坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年11月3日 永眠者記念礼拝説教「死も、悲しみも嘆きも超える希望」

聖書 ヨハネの黙示録21章1~4節
説教者 山岡創牧師

◆新しい天と新しい地
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 

                     「死も、悲しみも嘆きも越える希望」
 本日は、〈永眠者記念礼拝〉を迎えました。キリスト教はカトリックとプロテスタントに大きく分かれますが、プロテスタントでは、11月の最初の日曜日を〈聖徒の日〉と定めています。これは、日本の暦で言えば、お盆やお彼岸のようなもので、亡くなった愛する人を記念し、偲(しの)ぶ日に当たります。
 お手元に永眠者の名簿をお配りしました。1992年から始まったこの教会ですが、28年の歩みの中で、洗礼を受け、この教会の教会員で召された方、この教会で葬儀を行った方、この教会の牧師である私が葬儀を行った方、また教会墓地に埋葬されている方のお名前と写真を載せています。
昨年の永眠者記念礼拝の時から今日までの間に、教会員であったA.Tさんが今年の4月5日に天に召されました。晩年は、先日の台風19号で床上浸水の被害を受けた川越キングス・ガーデンに入居しておられました。Aさんは、アルツハイマーを患っておられて、ご自分の記憶が失われて行くことを嘆き悲しんでおらました。けれども、私が、“Aさんが色んなことを忘れても、神さまは縣さんのことを忘れずに覚えている。天国の名簿にはちゃんとAさんのお名前が記されているからだいじょうぶですよ”とお話すると、ニッコリして、安心されました。
 地上の命はやがて召される時が来ます。死を迎えます。信仰がなければ、死は滅びであるとか、すべての終わりであると考えるのかも知れません。けれども、キリスト教信仰では、地上での命を召された者は、天上に召される、天国に召されると信じています。そこで天上の体、霊の体をいただいて、永遠の命をいただいて、「もはや死はなく、もはや悲しみ嘆きも労苦もない」(4節)世界を生きる者にされると信じています。そこで、愛する人と再会を果たすことができると信じているのです。
 その世界を見て、体験して、戻って来て話してくれた人がいるわけではありません。けれども、聖書の御(み)言葉を通して、私たちは、天の御国(みくに)を信じます。天から、神のもとから、人となって地上に来られた主イエス・キリストの言葉によって、それを信じています。その信仰に、死に対する慰めがあり、希望があります。

 今日は、ヨハネの黙示録(もくしろく)21章の御言葉が示されました。この書は、紀元前1~2世紀の時代に、ローマ帝国のアジア州(今のトルコ)にある7つの教会の指導者であったヨハネが書き記したものです。当時は、ローマ帝国がキリスト教を迫害している時代でした。ヨハネも捕らえられ、パトモスという島の牢獄に監禁されていました。その牢獄で、ヨハネは、神の未来図を見ました。神さまが、やがて将来このようにする、というご計画を示されたのです。それを見たヨハネは、迫害されている7つの教会とクリスチャンたちに、自分が見た神の未来図を書き送ることによって、彼らを励ましたのです。そして、ヨハネの言葉は今日、現代の教会、現代のクリスチャンである私たちを慰め、励ますものとなっているのです。
 今日読んだ聖書の御言葉の最初に、こう書かれています。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)。
 聖書は、旧約聖書と新約聖書から成っています。そして、旧約聖書の初めに創世記という書があります。その冒頭1~2章に記されているのは、神の天地創造の物語です。つまり、「最初の天と最初の地」を神さまがお造りになった話です。
 聖書というのは、それぞれの時代を生きた信仰者が書き表した書の寄せ集めで、そういう意味では一貫性がないように思われるかも知れません。ところが、そうではありません。聖書には、神さまがお造りになった最初の天と地が、やがて新しい天と新しい地に更新されるという一貫したドラマがあります。そういう壮大なご計画の中で、罪を犯し、神さまとの信頼関係を失った人間が救われていく。神さまとの信頼関係を、神に愛され、神の愛のもとに人と人とが互いに愛し合う愛の関係を取り戻していく。その完成形が、「新しい天と新しい地」という言葉で表されているのです。
 初めに、神は天地を創造されました。旧約聖書・創世記の冒頭に記されています。6日間で天地を造り、人をお造りになった神さまは、それを見て「極めて良かった」(1章31節)と絶賛し、喜んでおられます。そして、神さまは、人を祝福し、神さまが造られた世界を治めることを、人にお任せになったのです。
 ところが、極めて良かったはずの世界に亀裂が生じます。最初の人アダムとエヴァが神さまとの信頼関係を壊してしまうのです。二人は、エデンの園と呼ばれる場所で暮らしていましたが、ある時、蛇に誘惑されて、神さまに禁じられていた、エデンの園の中央に生えている木の実を食べてしまいます。それは、善悪の知識の木の実でした。その実を食べて、自分が裸であることに気づき、二人は、神さまから隠れました。きっと、ありのままの自分を受け入れることができなくなってしまったのでしょう。
けれども、二人は見つかって、禁断の木の実を食べたことが発覚します。そのとき、自分の罪を素直に認めて謝ろうとせず、アダムはエヴァのせいだと、エヴァは蛇のせいだと責任転嫁をします。それを聞いた神さまは、二人をエデンの園から追放します。その際、神さまはこう言われました。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3章22節)。
 エデンの園の中央には、命の木も生えていました。神さまは、命の木の実を、人の手の届かないものとして、永遠に生きることから遠ざけました。もしかしたら、神さまは、二人の様子を見て、どこかでその実を食べることを許すおつもりだったかも知れません。

 さて、そこから一気に、新約聖書の最後の書に飛びますが、今日読んだ聖書箇所には、この最初の天と最初の地が去って行くことが、つまり罪の世界が更新されることが記されています。そして、更新された新しい天と地において、「聖なる都、新しいエルサレム」(2節)が天から下って来たと書かれています。
 ヨハネの黙示録7章を読むと、天の玉座の周りに、あらゆる国から集まった、白い衣を身につけた、数え切れないほどの大群衆が、神を賛美し、礼拝している様子が描かれています。それが天の聖なる都、新しいエルサレムです。また、後半の22章には、この聖なる都に、命の水の川があって、「その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国民の病を癒(いや)す」(22章12節)と記されています。つまり、そこにはアダムとエヴァが、人間が遠ざけられた「命の木」がはえているのです。つまり、そこは命の世界、永遠に生きる者とならせていただくことができる世界です。
 この「聖なる都、新しいエルサレム」こそ、私たちが“天国”と呼んで信じているところだと言ってよいでしょう。それは、今はまだ天の上にあるのです。けれども、それが天から地に下って来る時が来ます。それが、新しい天と地が実現する時です。人の罪によって失われた神さまとの信頼関係、愛の関係が回復する時です。そのために、神さまはご自分の独り子イエス・キリストを、この世界にお送りになりました。そして、神の愛を届けさせ、キリストの命を犠牲として私たちの罪をお赦しになり、神さまとの関係を回復させたのです。
 いつかやがて神と人との信頼関係、愛の関係が回復する時が来る。その時、聖なる都、新しいエルサエム、すなわち私たちが“天国”と呼んでいる場所は、天から降りて来て、すべての人のものとなる。すべての人が入れる場所となる。黙示録の21章25節には、「都の門は一日中、決して閉ざされない」と記されています。すべての人に、いつでも開かれている場所となる。そして、そこで今度こそ、命の木の実を食べることを神さまから許されて、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界を、永遠に生きる者とされる。神さまに愛されて、互いに愛し合い、いつも喜び、祈り、感謝して生きる者とされる。聖書は、そのような壮大なドラマを、ビジョンを、私たちに、慰めとして、希望として提供してくれるのです。
 俗に“かわいい子には旅をさせろ”と言います。私はふと、この世界は、そして私たちの人生は、神さまが私たちを、聖なる都、新しいエルサレムに入れてくださるための旅なのではなかろうか。神さまは元々、私たちに永遠の命をくださるつもりでいた。けれども、人は未熟で、罪を犯し、その命を受けられるものではなくなってしまった。そういう私たちが、この世で鍛えられ、大切なことに気づくようにと神さまは私たちを生かしておられるのではなかろうか。人生は裸のままで受け入れるに足るものであること。そういう自分の人生を、責任転嫁をせずに、自分で負っていくべきものであること。失敗をしても、その失敗を素直に認め、やり直すこと。そのようにして信頼関係を、互いに愛し合う関係を造り上げていくこと、それが最も大切であることを悟らせるために、神さまは、この世で私たちに、人生という旅をさせているのではなかろうか。今日のメッセージの準備をしながら、ふとそんなことを感じました。その先に、真の命がある。

 そのような永遠の命の世界を信じた人の話を最後にさせていただきます。話は変わりますが、先日の台風19号で、大きな水害が各地で起こりました。特に、ニュースでも報じられましたが、特別養護老人ホームである川越キングスガーデンと隣接するケアハウス主の園が床上浸水の大きな被害に遭いました。不幸中の幸い、入居者の方々は無事に避難し、近隣の施設に分散して受け入れられ、職員とボランティアによって片付けが進み、今週から業者による修理、整備が始まります。
 ご存じのように、キングスガーデンはキリスト教の精神を土台に事業が営まれており、毎日礼拝があります。私も月に一度、その礼拝で聖書を語らせていただいています。このガーデンの先代の施設長が児島康夫さんという方で、この方が、キングスガーデンの日常を描いた『夕暮れ時のあったか噺』という著書を出されました。その中に、入所者の西川さん(仮名)という方が天に召された時のエピソードが記されています。西川さんに娘さんが一人おられました。葬儀の日の朝、その娘さんを、児島施設長が葬儀の部屋へと案内していた時のことです。
 特養C棟2階の式場にご案内しようと二人で廊下を歩いていた時、偶然、壁に掛けてあった西川さんの書道作品が目に入りました。‥‥‥三月の書道クラブで書いたものですから、西川さんにとっては最後の作品です。私はその書を見て仰天しました。「三月の かの地いかにと 旅仕度」という俳句が書かれていたのです。鳥肌が立つ思いでした。娘さんも息を飲みました。しばし二人とも言葉を失ってしまいました。(西川さんは3月23日に召された)‥‥‥「予感があったのでしょうかねえ」と言うと、娘さんは、「これ、『かの地』って、天国のことですよね」とおっしゃいます。「もちろん、そうでしょう」と答えると、娘さんは涙を流しながらニコッとされました。
 毎朝、礼拝をしているB棟の憩いの広場にも案内しました。‥‥‥「母は確かに天国に行ったのですね」とまた涙を流し、そして静かにほほえまれました。
 遺(のこ)された者にとって、逝(い)った人の最後の年月が、けっして不幸ではなかったと知ることは大きな慰めです。そして生前、その人が神さまに信頼を置き、安らかな日々を送っていたと知れば、今、愛する者が神さまの御腕の中に迎えられ、永遠の安らぎを得ていると確信することができ、悲しみが軽減されます。さらに遺った者と、やがて天国で再会できるという希望を持つなら、悲嘆は生きる力に変えられます。
(『夕暮れ時のあったか噺』第二版170~172頁)
 天国は理屈ではありません。証拠も保証もありません。信仰の世界です。けれども、聖書の御言葉によって信じたなら、死を超える慰めと希望が与えられ、生きる力となるのです。

 

 

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