坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年12月1日待節降アドヴェント第1主日礼拝説教「おめでとう、恵まれ方」

聖書 ルカによる福音書1章26~37節
説教者 山岡 創牧師

   <イエスの誕生が予告される>
26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

       「おめでとう、恵まれた方」

 今日から〈待節降アドヴェント〉が始まりました。オルガンの上にあるアドヴェント・クランツのキャンドルに1本、火が灯りました。日曜日の礼拝毎に増やしていき、4本のキャンドルに火が灯った時、クリスマス礼拝を迎えます。今年は12月22日の日曜日です。
 初めて教会でのクリスマスを迎えるという方は、アドヴェントって何だろう?と思われるでしょう。それは、キリスト教のカレンダーで、救い主イエス・キリストの誕生祭クリスマスを待ち望み、備えていく期間です。先週の日曜日の午後、大掃除が行われ、また、それと並行してクリスマスの飾り付けが行われました。アドヴェント・クランツをはじめ、リース、また玄関脇のウィンドウには、クリスマス・ツリーとクリブが飾られています。今年、クリスマス礼拝を案内する看板は、M女子高校・書道部部長のYさんに書いていただきました。それらを見ていると、あぁ、もうすぐクリスマスだなぁ、という気持が湧いて来ます。
 もちろん、形だけ整えればよいというものではありません。もっと大切なのは、私たちの信仰の心だということは、言うまでもありません。私たちの心に、喜びを持ってイエス・キリストを救い主としてお迎えする。そのために、聖書の御(み)言葉と祈りを通して、聖霊なる神のお働きをいただいて、信仰の心を整えていく。それが待降節アドヴェントの歩みです。今日の礼拝もその一助です。

 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(28節)。天使ガブリエルがマリアに語りかけた最初の言葉です。この言葉から始まる場面は、おとめマリアが聖霊の力によって主イエスを身ごもるという出来事、いわゆる〈処女降誕〉を表わしているシーンです。そして、マリアではありませんが、多くの人が「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34節)と言いたくなる出来事でありましょう。女性が男性との生殖行為を抜きにして、命を身ごもることなどあり得ない。それが私たちの常識だからです。
 先週の月曜日、埼玉地区の牧師会が熊谷教会で行われました。その会でちょうど、ある牧師先生が、今日の聖書箇所について発題をしてくださいました。私も初めて聞く、ユニークな内容でした。
 まず血液型の話から始まりまして、父親と母親の血液型の組み合わせによっては、母親と胎内の子どもの血液型が異なる場合がある。例えば、A型の母親からO型の子どもが生まれるということがあるわけです。ところが、異なる型の血液が混ざり合うと血液は固まってしまう。母親と胎内の子どもは、血液を通して、栄養分、老廃物、酸素、二酸化炭素のやり取りをしているのに、異なる型の母親と子どもの血液が固まらないのはどうしてなのか?それは、母親と子どもの血管は直接つながっておらず、胎盤(たいばん)を通して、血管と血管が接しているだけだからだ、ということです。
 この妊娠の仕組みを当てはめると、マリアとイエスの胎内での血管もつながっておらず、よってアダムとエヴァから始まった人間の罪という遺伝性も、血液を通してマリアからイエスには遺伝しない。だから、イエスは罪のない人間だというのが、この話の肝(きも)でした。つまり、イエスは「いと高き方の子」(32節)であり、「聖なる者、神の子」(35節)だというわけです。
 発題が終わって、私は質問しました。“この解釈は、先生のオリジナルですか?”。先生いわく、これは韓国のキリスト教界で発案された解釈だということで、この聖書箇所の一つの切り口として紹介した、とのことでした。私は更に、“でも、この解釈では、マリアがヨセフとの関係を持たずに、聖霊によって身ごもったことの根拠にはなりませんよね?”と質問を続けると、そのとおりです、そこは信じる以外にないことです、と言われました。先生ご自身はとても信仰深い方だと私は感じていますが、先生はクリスチャンでない方々の集まりで、この聖書箇所についてお話する機会があったそうで、その際、興味を持っていただくために、この解釈を紹介したと言っておられました。
 女性が男性との生殖行為を抜きにして、命を身ごもることなどあり得ない。それが私たちの生物学的な常識です。マリアがヨセフとの関係なしで、神の聖霊によって身ごもったことを科学的に証明する根拠などありはしません。それはまさに、信じるか信じないか、信仰の問題です。
その信仰の基(もと)は、創世記の冒頭にある天地創造物語にあると言ってよいでしょう。神が天地を創造された。宇宙を造り、地球を造り、そこに生きとし生けるものの命を造り、人間をお造りになった。この天地は、私たちは、偶然にして生み出されたものなのか?否、神のご遺志によって、神の力によって生み出されたと信じるのが、キリスト教信仰の根本です。それを信じることができるならば、マリアの処女降誕も、キリストの復活も、奇跡の業も信じることができるはずです。「神にできないことは何一つない」(37節)と信じられるはずです。
ただ、そのような出来事は、私たちの周りで日常茶飯事のように起こるわけではないし、私たちが祈り願ったら必ず起こるというわけでもありません。それは、神さまが“そうしよう”と望まれた時に起こるのだとわきまえて信ずべきことです。

 そういう意味で、今日の聖書箇所を、常識的に、科学的に解釈して納得しようとしても、それは意味のないことです。それはやはり信仰的に読むべきもの、もう少し言えば、私たち自身の人生と重ね合わせて、耳を傾け、信ずべき言葉です。
 天使や聖霊というものを、取りあえずカッコに入れて考えてみると、マリアがその人生において経験したこと、それは自分が身ごもったという事実、しかも「男の人を知らずに」(34節)に身ごもるという出来事でした。それはマリアにとって、常識では測れない、なぜそういうことが起こるのか理由が分からない不条理な出来事であり、受け入れ難(がた)い戸惑いであり、苦悩でした。だから、天使が「あなたは身ごもって男の子を産む」(31節)と告げられた時、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と答えたのです。
一見、この言葉は、常識的にそんなことはあり得ない、という反論のように思えます。けれども、もう少しマリアの気持を深く読めば、それは「そのようなこと」が自分に起こっては困るという抗議であり、どうして「そのようなこと」が私の人生に起こるのかという、不条理、苦しみに対する嘆き、受け入れ難い感情の現れだと私は思うのです。
「どうして」‥‥それは私たちが必ず自分の人生に発する問いかけであり、苦悩の言葉にほかなりません。

 けれども、そのような戸惑いと苦悩を感じたマリアが、最後には「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と、不条理な出来事を受け入れています。この変化はどうして起こったのでしょう。
 それは、親類のエリサベトの話を聞いたことがきっかけになったと思われます。私たちも、自分の周りの人に起こった出来事や経験を知ることによって、自分の人生を見直すことがあります。本来、自分の人生は人と比べるものではないのですが、人生の意味を読み取ることに鈍い私たちには、人の人生を見て、自分の人生にハッと気づかされることが少なからずあると思います。マリアも、エリサベトが年を取るまで、不妊で、子供を授からないことに長い間、悩み、苦しんで、「どうして」とうめきながら生きて来た人生を知っていたでしょう。その女性が今、恵みと喜びを感じている。その話を聞いて、自分の人生を見直してみたのではないでしょうか。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(28節)、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(30節)と語りかける天使の言葉を、もう一度味わい直したのではないでしょうか。
 エレナ・ポーターというアメリカの女性作家が描いた作品に『少女パレアナ』という物語があります。パレアナは、貧しい牧師夫妻の間に生まれますが、子どもの頃に両親が亡くなり、母の妹である叔母(おば)の家にひきとられます。パレアナは叔母の屋敷の中で、粗末な部屋をあてがわれます。歓迎されていないことを感じながら、しかし彼女は、持ち前の明るさで振る舞い、いつも〈何でも喜ぶ遊び〉をします。それは、父親が聖書の言葉から考え出した遊びであり、パレアナが両親からもらったただ一つの財産でした。例えば、部屋に鏡がないという事実を前に、“鏡がないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスが見えませんものね”と言ってにっこりと笑います。どんなことにも喜びを見つけるのが、“何でも喜ぶ遊び”でした。 
パレアナは、この“何でも喜ぶ遊び”で町中の人気者になります。意固地(いこじ)で誰とも話をしなかった老紳士から、ひねくれ者でねたみばかり言っている寝たきりの病人に至るまで、みんなパレアナと友達になりました。
 けれども、パレアナは自動車に跳ね飛ばされて下半身不随になってしまいます。ベッドに寝たきりになった彼女は、“歩けなくなったことに、どんな喜びを見つけられるの?”と嘆きます。それを聞いた村人たちは、パレアナを喜ばそうと、見舞いにきて彼女を勇気付けます。村人たちを喜ばそうと村中を飛び回っていたパレアナが事故にあった後で、今度は逆に、村中の人たちが、パレアナを喜ばそうと見舞いに来る。そのことにパレアナはきっと、喜びを見いだしたはずです。

 信仰とは、この〈何でも喜ぶ遊び〉だと言ってもよいのではないでしょうか。どんな時にも、どんな出来事の中にも、目には見えず、直接話すことも、手で触れることもできませんが、「主があなたと共におられる」と信じる。そして、主イエス・キリストの愛を信じて、どんなことにも、神の恵みの意味を、愛のメッセージを見いだしていこうと祈り求める。その心の姿勢こそ、信仰です。
 だから、マリアが最後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と応えたのは、どんなに神に抗議し、人生に抵抗しても無駄だとあきらめたのではありません。そうではなくて、思いがけない不条理な出来事、受け止め難い人生の現実の中にも、神の恵みがあると信じた人の勇気と希望の告白なのです。
「主があなたと共におられる」「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。これがクリスマスに当たって、聖書が私たちにも語りかける神の言葉です。その言葉を信じて応えるのが、私たちの信仰です。もちろん、簡単なことではありません。現実を目の前にして、私たちは、戸惑い、苦しみ、疑います。信仰を持ってからも、その繰り返しでしょう。繰り返しでいいのです。戸惑い、苦しみ、疑いの中で、私たちは何度でも思い直して、勇気と希望を持って生きていきたい。その願いこそ、神に献げ、祈り求めていきましょう。

 

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