坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年12月8日 アドヴェント第2主日礼拝説教 「神が泊まる場所」

聖書 ルカによる福音書2章1~7節
説教者 山岡創牧師

2:-1 イエスの誕生
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

                                 「神が泊まる場所」
 ヨセフと身重のマリアは、ナザレからユダヤのベツレヘムへと旅をしました。ナザレからベツレヘムへの道は、低いとは言え山岳地帯が続きます。その間、約100キロの道程を歩いて旅をする。ロバを連れていたでしょうが、身重の女性が旅するのは相当しんどいことだったと思われます。
 どうしてそんなことになったかと言えば、当時、ガリラヤ、ユダヤも含め、地中海の周辺世界を支配していたローマ帝国の皇帝アウグストゥスから、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令(ちょくれい)が出た」(1節)からです。それは、納税を強化するためだったでしょう。住んでいるナザレで登録すれば良いではないかと思われますが、ユダヤ人は、自分が神の民イスラエルに属しているということの根拠として、とても血筋を重んじる人々でした。イスラエルには12の部族と、その部族の中に更に氏族があって、かつては、それぞれが所有する町や村があり、土地があったのです。だから、ヨセフもかつて自分の部族、氏族が所有していた町へ帰り、住民登録をしたのです。日本では、ほとんどもう聞かなくなりましたが、いわゆる“本籍地”のようなものでしょう。
 ちなみに、マリアはまだ「いいなづけ」(5節)であり、正式に結婚していないのですから、敢えて大変な旅に連れて行く必要はなかったかも知れません。けれども、マリアを独りでナザレに残して来るのは、周りの目を考えると心配だったのでしょう。
 つい先日、インドネシアのある州で、婚前交渉を行った男性が、公衆の面前で鞭打ち100回の刑に処せられたという記事を読みました。イスラム教の掟に違反した、ということです。男は途中で気を失い、意識が戻った後で残りの鞭を加えられ、その後、病院に運ばれたとのことでした。
 そういう厳しい掟と空気が当時のユダヤ教にもありました。先週の礼拝で、ルカによる福音書(ふくいんしょ)1章26節以下の御(み)言葉を聞きましたが、マリアが天使のお告げで、聖霊によって身ごもったことなど、親族のエリサベトといいなずけのヨセフ以外、だれも信じてはくれなかったでしょう。いいなづけとは言え、“あの娘はフライング(婚前交渉)なんかして”という非難の空気は周りにあったと思います。そういう空気の中で、独りで辛い思いに合わせないために、ヨセフは敢えて、身重のマリアを一緒に連れ出したのではないかと思われます。

 けれども、連れ出した先のベツレヘムでも、マリアには過酷な環境が待っていました。「泊まる場所がなかった」(7節)のです。
 当時、ベツレヘムという小さな村に「宿屋」はなかったと思われます。ユダヤ人には、旅をしている同胞は、家に迎え、宿を貸すという習慣、仲間意識がありました。だから、村人たちが、住民登録のためにベツレヘムにやって来た人々を自宅に泊めたのでしょう。
 けれども、それだけでは宿が全く足りなかった。そのため、ヨセフとマリアは、泊まる場所を見つけることができなかったのです。
 それでも時は待ってはくれません。陣痛が起こりました。長旅でロバに揺られたために陣痛が起こり、もしかしたら早産だったかも知れません。泊まる場所もなく、「マリアは月が満ちて、初めての子を生み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(6~7節)のです。「飼い葉桶に寝かせた」という言葉から、主イエスがお生まれになった場所は、家畜小屋だったと考えられています。
聖書は、お生まれになった方を、「救い主」(11節)であり、「聖なる者、神の子」(1章35節)だと伝えます。けれども、この神の子、救い主は、用意され、整えられた場所ではなく、まして王宮のようなところでもなく、だれに迎えられるわけでもなく、ひっそりと家畜小屋にお生まれになったのです。ほとんどだれも気づいていない。それが救い主の現実であり、“救い”というものの本質なのかも知れません。つまり、ほとんどの人が、救いというものがすぐそばにあっても、身近にあっても、気づけば手に入れられるところにあっても、それに気づかない、ということです。救いに気づき、それを受け入れる「場所」を自分の内側に持っていないのです。
他人事ではありません。私たち自身が、洗礼を受けていながら、信仰を持っていながら、イエス・キリストを、“救い”を、喜んで迎え、賛美する“心の場所”を持っていないかも知れないのです。忘れているかも知れないのです。もし私たちが、物質的な豊かさや地位の向上、名誉の獲得、あるいは家族の安全、病気の癒(いや)し、問題の解決‥‥‥そういったものを求めるのは自然なことですし、そういったものに支えられて生きている面もあるのですが、しかし、もしそれらを“救い”だと思っているとしたら、私たちは聖書が指し示す“救い”に気づくことはないでしょう。
 ヨセフとマリアには、「泊まる場所」がありませんでした。それは、お生まれになったイエス・キリストご自身に、この世に「泊まる場所」がない、ということを象徴しています。やがて、主イエスが神の国を宣教されるようになった時、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」(ルカ9章58節)と言われました。単に家や、空間的な場所の問題だけではありません。主イエスは、宣教活動をする上で、ファリサイ派の人々や律法学者たちから、律法違反だと反対を受けました。神殿を預かる祭司長たちからは、要注意人物とマークされました。癒しと奇跡を期待する民衆からは期待外れと見捨てられ、祭司長や律法学者たちから扇動されたエルサエムの住民には、十字架につけろ、と罵(ののし)られました。そして、十字架刑に処せられる‥‥‥ユダヤ人は、主イエスの教えと行動を認めず、神への冒涜(ぼうとく)として否定しました。そういう意味で、主イエスには「泊まる場所」がありませんでした。

 そんな主イエスが唯一、「泊まりたい」と自ら言われた場所があります。人物がいます。それは、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイです。ルカによる福音書19章に出て来ます。ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。けれども、仕事柄、不正な取り立てをして、盗みや貪(むさぼ)りの罪を犯しているとか、汚れた外国人と付き合っているとか言われ、町の人々からは忌み嫌われていました。そんなザアカイが、噂に聴く主イエスを見たいと思って、いちじく桑の木に登り、通りがかった主イエスを見降ろしました。その時、主イエスは、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19章5節)と言われたのです。ザアカイは急いで降りて来て、主イエスを家に迎え、もてなしました。そして、その席でザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)と宣言したのです。それを聞いた主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うためにきたのである」(9~10節)と祝福されました。
 いったい何が「救い」なのでしょう?普通に考えたら分かりません。ザアカイはせっかく蓄えて来た財産を失うだけじゃないか、と思います。
 けれども、どんなに財産があっても手に入れられないものがあります。ザアカイは、財産には代えられないものを手に入れたのです。それはまさに「場所」です。自分が安心して居られる場所です。場所とは空間の問題ではありません。人との関係性の問題です。自分のところに来てくれる人がいる。自分を認めてくれる人がいる。自分を愛してくれる人がいる。その時、人は、自分が生きる「場所」を得るのです。それが、私たちにとって本当の意味での“救い”なのです。私たちは、その場所なくしては、愛なくしては、生きていくことができません。主イエスは、ザアカイに、愛という「場所」を、救いをもたらしたのです。

 何年か前の『信徒の友』12月号を読んでいましたら、〈娘が亡くなったクリスマスイブの晩に〉という文章が心に留まりました。
 ある年の12月24日の夜、私は、その日の朝亡くなった「マリちゃん」という、若い教会員Yさんの3歳になる一人娘の葬儀前夜式をするために、その家へと出かけました。坂の上にある彼の家へと歩いて行く途中の両側の家々の窓からもれる光は明るく、クリスマスイブを喜び楽しむ子どもたちの声も聞こえてきました。Yさんの家の中にも、マリちゃんの枕元に、豆電球が美しく点滅するツリーが立てられていましたが、その輝きが美しいだけに、感じ取られる部屋の空気はわびしく、冷え冷えとしたものでした。
 前夜式を終えてお茶をいただいていたとき、隣に座っていた老齢の女性信徒が、「今日は何とも嬉しい日です」と洩(も)らされました。「えっ?おばあちゃん、なんてことを言うの」と言ったわたくしの訝(いぶか)りと驚きを察してか、彼女は問わず語りを始めました。「わたしの夫も、まだ若かったとき、幼い3人の息子を残して亡くなりました。その日がクリスマスイブだったのです。教会では用意してあった飾り付けの上を黒幕で覆って葬儀が行われました。ですから、この日は忘れられませんし、この日が来る度に、『神さま、どうしてこの日に、こんなに悲しまなくてはならないの』と言い続けて来たのです。でも、ある時、わたしの悲しみが天に上って行くのをご存じだったからこそ、神さまは天から、その独り子であるイエスさまを、地上のわたしのところへ遣わしてくださった、それがクリスマスの出来事だと思い至ったのです。そのとき、言い知れない慰めと喜びを覚え、今に至っています。そういうわけで、今、悲しみに満ちているこの若い夫婦にも、いずれこの日が深い慰めの日になるであろうし、神さまが必ずそのようにしてくださることを信じられますから、『今日は嬉しい日です』と言ったのです」。‥‥‥‥                  (『信徒の友』2012年12月号19頁)
 この老齢の女性信徒は、主イエスが、自分のところに、自分の魂の内に泊まりに来てくださったことを信仰によって知ったのです。慰めの「場所」を、喜びの「場所」を与えてくださったことに思い至ったのです。
 もちろん、このおばあちゃんが、悲しみの中にある若い夫婦に、この言葉を直接語ったとは思えません。今、深い悲しみと嘆きの中にいる人にとっては酷(こく)な言葉でしょう。このおばあちゃんも、そういう悲しみの中を、長い間、“どうして”と嘆きながら生きて来たのです。その間は、これが決して受け入れることのできない言葉だと、よく知っているはずです。
 いや、長い時間を経ても、主イエスが自分のところに泊まりに来てくださったと思えない人もいるでしょう。信仰を持っていても、不条理な悲しみは、それほどに人の心に食い込み、傷つけるのです。
 ただ、悲しみの中で、訳も分からず、ぶつける場所(相手)もなく、絶望と虚無(きょむ)しか残らないのではなく、自分の悲しみと不条理への怒りを神さまにぶつけながら、神さまに託しながら生きていけるなら、その人は神さまとの関係において、“生きる場所”を持っていると言ってよいのではないでしょうか。
そういう神さまとの関係性の過程を経て、もしかしたら、主イエス・キリストが自分のために泊まりに来てくださったと思えるようになる時が来るかも知れない。それは、私たちにとって究極の“救い”だと言ってよいでしょう。

 主イエスが「場所」のないところに生まれたのは、この世で生きていく上で安心の「場所」を失った人の苦しみ、悲しみを分かってくださり、その人に、神が共にいてくださる「場所」を、愛の交わりという関係を備えてくださるためだったのでしょう。
 神は愛です。そして、愛のあるところには私たちの生きる「場所」があります。その「場所」で神に愛されて、私たちは互いに愛し合いながら生きていきましょう。

 

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