坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年年11月17日 主日礼拝説教 「主の日」

聖書 マタイによる福音書25章1~13節
説教者:野澤幸宏神学生

 

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

        「主の日」
皆さん、今年も大変お世話になりました、来年もよろしくお願いいたします!……いやいや、年末のご挨拶(あいさつ)にはまだまだあと一か月早いでしょう。野澤神学生は、卒業論文の締め切りが間近に迫っているストレスのあまり時間感覚がおかしくなってしまったのか、と皆さんお思いかもしれません。ご心配なく。正常です。これで別に間違っていないのです。11月のこの時期は、伝統的な教会のカレンダーでは、年末にあたるのです。古くからの教会歴では、待降節(たいこうせつ)アドヴェントの時期を一年の始まりだと考えてきました。アドヴェントとは、主イエス・キリストが肉体をもって人間の赤ちゃんとしてこの世にやってきてくださったクリスマスの出来事を待ち望む時で、今年度は12月1日から始まります。アドヴェント、クリスマス、主イエスの受難を思い起こし悔い改めの思いを持って過ごす受難節レント、十字架で死なれた主イエスが復活したことを記念する復活祭イースター、聖霊(せいれい)が降り教会が誕生した聖霊降臨祭ペンテコステ、そこから始まる長い聖霊降臨節を経て、教会の暦が年末を迎えるのがアドヴェントの前である今の時期です。教会の暦の年末は、降誕前節とも終末節とも言われます。復活された後、40日間にわたって弟子たちにその姿を現し、天へと昇っていかれた主イエスは、「またおいでになる」と聖書は語っています。日本基督(キリスト)教団信仰告白において「主の再び来たりたまふを待ち望む」と告白しているその時、来臨とも再臨とも言われる時を、特に意識して過ごすための時期が、一年の内でこの時期として定められているのです。

今日、皆さんとともに聴いている聖書のみ言葉は、主イエスご自身が再臨(さいりん)について語ってくださっています。「天の国は次のようにたとえられる」とありますが、主イエスが来臨される時は、神さまのご支配がこの地上に実現する時、すなわち、神の国が地上に訪れる時です。神の国は、婚宴にたとえられています。現代のなじみある言葉に言い換えれば、結婚披露宴です。10人のおとめが登場します。おとめは未婚の若い女性を表しています。主イエスの時代、ユダヤの結婚披露宴は通常、夜間に行われていたのだそうです。招かれたお客さんは、花嫁の家で花婿がやってくるのを待ちます。花婿が花嫁を迎えに来ると、ともし火を明るくともして歓迎するのです。そして花婿と花嫁は集まっていたお客さんたちと共に行列を作って花婿の家に行き、そこで本格的なお祝いの披露宴が催されるのです。このたとえに出てくるおとめたちは、花嫁の友人たちであると思われます。花婿が来るとき、会場である家の広間や、花婿の家まで行列が進む道を明るく照らすためのたいまつを持つ役割を持っていました。しかし、なぜかは分かりませんが、花婿が到着するのが遅れたのです。たいまつは木の棒の先に油をしみこませた布を巻いたものです。そこに点けられた火は、あまり長くはもちません。だから、予備の油を準備しておく必要があったのです。賢い5人のおとめはしっかり準備をしており、残る5人のおとめは愚かだったので準備をしておらず、慌てて予備の油を買いに行っている間に、披露宴会場の扉は閉められ、彼女たちはその席に入ることができなかった、という物語です。

最後の13節で主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言われますが、お話の中に出てくるおとめたちは、賢い5人も、愚かな5人もみんな揃って眠ってしまっています。それ自体は咎(とが)められていません。準備をしておくことが大事だと語られているのです。しかもその準備は、他人の準備によって自分も助かるというものではないようです。賢いおとめたちの油は、「分けてあげるほどは」ない量なのです。一人一人、それぞれの準備が重要だと語られています。またその後で、愚かなおとめたちも花婿のことを、「御主人様」と呼んでいます。このことは、わたしたちが神さま、主イエスを「主よ」と呼んでいることと同じ言葉ですから、信仰があるか無いかが問題にされているのでもないのです。10人のおとめたちは、皆同じように主イエスを「主よ」と呼ぶ信仰を持っているのです。ここで油にたとえられるわたしたちの準備とは、み言葉に聴き、備えて祈る日々の信仰生活ではないでしょうか。聖書の神を信じていると告白しても、それだけでは信仰の炎を燃やし続けることは出来ません。日々、与えられた聖書のみ言葉を心に携えて祈りの生活を送ることが、信仰の炎を燃やす燃料である油となるのだと思います。わたしたち人間には、いつ訪れるか分からない、花婿の到着、主イエスの来臨の時に備えてわたしたちがすべきことは、この祈りの備えの生活だと思います。

さて、話は変わります。私事ですが、わたしは先日11月3日の永眠者記念礼拝をお休みいたしました。神学生ですから、ありがたいことに説教者としてお招きくださる他の教会も多いですので、またそのようにどこかの教会に招かれたのだろうとお思いになった方もあるかと思いますが、今回はそういった事情ではなく、実は弟の結婚式に出席していたのです。家族親戚はもちろん、弟夫婦の友人知人、職場の関係者など、たくさんの方々が集って、その喜びを共に祝っていました。当たり前と言えばそれまでですが、その中で語られるスピーチや挨拶は、みな祝福、感謝といわば肯定的な言葉に溢れていました。いいことばっかり言ってもらえる日です。そこに集まった人々が、皆こぞって主役である弟夫婦二人に祝福の感情を向けるのです。人生でこんなにたくさんの人から「肯定される」「よしとされる」時間は他にないのではないかと思います。そのことを思い出しつつ、今日与えられたみ言葉を黙想していて、ひとつ思わされたことがあります。それは、主イエスの再臨が婚宴にたとえられるのは、それによって完成する神の国が、神さまのわたしたちに対する存在肯定、つまり「あなたはあなたでよい」と言ってくださっていることを示しているのではないか、ということです。

わたしたちの造り主なる父なる神さまは、七日間の天地創造の最後の一日に、ご自身の造られた世界をご覧になって、「見よ、それは極めてよかった」と言われました。その極めて良いはずの世界に現在、理解しがたい不条理(ふじょうり)が溢(あふ)れているのは、わたしたち人間の側が神さまに背いているからです。主イエスが再び来られる時は、神さまのご支配、神の国が地上に完成する時です、神さまが作られた「極めて良い」世界が、この地上に実現する時です。そこには、否定はないはずです。神さまがわたしたちを、お造りになった全てのものを愛して、絶対的に肯定してくださる世界が待っているはずです。その状態こそが、今日招詞として読まれたヨハネの黙示録(もくしろく)の言葉「命の水の泉から値なしに飲ませよう」という状態ではないでしょうか。主イエスの来臨という結婚披露宴会場で、わたしたちは、わたしたちの命を生かす、神さまからの存在肯定の言葉を、値なしに飲ませていただく、聴かせていただくことが出来るのではないかと思わされます。そう考える時、やはり神さまはわたしたち皆を披露宴会場にお招きくださっているのだと思います。たとえ話の中では、愚かな5人のおとめたちは披露宴会場に入れませんでした。しかし、ご自分のお造りになったすべてのものを愛し肯定される神さまは、きっとすべての人を会場に招こうとしてくださっているはずです。それを実現出来なくさせているのは、わたしたちの側の準備の問題です。

 本日の説教題を、「主の日」としました。この「主の日」という表現はもともと、旧約の時代、神さまが従う者に救いを、従わない者に滅びをお与えになる最後の審判の日、裁きの日として使われていました。それが新約の時代に、主イエス・キリストが再び地上に来られる日を指すようになりました。そしてさらに、それはいつしか、主イエス・キリストの復活を記念し、キリストを信じる者が共に集まって礼拝をささげる日曜日を表す言葉になったのです。わたしたちもこうして今、礼拝を共に守っています。そのために、教会に集まっています。この礼拝の時を、神の国という結婚披露宴会場の姿を映す、先触れとしての宴(うたげ)のような喜びのひと時にしていきましょう。そのために、賢いおとめたちのように、み言葉に聴き、祈る生活という油の備えを絶やさずに歩みましょう。わたしたちすべてを肯定してくださる神さまのお招きに応えられるよう、ともし火を絶やさないように備え続けましょう。

 

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