坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年9月29日 主日礼拝説教 「わたしの平和を与える」

聖書  ヨハネによる福音書14章25~31節
説教者 山岡創牧師

 

14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 

                                                「わたしの平和を与える」
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(27節)。
どんなに主イエスからこう言われても、弟子たちはこの時、その言葉を受け止めることができなかったと思います。過越の祭りに参加するために、弟子たちは主イエスと一緒にガリラヤからエルサレムにやって来ました。そこで、ユダヤ教の指導者たちや主流派の人々の反感が、主イエスに対して露骨に表されました。それだけでも弟子たちは不安を感じたに違いありません。
 さらに、祭りの夕食の席で、主イエスは、弟子たちの中に裏切り者がいることをほのめかしました。しかも、ご自分は弟子たちのもとを離れ去って行く、あなたたちは私を捜すことも、ついて来ることもできない、と言われました。「あなたのためなら命を捨てます」と宣言したペトロでさえ、私を知らないと3度、私を否定するだろうと言われてしまうのです。
 そんな状況、そんな空気の中で、「わたしの平和を与える」と言われても、平和もくそもない、心を騒がせ、おびえるのが当然だと思います。弟子たちは大きな不安を抱えていたでしょう。
 そして「事」(29節)が起こります。夕食の後、祈るためにオリーブ山に行った主イエスと弟子たちのもとに、イスカリオテのユダが、祭司長やファリサイ派の人々の手下を手引きします。主イエスは捕らえられ、祭司長や長老、律法学者たちが待つ裁判の席に連れて行かれます。そして、その裁判で、主イエスは神を冒瀆したと濡れ衣を着せられ、有罪と判決され、十字架に架けられて殺されるのです。主イエスは「世の支配者」(30節)の手に落ちたのです。
 「わたしの平和を与える」。そんな言葉は、弟子たちの脳裏から吹っ飛んでしまいました。弟子たちは逃げ、隠れ、わが身を守るだけで精いっぱいでした。いつ自分たちにも追手がかかるかと、部屋に閉じこもり、鍵をかけ、おびえていました。
 そんな弟子たちのこわばった心が、ほぐされ、開かれていくのは、復活した主イエス・キリストが、弟子たちのもとに何度も現われて、言葉をかけてくださったからです。そのお陰で、弟子たちは次第に、以前に主イエスが語られた言葉を思い起こしていったでしょう。「わたしの平和を与える」と言われたことも思い出したでしょう。
そして、弟子たちが主イエスの言葉を悟るようになったのは、「聖霊(せいれい)」(26節)が天から与えられた時でした。主イエスが父なる神のもとに行き、ご自分の代わりに聖霊を、弟子たちのもとに送ってくださった時でした。聖霊が心の内に住み、内側から語りかけてくださって初めて、弟子たちは、主イエスの言葉の一つ一つが、主イエスの言われる「平和」が、分かるようになったのです。

 今日の聖書箇所、26節に、次にように書かれています。
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。
 聖霊って、目には見えません。手でつかむこともできません。よく分からない、すぐには分からないのです。けれども、主イエスの言葉を思い起こさせ、その意味を教えてくれるのが聖霊です。だから、私たちが主イエスのことを思い出し、“あぁ、あの言葉はこういうことだったのだ”と実感し、悟る時、私たちの心の中に聖霊が働いていると言うことができます。
 言われた“言葉”はすぐに分からないことがあります。事務的な言葉ならすぐに分かりますが、生きることに関わる“真理の言葉”は、すぐには分からないことが少なからずあります。例えば、俗に“子を持って知る、親の恩”なんて言葉があります。自分が子どもを持って、親になって初めて、自分の親の気持が分かる、親が自分にしてくれたことが分かる、という意味です。でも、この言葉は、自分が親になって初めて、実感として分かるようになるのです。
 そのように、格言にしろ、人から言われた言葉にしろ、言われた時にはすぐに分からなかった。後になって、“あぁ、こういうことなんだ”と思い当たり、実感し、感動する。そういう体験が、一人ひとりにあると思います。
 主イエスの言葉、聖書の言葉は、まさにそういう言葉ではないでしょうか。すぐには分からないのです。私たちは、待たなければなりません。主イエスの言葉が、私たちの心の中で熟していき、やがていつか心の中にポトリと落ちて、“あぁ、こういうことなんだ”と納得され、感動する日が来ることを待たなければなりません。その日が来た時、私たちはきっと聖霊を感じるでしょう。自分の力で悟ったのではない、聖霊によって悟らせていただいたのだと感じるでしょう。
 私がそうでした。私は、両親が牧師で、生まれた時から教会で育って、主イエスの言葉、聖書の言葉をたくさん聞いて来ました。でも、全く分かっていませんでした。分かろうともしませんでした。人生は、何かをできることが大事、結果が重要。そういう人が神に愛される。いつの間にか、そう思い込んで生きていました。
 やがて私にも「事」が起こります。そういう生き方、そういう価値観に挫折(ざせつ)します。大学受験に失敗し、自分の進む道が見つからず、無気力になって、何もできなくなりました。自分は何の役にも立たない人間だ、存在する価値のない人間だ。生きている値打ちのない人間だ。そう思うようになりました。
 そんなことを悩んでいた、ある晩、私の心に、天から声が響いて来ました。“お前は何もできなくても、生きていていい”。それは、肩の荷が一度に降りたような、目の前の壁が壊れて、視界が一気に開けたような心の体験でした。何もできない自分を赦(ゆる)すことができた、受け入れることができた体験でした。生きていていい。それだけで喜びでした。
 どうしてそれが分かったのでしょう?不思議としか言いようがない、突然の出来事だったのです。敢えて説明をするなら、私の中に無意識のうちに蓄えられてきた主イエスの言葉を、聖霊が思い起こさせ、その意味を悟らせてくださった。そうだとしか言いようのない体験でした。少なくとも私の力ではありません。
 信仰生活は“待つ”ことが大切です。蓄え続けられた聖書の言葉は、熟していき、いつかストンと自分の心に落ちる日が来ます。その信仰の悟りによって、自分の価値観が、自分の生き方が変えられる日が来ます。その日を信じて、私たちは信仰の道を歩み続けるのです。

 キリストの平和もそうです。主イエスは、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。つまりそれは、この世の平和とは違うもの、この世の価値観とは違うものだと言うことです。
 この世の平和とは何でしょうか? 家内安全、商売繁盛、無病息災ということでしょうか。健康で、財産があり、家庭に恵まれ、人からの信頼と友情にもあふれている‥‥‥確かに、そのような条件がそろっていたら、私たちの心は穏やかでしょう。
 けれども、そのような条件がすべて整っている人生など、ありはしません。人生のまやかしです。一時的にはあり得ても、永遠ではありません。そういったものがあると嬉しいですし、そういったものを求めても良いと思います。けれども、本当の平和は、キリストの平和は、それとは別のところで探し当てる喜びです。
 カトリックの司祭で、井上洋治さんという方がおられます。この方がある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、ある出版社から頼まれました。そこで井上先生はあれこれとお考えになったわけですが、そんな時、一通の手紙が舞い込みました。見ず知らずの若い女性からの手紙で、交通事故を起こしてしまい、顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいというような内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッしたのです。
  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。
(『人はなぜ生きるか』9頁)
 もし、自分の人生が色あせ、挫折してしまったとしても、そういう自分を受け入れることができる。そんな自分の人生を引き受けて、淡々と生きることができる。喜びと感謝さえ感じながら生きることができる。それが、この世のものとは違う平和、キリストの平和ではないでしょうか。
 そしてそれは、すぐには手に入らない。信仰生活を積み重ね、主イエスの言葉を聞き続けながら、待つことが必要でしょう。そして、手に入れたと思っても、それはまだ青いかも知れません。まだまだ深まり、熟していく。聖霊が私たちの心に住んで、働き、キリストの平和へと近づけてくださるのです。

 昔、『クロコダイル・ダンディー』という映画を見ました。オーストラリアの原住民アボリジニであるミック・ダンディーが、アメリカ人の女性ジャーナリスト、スー・チャールトンと出会い、恋をします。ダンディーは彼女のホームであるニューヨークにやって来て、一緒に生活するのですが、ある時、彼女が事件に巻き込まれ、マフィアに誘拐(ゆうかい)されてしまいます。ダンディーは、持前の野性的な力で、マフィアからスーを救出します。そのラスト・シーン、彼女を助け出したダンディーが、“さあ、家に帰ろう”と言葉をかけます。すると、スーはダンディーを抱きしめて、“ここが私の家よ”とニッコリして言うのです。
 どこで生きるか、ではなく、だれと生きるか。私たちの人生で大切なのは、それではないでしょうか。私たちの人生から、不安や悩みがなくなることはないでしょう。その時、だれと生きているか。共に生きる人はいるか。私の悩みを聴いて、不安を共に負って生きてくれる人がいるか。それが、心の平和の分かれ目です。
聖霊と共に生きる。キリストと共に生きる。神と共に生きる。そして、互いに愛し合う友がいる。安心できる教会がある。その時、私たちは、“これが私の平和よ”と言うことができるのではないでしょうか。
さあ、立て。ここから出かけよう」(31節)。
主イエスは、そのような平和を求め、出発するようにと私たちを促しています。

 

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