坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年9月1日 主日礼拝説教「みなしごにはしない」

聖書 ヨハネによる福音書14章15~19節
説教者 山岡創牧師

◆聖霊を与える約束
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

 

                                        「みなしごにはしない」
 夏期休暇をありがとうございました。牧師館と教会が一体ですので、普段、牧師の仕事と私生活とが一体のようなところがあります。まぁ、それでさほどストレスを感じるようなタチではないのですが、休みをいただいて、この場所から離れることは、色んな意味でリフレッシュにはなります。教会に仕える新たな気持が湧いて来ます。
 けれども、今回は2回続けて日曜日を空けることになりました。18日は、代務者をしている越生(おごせ)教会で礼拝をし、25日は夏期休暇で八ヶ岳伝道所の礼拝に出席しました。8月中は聖書と祈りの会もお休みですので、ほとんどの方と顔を合わせるのが3週間振り、あるいはそれ以上になります。こんなことは、28年間、この教会の牧師をしていて初めてのことです。だから、何かリズムが違うというか、ある意味で寂しいのです。今日の聖書の御(み)言葉を借りて言うならば、それは「みなしご」(18節)のような気持だったのかも知れません。もちろん、どこに行っても教会は教会ですし、キリストはお一人なのですが、牧師としてこの教会に属し、仕えている私自身が、この教会によって守られている、支えられている。そんなことを感じました。教会とは、私たちにとって、そういう場所なのでしょう。

 さて、主イエスは、最後の晩餐(ばんさん)の席上で、弟子たちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)と言われました。主イエスは最初、自分は弟子たちから離れて行くと言われました。自分が捕まり、十字架刑にされ、死ぬことを予感しておられたからです。そのため、弟子たちは主イエスの一言に、大きな不安を感じました。
エルサレムというアウェーな場所に来て、祭司長やファリサイ派の人々の対立感情が主イエスに対して露骨に表されました。そんな時に、主イエスが、弟子たちのもとを離れて行くと予告されるのですから、弟子たちはますます不安を感じ、心を騒がせました。主イエスを失ったら、弟子たちはまさに「みなしご」のようなものです。
 そのような弟子たちの不安を察してか、主イエスは、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われたのです。とは言っても、主イエスご自身が戻って来るのではありません。主イエスは十字架に架けられて死ぬのです。けれども、復活し、父なる神のもとに昇天された主イエスが、今度は「真理の霊」(17節)となって、聖霊(せいれい)となって戻って来ると約束してくださったのです。永遠の「弁護者」(16節)として、「永遠にあなたがたと一緒に」(16節)いると約束してくださったのです。

 話は変わりますが、今日の聖書の御言葉を黙想しながら、昨日ふと、リビングにいた我が家の子どもたちに、“人生のみなしごって、どういうことだと思う?”と問いかけてみました。すると、その場にいた一人が“神さまを信じていないこと、神さまに愛されていると思っていないこと”と答えました。そして、“自分がそうだったから”と言うのです。私は内心、ちょっと“えっ!?”と思いながら、“じゃぁ、その時は神さまを信じていなかったの?”と尋ねてみました。すると、“信じていなかったわけじゃないけど、忘れていた。気づかなかった”という答えが返って来ました。
 神さまを信じようとしなければ、神さまが共にいてくださることに気づくことはできません。神さまを忘れていたら、神さまに愛されていることにも気づくことができません。そのことが、17節の御言葉とつながりました。真理の霊を「見ようとも知ろうとも」しなければ、この霊を「受け入れることができ」ません。信じようとしなければ、この霊を通して、神さまに愛されていることに気づくことができません。だから、信仰とはまず、この真理の霊を、聖霊を見ようとすること、知ろうとすること。つまり、聖書の御言葉によって信じようとすることから始まります。その求道の思いを失ったら、たとえ洗礼を受けたクリスチャンであっても、神が自分と共にいて、愛してくださること、自分がみなしごではないことに気づくことはできません。けれども、求道の思いを持ち続け、見よう、知ろうとし続けるならば、私たちはきっと、私たちと「共におり」、私たちの「内にいる」(17節)この霊に気づくでしょう。

 神は、イエス・キリストという人となって、この世に来てくださいました。キリストを通して、神の御心(みこころ)を、神の愛を示してくださいました。そして、キリストは神のもとに帰られましたが、そこから聖霊となって弟子たちのもとに戻って来てくださいました。見ようと、知ろうとする者のもとに戻って来てくださいました。それは、信じる者をみなしごにせず、神が共にいて、愛してくださっていることを、私たちに内側から知らせるためです。
 改めて考えてみると、「真理の霊」、聖霊とは、いったいどんなものなのでしょうか?私たちは、聖霊を目で見ることも、手でつかむこともできません。また私自身は、自分に聖霊が宿っていることを何かオーラのようなもので体感しているわけではありませんし、聖霊によって、私の中に何か特別な現象や行動が起こるというわけでもありません。
 では、聖霊とはいったいどんなものなのでしょうか?今日の聖書の御言葉を手がかりに、私なりに考えたことをお話しようと思います。
 ところで、私は、夏期休暇中に、二つの本を読みました。一つは、『みんなの学校が教えてくれたこと』という大阪市立大空小学校の教育の様子が描かれたものであり、もう一つは『ヒカルの碁』というマンガで、20年ぐらい前に『少年ジャンプ』で連載されていたものです。
 夏期休暇の際に、2年に一度ぐらいの割合で行かせていただく長野県の親戚筋の家の近くに図書館があります。神社の境内を抜け、跨線橋(こせんきょう)を渡り、歩いて10分とかからずに行けるところにあり、私たち家族のお気に入りです。その図書館で、今回一緒に旅行した子どもが、『ヒカルの碁』を借りて来て読んでいました。テーブルの上に置いてあったので、何気に私も読んでみたのですが、20年ぶりに読んでみると、結構おもしろい。図書館には10巻までしかなく、後が読みたいということになり、坂戸に帰って来てから、残りの23巻まで古本屋に買いに行きました。
 進藤ヒカルという少年が、おじいさんの家の蔵で、古い碁盤(ごばん)を見つけます。すると、その碁盤に宿っていた藤原左為(さい)という、平安時代に、天皇に碁を教えていた天才棋士(きし)の霊が、ヒカルの意識の内に取りつきます。その左為の影響で、ヒカルは全く知らなかった碁を始めるのですが、左為の碁を見ながら、またその指導を受けながら、やがて碁にのめり込んでいき、2年後ついに中学3年生でプロ棋士になります。ところが、プロになってしばらくして、左為の霊が消えてしまいます。ヒカルは、おじいさんの家のお蔵や、ゆかりの地に行って、一生懸命に捜すのですが、左為は戻って来ません。そのことにショックを受けたヒカルは、碁が打てなくなってしまいます。そんな状態がしばらく続いたある日、かつて碁を一緒に学んだ研究生の伊角が、自分は今年もプロ試験を受けるから、その第一歩として、どうしても自分と碁を打ってくれとヒカルに懇願(こんがん)します。それで、ヒカルは数カ月振りに碁を打ち始めるのですが、打ち始めてハッと気づくのです。自分が打つ碁の中に左為がいることに。目には見えない、もはや話しかけても来ない。でも、左為がいたことに気づいたのです。


  左為がいた。どこにもいなかった左為が、
俺が向う盤の上に、オレが打つその碁の中にこっそり隠れてた。
おまえに会うただひとつの方法は、打つことだったんだ。(『ヒカルの碁』17巻)


 私は、真理の霊、キリストの霊に出会うとは、こういうことではないだろうかと思うのです。目には見えない。声も聞こえない。つかめもしない。けれども、私たちがクリスチャンとして生きる“生活という名の碁盤”の中に、キリストは隠れておられる。キリストの御心を思いながら話し、行い、人に関わるその人生の中に、理屈を越えて、キリストを見つける。キリストと出会う。19節の御言葉、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」というのは、こういうことだと思いました。
 もう一つは、『みんなの学校が教えてくれたこと』を通して感じたことです。8月の平和聖日の礼拝でも、セイシロウくんという子どものエピソードを少しお話しました。
 大空小学校の初代校長であり、著者である木村泰子氏が、その中で、こんなことを書いておられました。


  集団でともに学び合うなかで、必ず起きるのは、けんかです。よく大人が仲裁に入り、「どっちが悪いか」を意見する場面を見ますが、私は絶対に正・悪を決めない。ジャッジをしません。唯一大人がサポートできる部分は、この子の気持と、そっちの子の気持を「通訳」するだけです。‥‥‥
  教師になくてはならない力は、子どもの話を聴く力。授業を上手に教える力ではないと思います。それなのに、ジャッジばかりして通訳しないと、子どもたちまでジャッジばかりするようになります。(『みんなの学校が教えてくれたこと』167~169頁)


 大空小学校のこのような教育の姿勢によって、救われた子どもたちがたくさんいるに違いありません。私は、この本を読みながら、牧師に必要なのは、ジャッジをせずに信徒の話を聞く力だなぁ、そして説教は、神さまの気持を通訳するだけでいい、とつくづく感じました。
そして同時に、私たちの内に一緒にいてくださるキリストの霊は、私たちの話を、ジャッジせずに聴いてくださる方なのだと思いました。「弁護者」というのは、私たちの話を聞いて、時には私たちの言葉を、気持を代弁してくれる人です。真理(キリスト)の霊は、祈りを通して、私の話を聴き、私たちの気持を受け止めてくださる方だと思うのです。その話をジャッジせず、裁かずに聴いていただいて、私たちは安心して生きていけるのです。
 私たちは、信仰生活を生きるその中で、祈りの中で、そのようなお方と、キリストの霊と、理屈を越えて出会いたい。そのように心から願うのです。

 

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