ここで語られているのは、もっと高い次元の、民族や宗教の違いを超えた愛が語られているのです。「隣人とは誰か」という、人間の視点による問いから、「誰がその人の隣人となったか」という神の視点の問いへ、愛によって視点が変わるのです。

そして聖書は、続いてベタニアのマルタとマリアの姉妹の物語を語ります。よく知られているように、もてなしのため忙しく働いていた姉マルタではなく、主イエスの足元に座り、ただ主イエスの語ることに耳を傾けた妹マリアに対して、主イエスは「良い方を選んだ」と言われます。マルタの行為も、主に仕えようとする尊いものです。しかし、主の言葉にただ聴いたマリアの姿は、主イエスの隣り人になろうとした姿勢だったのだと言えるのではないでしょうか。だから主イエスは、マリアが「良い方を選んだ」と言われたのです。

サマリア人と「同じようにした」(42節)のは主イエスの十字架の犠牲のみ。人間的な定義によって敵対しているユダヤ人とサマリア人の有様は、まさに、罪によって神から離れているわたしたちの有様と重なります。このたとえの中で、追い剥ぎに遭った人がエルサレムからエリコへと旅をしているのは、神から離れようとする人間の姿を現しているのだとする伝統的な解釈もあります。こじれてしまっている神さまと人間の関係を正しいありのままの状態に修復できるのは、神の子である主イエス・キリストご自身の犠牲の血しかないのです。主イエスの地上のご生涯は、追い剥ぎに襲われ倒れた人のように、罪の中で倒れ、血を流し、罪の死に陥ろうとしている人間の隣り人となってくださった歩みでした。
このたとえが語られることになった、そもそもの問いは、「どうすれば永遠の命を受け継ぐことが出来るか」というものでした。十字架の上で、自らの命をささげてくださった主イエスの愛に倣(なら)って生きることのみが、永遠の命につながることです。主の愛に押し出されて、主の歩んだ道を、後に続いて生きることが、求められています。

 

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