坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年10月6日 主日礼拝説教 「つながっていなさい」

聖書 ヨハネによる福音書15章1~10節
説教者 山岡創牧師

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。


                                 「つながっていなさい」
 先日、ある方がシャインマスカットというぶどうを持って来てくださいました。長野県の親戚が栽培しているとのこと、集会に持って来てくださり、その場でみんなでいただきました。食レポではありませんが、程よい噛みごたえがあってジューシー、種もなく、皮ごと食べられました。とてもおいしいぶどうでした。後日、ベルクに買い物に行きましたら、店頭に並べられていて、値段は一房1,580円。やっぱり高級品です。でも、外食するつもりで一房買って、それを昼食か夕食にするのはありかも、と思うほど、おいしさが印象に残るぶどうでした。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。
 主イエスは、ご自分と弟子たちとの関係を、ぶどうの木とその枝の関係にたとえました。主イエスが生活されたユダヤ地方やガリラヤ地方ではぶどうの栽培が盛んで、主イエスの話には、しばしばぶどう園が題材として出て来ます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)と主イエスが語られる言葉の意味は、弟子たちにはよく分かる内容だったでしょう。
 それだけではありません。弟子たちは、この主イエスの言葉を実感として体験することになるのです。弟子たちは、主イエスと神の恵みを伝える宣教の旅を共にしました。共に生活しました。その中で、主イエスの行動を見、主イエスの教えを聞き続けて来ました。けれども、この後、主イエスは敵対する祭司長やファリサイ派の人々に捕らえられます。裁判にかけられ、有罪と判決され、十字架にかけられて殺されます。その時、弟子たちは、ある者は逃げ去り、ある者は主イエスとの関係を否定しました。自分たちにも類が及ぶことを恐れ、部屋に閉じこもって隠れ、ほとぼりが冷めたところで故郷ガリラヤに帰ろうとしました。弟子たちはまさに、ぶどうの木につながっていない枝となり、枯れそうになったのです。
 そんな弟子たちがもう一度、主イエスとのつながりを取り戻したのは、主イエスが復活して弟子たちに現れてくださったからです。言葉をかけてくださったからです。主イエスが弟子たちを見捨てずに、つながってくださったからです。それによって、弟子たちは主イエスの愛を知ったのです。その時から主イエスの言葉が弟子たちの中で、生きて働くようになった。弟子たちは、主イエスとの霊的な関係を持てるようになった。主イエスの愛を感じられるようになった。主イエスの言葉、主イエスの霊、主イエスの愛に後押しされて、弟子たちは、主イエスの救いを宣べ伝え、教会を造り上げていった。そのような形で実を結んだのです。

 枝が実を結ぶためには、木とつながっていなければなりません。それは、木から養分や水分を受け取るためです。そして今日、主イエスと直接お会いすることのできない私たちが、主イエスとつながっているということは、聖書を通して「わたし(主イエス)の言葉」(7節)をいただくということです。つまり、主イエスとつながるということは、聖書とつながるということです。聖書の言葉を通して、主イエスの「愛」(9節)を知るのです。主イエスが、“私”のために十字架にかかり、復活し、その命をかけて“私”を愛してくださった、ということを知るのです。
と同時に、枝は幹を通して他の枝とつながっています。すなわち、主イエスを通して、主イエスを中心に、私たちは互いにつながり、互いに愛し合うことを通して、「愛」の何たるかを知り、実感し、深めていくのです。それが教会の交わりです。
主イエスは、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(7節)と言われましたが、「わたしの言葉」とは何でしょうか?広い意味では、主イエスの言葉のすべて、聖書の言葉のすべてです。けれども、ヨハネによる福音書13章から始まった最後の晩餐(ばんさん)の席上での話、流れで言うならば、主イエスの言葉とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)という掟に尽きます。この言葉に生きるために、主イエスの愛を信じる仲間とつながり、教会とつながり、主イエスの愛を思い、互いに愛し合っていく。それが、「わたし(主イエス)の愛にとどまっている」(10節)ということです。それによって私たちは、愛と平和の実を結ぶのです。

 話は変わりますが、リック・ウォレンというアメリカ人の牧師が著わした『人生で一番大切なこと』という本があります。副題は〈心がつながるコミュニティをめざして〉となっています。ウォレンは、“愛は人間関係の中でしか学ぶことができません”と語ります。そして本の中に、次のようなことが記されていました。


 最近、アメリカで教会成長に関する調査が行われました。‥‥‥その結果、成長している教会には共通の要素があること、そしてその共通の要素とは「教会の中に愛に溢れた雰囲気があること」であることが分かりました。さらに、調査に協力した教会の教会員に、「自分の教会には愛があると感じるか」「新来者に対して親切か」などの質問をし、その答えをまとめたところ、「愛が溢れている」という答えが多かった教会は伸びており、そうでない教会はあまり伸びていないことが判明しました。‥‥‥もし、あなたの教会が真の交わりを保ち、互いに心から愛し合い、裸の付き合いができるほどの信頼関係が築かれているのなら、溢れるほどの人が押し寄せてくることでしょう。なぜなら、今日では多くの人々が、そのような真の交わりに飢え渇いているからです。
 クリスチャンの生活は一人では成り立ちません。私たちは、イエス・キリストの権威のもとで、みことばという武器を手にとって歩むように召されていますが、自分が危機に陥ったときに助けを求めることができる信仰の友や仲間たちを必要としています。互いにつながっていなければ、私たちは力強い歩みをすることができないのです。聖書には、「互いに愛し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」‥‥など、「互いに」という言葉が50回も登場します。当然のことながら、一人でいたのではこれらの命令に従うことはできません。この世界が創造されたとき、神は私たちを、互いのつながりの中で生きる者として造られました。私たちは単に「信者(Believer)」となるために救われたのではありません。私たちは、「互いに属する者(Belonger)」となるために救われたのです。(前掲書52~55頁)
 私たちの教会は、愛にあふれているでしょうか?もしあなたの教会は?と聞かれたら、「愛にあふれている」と答えることができるでしょうか?“あふれている”という表現は、いささかオーバーで、こそばゆい感じがします。でも、“愛がある教会”だ、“愛が感じられる教会”だと、私たち一人ひとりが答えられたら素敵だなぁ、と思うのです。

 そのためには、どうすればよいのか?まずは礼拝(れいはい)です。礼拝を通して、「わたしがあなたがたを愛した」という主イエスの言葉を受け止める。主イエスの愛を信じて、愛をいただく。説教を通し、聖餐を通し、赦(ゆる)しを通し、祈りを通し、すべてを通して、主イエスの愛を受け取る。それがすべての始まりです。と同時に、互いに愛し、祈り合うことも礼拝の中から始まっています。
 礼拝が基本、土台。その上に、私たちはつながりをつくります。互いに愛し合うことを始めます。例えば、礼拝でお隣りに座った人に話しかけてみてください。既にしている人も少なくないと思いますが、まず挨拶だけでもいいと思います。次に会った時にはきっと、もう少し話ができるようになります。世間話から、趣味のこと、仕事のこと、学校のこと、家族のこと、生活のこと‥‥段々とお互いの話ができるようになっていきます。その際に大切なことは、耳を傾けて、とがめずに黙って聴くこと。話の内容が深くなればなるほど、そうです。私たちは互いに、聞いてもらうことを求めています。個々に会話をすると共に、集会に参加して、お互いの思いを、信仰の言葉を分かち合うようにしてください。集会で分かち合い、相手を知ることで、個人的に話せるようになることも大いにあり得ます。
 誕生日にサインをして送るはがき。あれを皆さん、深く考えたことがあるでしょうか。その人のことを全く知らないから、サインしないという人もいるかも知れません。けれども、ぜひサインをしてほしいのです。主イエスを信じる教会の仲間としてサインをしてほしいのです。病気や引っ越し、そのほか様々な事情で長らく教会から離れていると、その人を知っている人が少なくなって来ます。その時、サインをする人が少なくなったら、さびしいと思うのです。はみ出るほどに、あふれるほどに、みんなでサインをしましょう。その時、そのたった数文字の自分の名前に、その人への祈りを込めてください。愛を込めてください。そのことを意識してサインしてください。
 もっとつながりを持とうと思われたら、個人的にお電話をしたり、お便りしたりしてみてください。つながりが深まっていけば、そういうこともできるようになっていきます。また、意識してそのようにしてほしいとも思います。教会にだんだん人が増えていけば、牧師一人では手が回らなくなって来ます。その時、信徒同士でつながっていて、支え合っていることは、大きな愛の力です。
 そういった直接的な行為ができない時もあります。控えた方が良い時もあります。でも、できることがあります。その人のために祈ることです。互いに祈り合うことです。人の目には隠れていますが、でも、クリスチャンとしての愛が最も形として現れるのは、祈りだと、人のために祈ることだと私は思います。離れていても、私たちは、互いに祈り合うことができます。人のために祈ることによって、自分もまただれかに祈られていることを知ります。愛されていることを実感します。
 これらのことを既に実践されている人も少なからず、この中にいらしゃると思いますが、改めて意識をしていきましょう。主イエスにつながり、主イエスの愛をいただき、互いにつながり、互いに愛し合う。その業を実践していく時、私たちの信仰は実を結びます。私たちの教会は実を結びます。愛と平和の実を結びます。

 

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