坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年10月13日 信徒証し礼拝説教「神の働き手になろう」

聖書 マタイによる福音書9章35~38節
説教者 山岡創牧師

◆群衆に同情する
9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

           「神の働き手になろう」
収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(37節)。
秋はお米が実る時期、そして収穫の時期です。既に多くの田圃(たんぼ)で米の収穫が済んで、これから新米が食卓に供されることと思います。私はパンが大好きですが、しかし1日3食パンでいいですか?と聞かれたら、“うーん、2食はいいいけど、1食はご飯が食べたい”と答えるでしょう。逆に、3食ご飯食というのはOKです。自分のことを、お米大好きと思ったことはないのですが、でもご飯食が1日3食でもOKと思うのは、それだけご飯食が当たり前になっていて、無意識に食べているからなのだと思います。
そう考えると、日本人はお米が大好き、日本は“お米の国”だと言っても良いでしょう。だから、もう20年も前になるでしょうか、お米が不作で、初めて外国米を輸入することになった時は、どうやってお米を買うか、大変だった記憶があります。そして、天候の問題とは別に、今後、日本で農業を継ぐ人が、米作りをする人が少なくなっていくことが予想されています。働き手が少なくなっていきます。そうなったら、日本の食生活はどうなるのか、今までのようにお米が食べられるのか、ちょっと心配になります。

 働き手が少ない。主イエスは、イスラエルの群衆を見て、「収穫は多いが働き手が少ない」と言われました。35節には、主イエスが「町や村を残らず回って」(35節)、宣教されたことが記されています。その様子が8~9章に記されています。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)のです。特に、多くの病の癒(いや)しの業(わざ)をなさったことが記されています。そのようにイスラエルの町や村を残らず回って宣教され上で、お感じになったことが「収穫は多いが働き手が少ない」ということでした。
 主イエスは、イスラエルの群衆を、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(36節)とご覧になりました。羊は群れで生活します。移動する時は、自分の前にいる羊の股の間に首を突っ込んで移動するのだそうです。そういう羊が、草原で飼い主を失ったら、飼い主がいなかったらどうなるのでしょう?おそらく自分たちがどっちへ進んだらよいのか道が分からず、右往左往し、動揺するに違いありません。
 イスラエルの人々は当時、ローマ帝国に支配され、税を搾(しぼ)り取られていました。そのような支配の中で、イスラエルの指導者たちは、ローマ帝国におもねって、自分たちの権力と利益を維持しようとする者と、屈辱を感じ、理想に燃え、独立を勝ち取りたいと願う者に大きく分かれました。中にはローマに対して反乱を起こす者も現われました。そういう混乱の中で、宗教的にも、神殿での利潤(りじゅん)を貪(むさぼ)る祭司長派の人々がいたり、神の掟を厳格に守り、その厳しさを民衆にも押しつけようとするファリサイ派の人々がいたり、社会から離れ、荒れ野で集団生活をするエッセネ派の人々がいたりして、人々は自分が何を信じ、何に従って生きればよいのか分からなくなり、迷っていたのです。
 そこに主イエスが現れました。神の国の福音を宣(の)べ伝え、病を癒しました。確信的に、力強く行動し、教えたのです。だから人々は、飼い主のいなかった羊の群れが飼い主を見つけたかのように、主イエスのもとに押し寄せ、集まって来たのです。

 そのような群衆を見て、主イエスは、「深く憐れまれた」(38節)と記されています。これは、ルカによる福音書10章にある〈善いサマリア人〉のたとえ話で、サマリア人が道端に倒れているユダヤ人を見て、「憐れに思った」というのと同じ言葉です。元々の意味は“はらわたが痛む”という言葉です。人の苦しみ、悲しみ、悩みを見て、自分のはらわたが痛むほどに心を寄せ、その人の痛みを自分の痛みのように感じているということです。それは別の言葉で言えば“愛”です。愛の究極の感受性です。そして、この憐れみ、愛の思いから、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という主イエスの思いが、言葉が語られているのです。
 だから、「働き手」は主イエスに倣(なら)い、主イエスの愛を自分自身がいただいて、愛をもって、隣人を愛して働くことが求められています。いわゆる穀物の収穫のように、自分の利益のために働くのとはちょっと違います。自分の栄誉のために、自分の満足のために働くこととは違います。
 「収穫」とは、神さまに救われる人々です。政治的にも、宗教的にも混乱している中で、どのように生きればよいのか、生きる道を模索(もさく)している人々です。そのような人々に、“生きる道はここだよ、これだよ”と指し示すことが働き手の務めです。
 私たちが宣べ伝えるべき福音、指し示すべき道は、主イエスの掟以外にはありません。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。気の利いた聖書の教えを語れなくてもよいのです。私たちが、主イエス・キリストに愛されていることを信じ、感じていること。私たちが相手を愛し、互いに愛し合っていること。生きる上で最も大切なのは“愛”だと確信していること。愛を意識して生きていること。その姿、その生き方こそが、神の愛による救いを指し示す“世の光”となります。
 私たちは、はらわたが痛むほど愛の深い人間ではないかも知れません。むしろ、自分のことを愛の足りない、愛の欠けた罪人だと思うかも知れません。けれども、そんな私たちが、そのままで神に愛されている。その信仰こそ、証(あか)しの原動力です。

 30年ほど前に、神学生として静岡草深教会で夏期伝道実習をさせていただきました。当時の主任牧師は、日本基督教団議長を務めておられた辻宣道牧師でした。今、思い返すと、辻先生は、実に丁寧に、地道に礼拝をし、祈祷会をし、牧会をする人でした。その先生が『教会生活の処方箋』という著書の中で書いておられます。“伝道とは教会をつくることである”と。それから28年、教会に仕えて、その言葉が自分なりに分かるようになりました。教会をつくる。キリストの愛を宣べ伝え、キリストの愛の下に互いに愛し合う教会の真の交わりをつくる。それがあれば、自ずと人は集まってきます。
主イエスならどうするだろうか?主イエスなら何と言うだろうか?そのことを意識し、求めながら、人を愛し、互いに愛し合うことを心がけて進みましょう。

 

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