坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年11月24日 主日礼拝説教 「“自分は正しい”と思う罠」

聖書  ヨハネによる福音書16章1~4節、
説教者 山岡創牧師

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。


  「“自分は正しい”と思う罠」

 人生はよく“道”にたとえられます。皆さんは、自分の人生を、どのよう道にイメージしているでしょうか?‥‥まっすぐな道、曲がりくねった道、上り坂、下り坂、平らな道、でこぼこな道‥‥色々とイメージするかも知れません。けれども、人生を長く生きておられるベテランの方々ほど、そのようにお感じになると思いますが、人生には、まっすぐで、平坦な道はない、ということです。きっといくつもの分かれ道を
私たちは経験します。その度に、どちらかの道を選びながら、私たちは進みます。行きどまりにぶつかることもあるでしょう。そうしたら戻って、別の道を捜さなければなりません。険しい上り坂を上る時もあれば、真っ暗なトンネルを歩く時もあるでしょう。しかも、道には石があったり、穴があったり、でこぼこがあったりします。そういったものに足を取られて、私たちはつまずきます。つまずいて倒れ、でも、気を取り直して再び立ち上がり、歩き出す。人生という道は、その繰り返しなのでしょう。
 そのように、私たちは、人生につまずくことがあります。つまずくだけではありません。時には、自分が人をつまずかせる原因になることもあり得るのです。

 主イエスは言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」(1節)。13章から、〈最後の晩餐(ばんさん)〉と呼ばれる主イエスと弟子たちの食事が始まっています。その席で、主イエスは弟子たちに、遺言とも言えるような大切な言葉を語り続けています。今日読んだ聖書箇所の直前、15節以下では、〈迫害の予告〉を語っています。あなたがたは、わたしが憎まれたように、人々から憎まれる。あなたがたは、わたしが迫害されたように、人々から迫害される。「これらのことを話した」というのは、そのような人々の憎しみ、迫害を指しています。
 そのような憎しみと迫害を主イエスが語ったのは、弟子たちを信仰につまずかせないためでした。私たちが道でつまずくのは、その原因となるでこぼこや石が足もとにあることを予測できていない時です。予測していれば、それを避けることができるし、足が引っ掛かっても落ち着いて対処できます。
 信仰の人生には、憎しみと迫害が待っている。そのことを知っていれば、思いがけない出来事に驚くことはありませんし、覚悟も対処の方法も考えておくことができます。つまり、つまずかないための備えができます。そのために、主イエスは憎しみと迫害を語ったのです。「その時がきたときに、わたしが語ったということ」(4節)を思い出して、つまずかないようにしなさいと諭したのです。

 実際、主イエスは憎まれていました。ユダヤ教の指導者や主流派の人々と対立していたからです。彼らの信仰、彼らのやり方に、主イエスは疑問を持ちました。神の掟で人を裁き、差別するファリサイ派の信仰に、金もうけ主義の祭司長たちの神殿礼拝に反対しました。けれども、彼らに言わせれば、主イエスの方こそユダヤ教の伝統を踏みにじり、常識を破り、罪を犯していると思われたのです。だから、彼らは主イエスを憎み、ついには主イエスを捕らえ、裁判の席で、神を冒涜する罪を犯したと有罪判決を下し、十字架に架けて処刑してしまったのです。
 この出来事に弟子たちはつまずきました。主イエスの言葉をちゃんと理解しておらず、十字架刑が予測できていなかったからです。
 けれども、つまずいた弟子たちは、復活した主イエスの愛と、聖霊(せいれい)の働きによって立ち直りました。そして、イエスこそ救い主であると宣べ伝え始めたのです。ユダヤ人の中に、多くの信じる者が起こされて、エルサレムに教会が生まれました。そして、エルサレムから地方へと、主イエスを信じる信仰と教会は広がっていきました。
けれども、その過程において、弟子たちは、主イエスの予告のとおり、憎まれ、迫害されました。彼らは捕らえられ、主イエスのことを伝えてはならない、と脅されました。投獄されました。ついには処刑され、殺される者も出て来ました。教会はエルサレムから追い出されました。ユダヤ人の会堂からも「追放」(2節)されました。しかも、もう少し後のヨハネの教会の時代には、イエス・キリストを信じる信仰はユダヤ教ではない、とはっきり宣言されて、縁を切られたのです。それまでは、独立したキリスト教と言うよりも、ユダヤ教の一宗派、“キリスト派”という扱いだったので、ユダヤ人クリスチャンも、自分はユダヤ教徒だと安心していました。けれども、ユダヤ教ではないと宣言されて、ユダヤ人クリスチャンは激しく動揺しました。そして、彼らの多くが、主イエスを信じる信仰につまずいて、教会から離れ去って行ったのです。

 話を少し戻しますが、そのような迫害の中で、処刑され、殺されたクリスチャンが少なからずありました。しかも、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(2節)ということが、まさに起こったのです。人を苦しめ、迫害し、殺す者に罪の意識があるなら、まだマシかも知れません。もっとも、罪の意識があるならば、そんなことをする人はほとんどいないでしょうが。
 人を苦しめ、迫害し、殺しているのに、自分は正しいと考えることがあります。自分は神の心に適っていると考えることがあります。自分は神に奉仕していると思い込むことがあるのです。宗教信仰はともすれば、人を独善に陥らせるのです。
 主イエスの教えに「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。愛の教えはキリスト教信仰において、最も重要なものです。隣人を愛することにおいて、私たちは、自分のこだわりに気づかされ、そこから解放されていきます。少し難しい言葉で言えば、自分を相対化する。神さまだけが絶対なのですから、人間である自分の中に絶対的なものなどない、つまりどうしてもこだわらなければならないものなどないのです。そのように悟って、自分と人の違いを受け入れていく。それが宗教の心の広さです。
 他方、自分を愛することにおいて、私たちは、自分を否定せず、価値がないと思わず、神の愛の下で自分を肯定し、受容し、大切にしていきます。それもまた、宗教の心のもう一つの良さです。そのように、他者(隣人)のことを肯定し、受容し、大切にする。それが、父なる神を知り、主イエスの御心(みこころ)を知っている、ということです。
 けれども、「父をもわたしをも知らない」(3節)とどうなるか?信仰は変形し、間違った方向に進むことになります。それは、自分の考えていること、自分のしていることは、神の心に適っている、神が良しと認めてくださっていると思い込み、自分を正当化し、絶対化し、人の考えや行動を否定し、争うことです。信仰によって、人はともすれば独善的になるのです。それは自分を愛することでも、まして人を愛することでもありません。けれども、自分は神の心に適っていると思い込んでいますから、たちが悪い。そして、独善はエスカレートすれば狂信的な信仰に陥り、殺しさえも辞さない、殺しさえ神に奉仕していると考えるようになってしまう場合があります。聖書の中にもそういう人間が描かれていますし、現代社会においても私たちは、そういう宗教的独善、狂信が引き起こした悲惨な事件と現実を少なからず知っているでしょう。

ところで、私たち自身はどうでしょうか?これは決して他人事ではないのです。もちろん、私たちは“殺し”など、まずしないでしょう。けれども、毎日の生活の中で、“小さな独善”に生きていることがあるのではないでしょうか?自分の考えや価値観から人を非難し、否定し、傷つけ、苦しめていることがないでしょうか?冷たい態度になったり、陰口になったりしていることはないでしょうか?そういう自分に気づかず、信仰的に正当化していることはないでしょうか?
 “正しさ”というのは、ある意味で“人生の罠”かも知れません。私たちは正しさを求めて生きているところがあります。それ自体は大事なことですが、そのために私たちは自分の間違いを認めることができず、自分を正当化することが少なくないでしょう。
 正さを求めて、私たちは、“主よ、私の言葉が、判断が、行動が、主の御心に適って正しいものでありますように”と祈ることがあると思います。祈って、主の御心だと信じたことを、私たちは実行します。けれども、100%正しいと確信することなど、私たちにはあり得ません。祈ってもなお、どこかに迷いが残ります。私たちは“神”ではないのですから、それでよいのです。むしろ、迷いがない方が恐ろしい。迷いを残しながら、“神さま、私の言葉、判断、行動が神さまの御心に適いますように。しかし、もし違っていたら、そのことを示してください”と祈りながら謙虚に進む。それが、私たちの信仰です。
 けれども、そういう信仰を、私たちは、どこかに置き忘れるのです。私がまだ駆け出しの牧師だった頃、こんなことがありました。一人の青年の教会員が突然、天に召されました。ご家族も、教会も、悲しみに暮れました。そんな中、亡くなった青年の妹さんがクリスチャンで、しばらく教会生活から離れていたのですが、所属先の教会から坂戸いずみ教会に転籍し、転入会したいと申し出がありました。悲しみの中にあるご両親はとても喜びました。
 けれども、その方の住居が東京だったので、私は、転入会しても教会に通えないのでは、と思い、どうせ転入会して教会生活を始めるなら、家の近くの教会の方がいいのでは、と考えて、本人と相談することもなく、役員と相談することもなく、内々でその申し出を断りました。その私の判断によって、ご両親と妹さん本人がどんなに傷ついたことか、教会がどれほど揺れ動いたか、計り知れません。
 私はよく考えて、祈って、正しいと、良かれと思ってしたことでした。けれども、それは「自分は神に奉仕している」と考える私の独善に過ぎませんでした。どんなに悔いても、もはや時間を巻き戻すことはできません。私は、この家族をつまずかせました。(それでも、そのご両親は教会に踏みとどまってくださいました。駆け出しの牧師が、自分の失敗でつぶれなかったのは、そのお陰にほかなりません)
 ただ、後で振り返ってみると、その時、牧師として、とても大切なことを学ばせていただいたと思います。それは、“正しさは人を救えない、人を救うのは愛だ”ということです。たとえ正しいと思えても、愛の伴わない正しさは、冷たい正しさとなって人を切ります。多少筋が通らなくても、寄り添う愛は人の心を包み、救うのです。そのことを学びました。そして、愛のあるところにはきっと、情理の筋が生まれるはずです。
 だから、自分の考え、態度、行動を、“これは人を愛することになっているか?”“神を愛することになっているか?”と、愛の視点から絶えず吟味することが大切だと思います。もちろん、罪と欠けのある人間ですから、いつも愛に適うことができるわけではありません。でも、愛にハッとさせられ、悔い改めながら、再び愛を心がけて生きていく。クリスチャンの生き方とは、それ以外にないと思うのです。そして、そういう愛があるならば、つまずいた人を助け起こせることもあるのではないでしょうか。

 人生が曲がりくねった、でこぼこ道であるならば、私たちは、どこかで必ずつまずくでしょう。挫折、失敗、過ち、悲しみ‥‥もちろん、それ自体も辛いことには違いありません。けれども、もっと深刻なのは、その時、寄り添ってくれる人とその愛があるかどうかだと思います。つまずきから立ち上がり、歩き出すことができるかどうかは、そばにいて寄り添い、見守り、時には手を差し伸べてくれる‥‥そんな人がいるかどうかに懸っています。つまり、愛の支えを感じて人は立ち上がることができると思うのです。
 信仰とは、そのようなキリストの愛を感じられるものでありたい。教会は、そのような人の愛を感じられる交わりでありたいその愛を祈り求めて進みましょう。