坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年10月27日 主日礼拝説教 「友のために」

ヨハネによる福音書15章11~17節
説教者 山岡創牧師

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

                             「友のために」
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。
 「喜び」って何でしょうか?ふと、そんな問いが頭に浮かびました。理屈で考える前に、最近、自分にとって喜びと呼べる出来事はあったかな?と考えてみました。皆さんも最近、喜びと感じられることは何かあったでしょうか?
 私が真っ先に思ったのは、21~22日に関東教区の教師研修会に参加したことでした。その研修会で、講師である関野和寛牧師から、教会に信徒牧会者を育てるステファン・ミニストリーについて学べたこと。夜の自由時間に、関野先生や同僚の牧師たちと親しく話ができたこと。空き時間に宇都宮の町を散歩しながら、他の地区の若い牧師たちの話を聞けたこと。行き帰りの車の中で、埼玉の教会に新しく赴任してきた先生とじっくり話せたこと。そういったことが、私にとって喜びでした。
 けれども、それだけではありません。この1週間で考えても、水害を受けたキンス・ガーデンにボランティアに行けたことも、ある意味で喜びです。聖書と祈り会に出席した方々と共に祈れたことも喜びです。奉仕で教会に来た方と親しく話せたことも喜びです。金曜日の大雨で、水害を気遣って何人かの方がお電話をくださったことも喜びです。私は、夜眠る前に、今日一日、感謝だったことは何だろう?と振り返るようにしていますが、改めて考えると、その日一日のほとんどのことが感謝だったと感じられます。そして、感謝は同時に喜びでもあります。いや、当たり前のように毎日、家族と暮らせていることも大きな喜びです。
 そのように思い返して考えてみると、喜びは、人との関係の間にあることが結構多いように思われます。そこに“愛”がある時、喜びが感じられるように思います。愛される喜び、そして愛する喜び。無意識かも知れません。でも、愛のあるところには喜びがある、そう言ってよいのではないでしょうか。

 だから、主イエスは、「喜び」に続けて、12節でこう言われるのでしょう。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。「喜びが満たされるため」には、愛が必要不可欠だということです。
 主イエスは既に、この愛の掟を、13章34節で弟子たちに語りました。そして、今日の聖書箇所12節で語り、更に17節でも「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と締めくくっています。弟子たちにとって、そして現代の弟子であり、クリスチャンである私たちにとって、主イエス・キリストに愛されていると信じること、互いに愛すること、愛されることが「喜び」の源泉なのです。
 そして、主イエスは続けて、愛の大きさについて弟子たちに語ります。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。
この御(み)言葉も、聖書を読み、教会に続けて来ておられる方なら、よく知っている主イエスの言葉でしょう。わたしも何度となく読み、黙想して来ました。
 けれども、今回改めて、ハッと気づいたことがあります。と言うのは、13節のこの御言葉は、愛の大きさを教える“一般論”のように聞こえるかも知れません。つまり、13節だけを独立した言葉のように、格言のように切り取って考えるのです。
 しかし、この言葉の直後に、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)という主イエスの言葉があることにハッとしました。11~17節の間に、色々な言葉があって、つながりがよく見えていませんでした。けれども、主イエスは弟子たちを「友」と呼んでいます。と言うことは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉は、一般論や格言のようなものではなく、“私の大切な友であるあなたがたのために、私は命を捨てて、これ以上ない愛であなたがたを愛する”と、主イエスが弟子たちに向かって宣言しているのだ、と初めて気づいたのです。目の前の相手に、ヨハネに、ペトロに、トマスに、フィリポに、私はあなたを愛する、あなたのために命を捨てる、と宣言しているのです。普段は言わないかも知れない。でも、ご自分が捕まり、十字架に架けられることを予感しているからこそ、まるで遺言のように弟子たちに遺(のこ)された言葉です。言い換えれば、あなたがたのために十字架につくと言っているのです。
 愛は観念でも、一般論でもありません。目の前の相手があって、その相手に具体的に尽す思いであり、態度であり、行為です。そして、キリストの目の前の“相手”とはだれか?‥‥‥それは“わたし”のことだと、私たち一人ひとりが信じることができたら、それはとてもハッピーな、感謝なことです。「喜び」です。
 主イエス・キリストは、もはや“人”として、私たちの目の前にはいません。だから、主イエスに愛されていると言っても、具体性はないのです。主イエスが直接、何らかの形で愛してくださるわけではありません。だから、主イエスに愛されていると言っても、それは感じにくいのです。
 けれども、その具体性を補ってくれるものが教会にはあります。それが、互いに愛し合うという関係であり、交わりです。聖書を通して神の愛を知り、主イエスに愛されていることを信じ、主イエスの掟に従って互いに愛し合う。具体的な関わりを持つ。その関係、交わりを通して、私たちは愛を感じ、主イエスに愛されていると信じるのです。そのような交わりを教会の中に築くことができたら、その交わりの中で主イエスの愛を感じることができたら、それは「喜び」です。教会とは、そのような愛の交わりを目指しているのです。

 だから、主イエスから「友」と呼ばれる弟子たちは、いや「友」と呼ばれる私たちは、命がけで主イエスに愛された者として、主イエスが「何をしているか」(15節)、その掟を、その心を知る者として、そのミッションのために選ばれ、任命された者として、互いに愛し合うことを求められています。教会の中に、互いに愛し合う交わりを造り上げていくことを求められています。一朝一夕(いっちょういっせき)に実現することではありません。たゆまず、めげず、あきらめず、祈りながら、愛の道を歩み、愛の交わりを目指して進む以外にありません。
 ところで、話は変わりますが、今日の説教の初めに、関東教区教師研修会のことをお話しました。講師は、日本福音ルーテル教会の関野和寛牧師でした。毎月発行されている「こころの友」という伝道冊子の中に、毎回、ドガン!と大きな音がして教会の玄関が開く書き出しで始まる〈ロッケン牧師の歌舞伎町の裏からゴッドブレス!〉という連載(れんさい)を書いておられる先生です(牧師ROCKSというバンドもやっている)。歌舞伎町という町で、本当に色々な人生を背負った人が飛び込んでくる、それらの人々との笑いあり、涙ありの関わりを、そしてそこにもあるゴッドブレス(神の祝福)が描かれていて、私も毎月楽しく読んでいます。
 その関野先生が今回、東京教会で取り組んでおられる〈ステファン・ミニストリー〉について講演してくださいました。教団の月刊誌『信徒の友』を購読している方は、今年度4月からシリーズで連載されているので、ご存じでしょう。
 ステファン・ミニストリーというのは、アメリカのルター派教会の牧師であり、臨床心理師でもあったケネス・ハーグ氏が、1974年に始めた、教会に信徒の牧会者を育成するプログラムです。そこで学んだ信徒牧会者たちが、牧師と共に、悩みや悲しみを抱えて教会に来る人に寄り添い、ケアするのです。
 関野先生の講演の中で、ステファン・ミニストリーとはどういうものなのか、興味深いたとえ話がありました。皆さんも、想像しながら聴いてください。
 深い沼があります。その沼に一人の人が落ちて、はまっています。それを見ながら、自分には関係ないと去っていく人がいます。沼の淵で、“だれか、助けて!”と叫ぶ人がいます。単独で沼に飛び込んで、助けようとする人がいます。助けようと飛び込む人は、勇気があり、すばらしいのですが、ともすれば、一緒に泥沼にはまりこんでしまう恐れがあります。
 沼の淵に1本の大きな木が生えています。その木につかまりながら、“僕の手につかまれ!”と沼にはまっている人に声をかけ、手を差し伸べている人がいます。一人で届かない時は、一人目が木につかまり、二人、三人が手をつないで、手を差し伸べます。この木というのは主イエス・キリストであり、教会です。これがステファン・ミニストリーの考え方だと言うのです。
 私は、この話を聞きながら、ヨハネによる福音書15章の前半で主イエスが語っている、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊に実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15章5節)との御言葉を連想しました。主イエスに愛されている愛とつながって、人を愛するミニストリーです。どんなに個人の力があるように見えても、単独では、自分もつぶれてしまう場合がるのです。だから、信徒牧会者は牧師と連携し、自分がケアする人が決まっていても、信徒牧会者同士、月に2回、お互いに自分がケアしている人の情報を共有し、意見交換し、祈り合うのです。主イエスにつながり、互いに愛し合う教会の交わりにつながって、より広く、深く互いに愛し合うということが実践されていると言うことができます。そして、そこには喜びがある。愛のあるところには、喜びがあるのです。
 例えば、東京教会に加藤さん(仮名)という男性が来るようになりました。この人は、一時は年収が8000万円を超えるほど収入があり、夫婦と2人の子どもの家庭もうまくいっていました。ところが、その後、経営は下降し、その不安からアルコール依存症になり、妻と子どもは別居、やがて離婚します。孤独を感じ、死にたいと考える一方で、だれかと話したい、つながっていたいと感じた加藤さんは、教会に来るようになりました。
 その加藤さんを、ステファン・ミニスターの野元さんという教会員がケアするようになりました。野元さんは、電話をしたり、一緒にご飯食べたり、ただそばにいるだけだと言います。そんな野元さんとの交わりを、加藤さんはこう述懐します。
 モーニングコールっていうんですか。これは本当にうれしいのです。僕はうっとうしいなんて思いませんよ。むしろ、朝起きて留守電メッセージに野元さんの声が入っていることで、今日も自分のことをだれかが考えていてくれるのだと思えます。そんなことでも、ちょっと起きてみようかな、生きてみようかなと思えるのです。
                                                                                      (『信徒の友』4月号36頁)
 そこには確かに、「喜び」があります。愛の喜びがあります。

 

 ステファン・ミニストリーは、20回/50時間の研修が必要です。お金もかかります。教会がふさわしいかどうか承認します。簡単に取り組めるプログラムではありません。
 でも、その考え方や実践には、私たちの教会にも生かせるものがあります。既に実践していることもあります。15章1~10節の説教でもお話したように、電話や手紙、訪問や食事、そして、いちばん大切なことは、相手のために祈ることです。
わたしあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。愛を追い求めていきましょう。互いに愛し合う交わりのある教会を目指していきましょう。そのために、共に聖書に聴き、共に祈り、どうしたらそのような教会になれるか、意見を交換しましょう。愛のあるところには、喜びがあるからです。みんなが集まれるからです。

 

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