坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年12月15日 待降節アドヴェント第3主日礼拝  「共にいて導かれる神」

出エジプト記3章1-14節
説教者:野澤幸宏神学生


◆モーセの召命(しょうめい)
3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司(さいし)であるエトロの羊の群れを飼(か)っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
3:2 そのとき、柴(しば)の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧(ごらん)になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物(はきもの)を脱(ぬ)ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆(おお)った。
3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
3:8 それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳(ちち)と蜜(みつ)の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫(あっぱく)する有様(ありさま)を見た。
3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣(つか)わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕(つか)える。」
3:13 モーセは神に尋(たず)ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


                                  「共にいて導かれる神」

アドヴェントクランツに3本目の灯がともり、クリスマスが近付いてきました。クリスマスは、神さまご自身が最も弱い人間の赤ちゃんとしてわたしたちの世界に生まれてくださった日です。その赤ちゃん、主イエスはイスラエル人としてこの世界での生涯を歩まれました。イスラエル民族は、わたしたち人間すべてを救おうとしてくださっている神さまが、救いのモデルとするために選ばれた民です。本日皆さんと共に聴いている聖書のみ言葉は、そのイスラエル民族に対する壮大な神さまの救いのドラマがまさに始まろうとしている、その時の出来事を伝える物語です。
                                                *
紀元前13世紀、イスラエル民族はエジプトで奴隷として生活を送っていました。創世記(そうせいき)の最後に、イスラエル民族の先祖にあたるヨセフがエジプトで大臣として用(もち)いられ、父ヤコブや兄弟たちと共に生活し、世代が移っていくことが描(えが)かれます。出(しゅつ)エジプト記の最初には、今度は時が経(た)ってエジプトの王朝が交代し、イスラエル民族が迫害されるようになったということが記(しる)されています。
モーセが生まれたのは、そのような時代の最中でした。イスラエル民族はヘブライ人とも呼ばれていました。当時のファラオ――ファラオというのはエジプトの王の称号です――はヘブライ人の男の赤ちゃんは皆殺せとの命令を出しました。モーセの母親は生まれたばかりのモーセを3か月の間隠しますが、隠しきれなくなって籠(かご)に入れてナイル川のほとりに置きます。すると、赤ちゃんモーセはファラオの娘に拾われ、王宮でファラオの娘の子として育てられることになったのです。
その間も、イスラエル民族はエジプトで過酷(かこく)な労働を強(し)いられていました。大きくなったモーセは、ある時、同胞であるヘブライ人がエジプト人にいじめられているのを見て、ヘブライ人を助けようとしますが、そのためにエジプト人を殺してしまうのです。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセはミディアンの地に逃げるのです。ミディアンはアラビア半島北西部の地域を指(さ)します。そこでその地の祭司(さいし)の娘と結婚し、羊飼(ひつじか)いとして生活することになりました。
これが、今日の聖書の物語に至るまでのあらすじです。そして、モーセがミディアンで羊飼いとしての生活をしている最中、ついに神さまはイスラエル民族の苦しみの声を聞き、救いのご計画が動き出すのです。十戒(じゅっかい)の前文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した主である」とあります。旧約聖書の民、イスラエル民族にとって、エジプトでの奴隷状態から解放してくださった神さまであるということが、他(ほか)の神ではない自分たちの神さまなのだと、神さまを信じる上で一番大切なことだったのです。そしてそのエジプト脱出の出来事は、モーセが神さまによって召されたこの出来事から始まるのです。
           *      
モーセが羊の群れを連れて神の山ホレブにやってきた時、不思議な光景を目にします。それは、燃えているのに燃え尽きない柴(しば)の木でした。「ホレブ」という山の名前は、乾ききったところという意味があります。水分が極端に少なく気温の高い砂漠地帯では、立っている木が自然発火すること自体は珍しくないようですが、燃え尽きないのは明らかに普通ではありません。日本語では、燃えている炎の擬音(ぎおん)は「ボーボー」と表現しますが、ヘブライ語では「モシューモシュー」と表現します。モシューとモーセ、なんとなく似ていますよね。モーセは、炎の燃える音に自分が呼ばれていると感じ、近付いたのかも知れません。しかし、その音は、単なる炎の燃える音ではありませんでした。聞き間違いではなく、紛(まぎ)れもなくモーセの名を呼ぶ、神さまの声だったのです。
ここでモーセは、「道をそれて」その光景を見に行きます。今、自分が歩んでいる道を、自分が自分の判断でそれでよいと思って歩んでいる道筋をそれて、神さまが用いてくださる道へと歩みが変わった瞬間です。「モーセ、モーセ」と呼び掛ける神さまの声に、モーセは「はい」と応えます。短い言葉の中に「わたしはここにいます。お話を聞く覚悟が出来ています。」というモーセの意志が込められています。
            *
7節で神さまは、「彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言います。痛みは、現代の進んだ医学でも数値化(すうちか)することは出来ません。わたしたち人間は、どんなに共感しようとしても人の痛みはその人にしかわからないのです。しかし、神さまはそのようなわたしたちの常識を遙(はる)かに超えておられます。人の痛みを知った、というのです。単に共感するだけではありません。本当に痛みを知ってくださっているのです。人の痛みを知るからこそ、そこに関(かか)わり、共にいてくださるのです。人間には出来ないことです。神さまが神さまである所以(ゆえん)と言ってもよいでしょう。
そしてその神さまは、モーセに、痛みに喘(あえ)ぐ人々を導き出せと命じられます。痛みを強(し)いる強大な国家権力の象徴(しょうちょう)、エジプトの国から、神さまが用意してくださる「乳(ちち)と蜜(みつ)の流れる地」へと連れ出すのだ、と。これを聞いたモーセの方は、とてもそんなことは出来ないと考えます。「わたしは何者でしょう」というモーセの応答(おうとう)は「わたしは誰?」という問いです。事実、この時モーセは自分が根本的な意味で何者であるのか、分からなかったのだと思います。彼はこの時、羊飼いとして生活してはいましたが、そもそもは逃亡生活を送っていたのです。同胞(どうほう)であるヘブライ人を助けるためとはいえ、エジプト人を打ち殺してしまった殺人者なのです。その罪を責め立てられ、怯(おび)え、逃げるしかなかった弱い存在です。たった一人のヘブライ人さえ救えない自分が、エジプトにいる多くのヘブライ人を救い出す力を持っているはずがないと、自信を持てなかったのです。
しかしそのモーセに神さまは応(こた)えます。「わたしは必ずあなたと共にいる」「わたしはある」という者だ、と。神さまは「いる」「ある」というお方なのです。存在そのものなのです。存在そのものである神さまから、自分が誰であるか分からないモーセは存在理由を与えられるのです。そこにいることの意味を与えられるのです。神さまは、世界の全てを作り出した創造の力、「わたしはある者だ」という圧倒的な絶対存在肯定の力をもって、モーセに関わり、救いの始まり、エジプト脱出の指導者として用いてくださるのです。
          *
 そしてそれは、モーセだけではありません。クリスマスの時に読まれる福音書(ふくいんしょ)の物語の中にも、そのことは表れています。主イエスの母、マリアも主イエスをその胎(たい)に宿すまでは、何者でもない普通の少女でした。しかし、そのマリアは、神の母として用(もち)いられます。神さまご自身である主イエス・キリストが、わたしたちと同じ人間としてこの世にお生まれになるために、マリアの胎に宿ったのです。そして聖書は主イエスについて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」「この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と告げます。インマヌエル、神は共におられる。のです。
わたしたちすべての人間は、モーセと同じく、「わたしは誰?」と自分の存在理由を問いながら生きています。そのような、自分が何者なのか分からない、きっと何者でもないわたしたちすべての人間に、神さまは「わたしはある」という自己紹介のみ言葉を通して、その存在肯定(そんざいこうてい)の力で迫ってきてくださいます。必ず共にいてくださるのです。わたしたちすべての人間を、その人の自信や能力に関係なく、神さまご自身の救いのご計画の中で、最も良きところで用いてくださるのです。神さまが私たちと共にいてくださる、そのことを最も覚える時期が、今の時期、クリスマスを待ち望むアドヴェントの時ではないでしょうか。クリスマスは、「わたしはある」という存在肯定の神が、共にいてくださることを確認する喜びの時です。わたしたちと共にいて、わたしたちを導いてくださる神さまにお委(ゆだ)ねし、感謝して、この日々を歩んでいきましょう。

 

記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/
インスタグラム http://www.instagram.com/sakadoizumichurch524/