坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年11月10日 主日礼拝説教「世の身内、主イエスの身内」

聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節
説教者 山岡創牧師

◆迫害の予告
15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

                                 「世の身内、主イエスの身内」
 ヨハネによる福音書13章から、最後の晩餐(ばんさん)と呼ばれる、主イエスと弟子たちの食事が始まりました。その席上で、主イエスは弟子たちの足を洗いました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15章5節)と互いの関係をたとえました。もはやあなたがたは僕(しもべ)ではなく、「友」(15章15節)であると語り、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節、17節)と新しい掟をお与えになりました。弟子とは、主イエスとのそのような関係を生きる者、主イエスの掟に従って生きる者です。そして、そのような主イエスとの関係、主イエスの掟に従った生き方を、今日の聖書の言葉を借りて言い表すとしたら、それは“主イエスの身内”ということでしょう。この世の「身内」(19節)ではなく、主イエスの身内として生きるということです。
 今日の聖書箇所を読んで、「身内」という言葉が印象に残りました。身内という言葉を改めて調べてみると、まず血のつながった家族や親族のことを考えます。けれども、血がつながっている人だけを身内と言うのではありません。血はつながっていなくても、同じ集団に属し、同じ考え方や価値観を持って生きている、そんな近しい人のことも身内と呼びます。例えば、伝統工芸を職業とする世界で、師匠がいて、その師匠から技術とその精神を学んでいる、師匠の家に住み込んで寝食を共にしているような弟子たちの関係は、身内の関係だと言っても良いでしょう。あるいは、今、NHKの連続テレビ小説で〈スカーレット〉という、焼き物の里・信楽(しがらき)を舞台に、女性陶芸家の波乱万丈の人生を描くドラマが放映されていますが、主人公の川原喜美子は、家が貧しく、中学を卒業して、大阪の下宿で働くようになります。ご飯を作り、洗濯をし、掃除をし、話をし、時にはお互い悩みを相談し、そんな下宿人との関係、あるいは下宿人同士の関係を見ていると、こういうのが“身内”というものだろうなあ、と思います。現代で言えば、シェア・ハウスをしていると、身内という気持が芽生えるのかも知れません。
 弟子たちは、主イエスにつながり、主イエス・キリストの体なる教会に属し、キリストの愛による救いを信じ、互いに愛し合うという掟に生きている。それは、身内のような、家族のような関係だと言えるでしょう。そして、主イエスの身内として生きるということは、この世の身内にはならない、ということです。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである」(19節)と主イエスも語っています。しかし、そうではない。弟子たちは、主イエスがこの世から選び出した“主イエスの身内”です。そして、主イエスの身内の宿命は、世から憎まれ、迫害を受けることだと、主イエスは語るのです。

 今日読んだ15章18節から一転して、弟子たちが憎まれ、迫害を受けることが記されています。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(20節)と言われる主イエスの言葉が、やがてそのとおりになるのです。
 主イエスは、ユダヤ教の学者たちが解釈する律法の教えに疑問を感じていました。律法によって人を裁くファリサイ派の生き方に反対しました。エルサレム神殿での祭司長たちのやり方に反発しました。そのようなユダヤ教信仰の下で苦しむ民衆に同情を寄せました。そして、律法の中から、最も大切なことは“愛”だと汲み取って活動されました。そういう主イエスの真髄が、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟に凝縮されているのです。
 けれども、そのような主イエスの教えと行動は、ユダヤ教の指導者たちや主流派から憎まれ、煙たがられ、迫害を受けました。そして、最後には、神を冒涜(ぼうとく)する罪人として十字架に架けられ、処刑されてしまうのです。
 その後、主イエスの教えを受け継ぎ、宣(の)べ伝え、教会を生み出した弟子たちも、ユダヤ人たちから迫害されます。その宣教と迫害の様子が使徒言行録に記されています。けれども、主イエスは、「僕は主人にまさりはしない」(20節)との言葉を思い出すように、と言われました。それは、主イエスが受けた以上の迫害を、弟子たちが受けることはない。あなたがたが通る道は、既に私が歩いた道だから安心しなさい、その道の向こうで私は待っていると弟子たちを励ましておられるのだと思われます。
 使徒言行録よりも後の時代、ヨハネの教会も迫害を受けました。特に、ユダヤ教が、イエスを救い主キリストと信じる者は、ユダヤ教徒とは認めないと決定したため、ヨハネの教会に属していたユダヤ人クリスチャンは動揺しました。そして、多くのユダヤ人クリスチャンが教会から離れ去っていきました。
 また、教会は、ローマの神々を拝まず、ローマの社会秩序を乱すという理由で、ローマ帝国による迫害を受けていました。クリスチャンたちは、公の場所で礼拝を守ることができず、カタコンベと呼ばれる地下の墓地で、礼拝を守り続けました。また、クリスチャンたちがお互いを認識する暗号として、魚のマークを自宅の玄関の壁に刻んだりして励まし合いました。これは、イエス・キリスト、神の子、救い主”というギリシア語の5文字の頭文字を取ってつなぎ合わせると、イクスースという言葉、つまり魚という言葉になったからです。
 けれども、教会は、ユダヤ人の迫害の中で、ローマ帝国による迫害の下で、生き伸び、クリスチャンは増え広がっていきました。やがて313年には、ミラノ勅令(ちょくれい)により、キリスト教はローマ帝国に公認されるようになりました。

 さて、そこから話は、私たちの時代、私たちの国に飛びます。日本では16世紀、戦国時代に、カトリック・キリスト教が伝えられました。しかし、その後、江戸時代に、キリスト教は激しい迫害を受けました。明治時代になって、再びキリスト教が入って来て、各地に教会が増えていきましたが、太平洋戦争の時、ホーリネスと呼ばれる一部の教会が迫害され、牧師は投獄され、教会は解散させられました。坂戸いずみ教会を開拓した川越市の初雁教会もホーリネス系の教会であり、戦中に教会を解散させられました。戦後、憲法によって信教の自由が保障され、教会は迫害、弾圧を受けることもなく、今日に至っています。
 そこで、現代のクリスチャン、現代の教会である私たち自身ですが、もちろん国家から迫害を受けることはありません。けれども、社会の中で、キリスト教が一つの宗教として誤解され、反対されることがあります。特に、家族の理解をなかなか得られず、教会に通うことを反対される場合が少なからずあるでしょう。中には、そのことを隠して教会に通っている人、洗礼を受けた人もおられるでしょう。
 深入りするな、と釘を刺されることもあるようです。深入りとは何でしょうか?洗脳されることでしょうか?献金によって財産を搾(しぼ)り取られることでしょうか?実際にそんなことが行われてはならないのは言うまでもありません。けれども、オウム真理教事件や統一協会による合同結婚式等によって、日本人は宗教に対してアレルギー反応を起こす傾向が強くなったと思われます。熱心に教会に通うようになると洗脳されたのではないかと思い、少し多額の献金をすると、搾り取られているのではないかと誤解されるのです。そういう風潮の中で、私たちは、主イエスの“身内”としてどのように生きていったら良いのでしょうか?

 ふとサンデー・クリスチャンという言葉を思い起こしました。日曜日は教会に通い、礼拝を守り、聖書の教えを聞く。けれども、平日は聖書も信仰もまるで忘れたかのように、この世の考え方に立って、この世の価値観に流されて生きている。そういうクリスチャンのことを指して言います。それは果たして “主イエスの身内”と言えるのでしょうか? 例えば、人が集まって、だれかの悪口を言っているところに、自分も加わって、一緒に悪口を言っているとしたら、それは主イエスの身内の生き方ではありません。いつも物質的豊かさを優先し、また損得計算ばかりして生きているとしたら、それは主イエスの身内の生き方ではありません。相手の言葉に耳を傾けず、否定して、自己主張ばかりしていたら、それは主イエスの身内の生き方ではありません。“世の身内”でありましょう。
 主イエスは、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」(27節)と言われました。私たちは、主イエスの身内としての証しをすることが求められています。「愛にとどまる」(10節)生き方で、キリストを証しするのです。
 もちろん、私たちは、この世の価値観とキリスト教信仰の間に立って葛藤(かっとう)するでしょう。常にすんなりと、主イエスに従えるわけではありません。葛藤の末に、主イエスの言葉に従えないこともあり得るでしょう。しかし、葛藤もせずに、聖書の考え方はこの世では通用しないと言って、この世の価値観で生きているとしたら、私たちは世の身内になっています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との主イエスの掟を目指して生きる姿勢を、愛にとどまる姿勢を、私たちは失ってはなりません。それが“主イエスの身内”の生き方です。時には、自分が損をしたり、我慢をしたり、譲ったりすることもあるでしょう。でも、そのように生きられることに誇りを、喜びを持ってください。
 30年前に、私は静岡草深教会で夏期実習をさせていただきました。その教会に、ラーメン店(中華料理?)を営んでいるご夫婦が教会員としておられました。お二人は日曜日の午前中、礼拝に出席しました。そして、その後で、昼から店を開けていました。きっと朝早くから仕込みの準備をして、時間を作って礼拝に出席されたことでしょう。その信仰生活に、主イエスに対する喜びと誠実を感じました。礼拝を休めば楽だったでしょうし、仕事だからと正当化もできます。けれども、そうすることは主イエスを証しすることにならないと考えておられたのでしょう。お二人は、主イエスに選び出された“主イエスの身内”として生きることは、そうすることだと考えたのに違いありません。
 「わたしがあなたがたを選び出した」(19節)と主イエスは言われます。確かにそうです。理屈抜きに、そう感じることがあるでしょう。けれども、その信仰を裏返してみれば、自分自身がキリストを選び、教会を選んだ決意があったはずです。主イエスに愛されている喜び、互いに愛し合う喜びがあり、“主イエスの身内”として教会という交わりを大切にしたいとの思いがあるはずです。そういう思いへと導いてくださったのは神さまだ、主イエスだと信じる時、「わたしがあなたがたを世から選び出した」という御(み)言葉が、自分のものに、自分の信仰になるのです。

 身内という言葉を調べていて、興味深い説明を見つけました。やくざの親分から杯を受け、交わした者は、親分の身内になり、またお互いに“身内”と呼ぶということです。仁義の世界、義理人情の交わりにおいては、親分は身内の子分を命を張って守り、子分は親分に身命をささげます。
 私たちは、この説教の後で主イエス・キリストの聖餐を受けます。俗なたとえかも知れませんが、その杯を受けることには、私たちが主イエスと親分から杯を受け、交わし“主イエスの身内”であり、互いに“身内”である契りを結び、確認し合うという意義があるのではないか。ふと、そう思いました。
 私たちは、主イエスの身内。互いに愛し合い、祈り合い、励まし合い、この世の波風に負けず、主イエスの道を、愛の道を歩んでいきましょう。

 

 

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