坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年12月22日 アドヴェント第4主日 クリスマス礼拝説教「探し当てる喜び」

聖書 ルカによる福音書2章8~20節
説教者 山岡創牧師

        <羊 飼い と 天使 >
8 その 地方 で 羊 飼い たち が 野宿 を し ながら、 夜通し 羊 の 群れ の 番 を し て い た。 9 する と、 主 の 天使 が 近づき、 主 の 栄光 が 周り を 照らし た ので、 彼ら は 非常 に 恐れ た。 10 天使 は 言っ た。「 恐れる な。 わたし は、 民 全体 に 与え られる 大きな 喜び を 告げる。 11 今日 ダビデ の 町 で、 あなた がた の ため に 救い主 が お 生まれ に なっ た。 この 方 こそ 主 メシア で ある。 12 あなた がた は、 布 に くるまっ て 飼い葉 桶 の 中 に 寝 て いる 乳飲み子 を 見つける で あろ う。 これ が あなた が たへ の しるし で ある。」 13 する と、 突然、 この 天使 に 天 の 大軍 が 加わり、 神 を 賛美 し て 言っ た。 14「 いと 高き ところ には 栄光、 神 に あれ、 地 には 平和、 御心 に 適う 人 に あれ。」 15 天使 たち が 離れ て 天 に 去っ た とき、 羊 飼い たち は、「 さあ、 ベツレヘム へ 行こ う。 主 が 知らせ て くださっ た その 出来事 を 見よ う では ない か」 と 話し合っ た。 16 そして 急い で 行っ て、 マリア と ヨセフ、 また 飼い葉 桶 に 寝かせ て ある 乳飲み子 を 探し当て た。 17 その 光景 を 見 て、 羊 飼い たち は、 この 幼子 について 天使 が 話し て くれ た こと を 人々 に 知らせ た。 18 聞い た 者 は 皆、 羊 飼い たち の 話 を 不思議 に 思っ た。 19 しかし、 マリア は これら の 出来事 を すべて 心 に 納め て、 思い 巡ら し て い た。 20 羊 飼い たち は、 見聞き し た こと が すべて 天使 の 話し た とおり だっ た ので、 神 を あがめ、 賛美 し ながら 帰っ て 行っ た。

 

                 「探し当てる喜び」
 “この世の終わりが来た!”。本当にそう思いました。空が一面、真っ赤だったのです。20歳過ぎの頃だったでしょうか、早朝、目が覚めて、カーテンを開けて外を見たら、空一面が真っ赤だったのです。生まれて初めて見る光景でした。私は、天変地異か何かが起こったのだと本気で思って、両親が寝ている部屋にかけ込みました。必死で何かを訴える私に、親は“それは朝焼けだ”と、あきれながら教えてくれました。
 朝焼け‥‥‥その日は一面、曇り空で、日の出の太陽の光が空一面の雲に反射して、真っ赤になっていたようです。今、考えれば、間抜けな笑い話ですが、今日の聖書の御(み)言葉を黙想しながら、私はふと、あの時見た朝焼けの光景を思い起こしました。
聖書は、野宿している羊飼いたちのところに天使が現れた時、「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9節)と記しています。主の栄光、その光を見て、彼らは、私が朝焼けを見て恐れたように、恐れたのです。
ところが、その栄光の光に気づいたのは、どうもその一帯で羊飼いたちだけだったようです。どうしてでしょう?スポットライトのように、そこだけが照らされたからでしょうか?いやいや、この後、天使の大軍が現れて、神を賛美したというのですから、空一面が栄光の光に輝いていたはずだと思うのです。けれども、夜空に照り輝く、天変地異とも思われるような光の光景に、羊飼い以外のだれも気づいていないのです。
あの日の朝、私が見た朝焼けは、同じ地域に住んでいて、同じ時間に目を覚まし、窓を開いた人は皆、目にしたことでしょう。けれども、クリスマスの夜に輝いた主の栄光を見た者は羊飼いたちだけでした。いったいどうしてでしょうか?それはきっと、「主の栄光」というものが、だれでも見ることができるような空模様や現象ではなかったからではないでしょうか。

 「主の栄光」、それは肉眼ではなく、“信仰の目”で見ないと見えない光なのでしょう。いや、信仰があっても、私たちは時々、眠ってしまうようなことがあります。目を開いて、その光を本気で求めなければ、見えない光なのかも知れません。
 私はふと、自分は、この羊飼いたちのように「主の栄光」を見ただろうか?と考えてみました。この聖書の御言葉を通して、このアドヴェントの期間に、特にこの1週間に、今日の聖書の御言葉を黙想しながら、自分は「主の栄光」を見ただろうか?‥‥‥見ていないと思いました。自分が見るよりも、皆さんに見せることばかりを考えて、どうやって上手に説教しようかとばかり考えている自分にハッとさせられました。一人のクリスチャンとして、自分が、この「主の栄光」を見るためには、どうすればよいのかを考えようと思いました。
 まず天使の言葉を聞くことだと思いました。「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」(11節)というお告げを、自分も羊飼いの一人になって、“私”のために救い主がお生まれになった、と受け止めるのです。“だれか”に語られた言葉としてではなく、“私”に語りかけられた救いの言葉として聴くのです。
 もちろん、天使の言葉なんて、現代人である私たちは今、聞くことはできません。けれども、天使の言葉に代わる言葉があります。聖書の御言葉です。聖書を通して、天使のお告げを、神の言葉を、私たちも聞くことができます。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。今日の御言葉ばかりではありません。自分で聖書を読んで、また語られる聖書の御言葉を聞いて、その一つ一つを、神さまから自分に語りかけられた言葉として受け止め、神さまは自分に何を求めておられるのか考えてみるのです。

 そのように聖書の御言葉を受け止めると、何が起こるでしょうか?私たちの内に、神の言葉に従おう、という姿勢が生まれてくるのではないでしょうか。同じルカによる福音書1章で、天使の言葉に対して、マリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1章38節)と応えたように、神の言葉に従おうとする思いが生まれてくるでしょう。
 羊飼いたちは、天使のお告げを聞き、「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(12節)と言われた言葉に、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)と話し合って出かけました。つまり、神の言葉に従って動いたのです。そしてその結果、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(16節)のです。「大きな喜び」(10節)を、「救い主」(11節)を探し当てたのです。
 聖書の御言葉を“私”への言葉として聴き、神さまから何が語りかけられているのかを考え、その言葉に従って生きる。その時、感じる感謝、味わう慰め、与えられる希望、包まれる平安、気づかされる大切なこと、そして愛されていると信じられる喜び、神が共にいてくださると信じられる確信‥‥‥それこそが、「大きな喜び」であり、救いです。そしてそれは、神の言葉に従って生きる時に、探し当てることができるものです。

 ところで、羊飼いたちは、どこで乳飲み子を探し当てたのでしょうか?どこに「救い主」を探し当て、「大きな喜び」を見つけたのでしょうか?2章7節にもあるように、ベツレヘムへと旅をして来たヨセフとマリアには、宿屋に泊まる場所がなく、生まれた乳飲み子を飼い葉桶に寝かせました。そのことから、その場所は家畜小屋だったと想像されています。それは、民家の隣に、あるいは土間の一部にあるような小さな家畜小屋ではなく、郊外の丘陵地帯にある洞穴を利用した家畜小屋だったという説もあります。そこはもしかしたら、羊飼いと羊たちの家畜小屋だったのではないかと私は想像します。そして、野原から戻って来た羊飼いたちが、自分たちの家畜小屋に泊まり、出産したマリアとヨセフを、そして布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけたのかも知れないと考えたりします。
 もしそうだとすれば、羊飼いたちは、いつも通りの日常的な生活の中に、「救い主」を探し当てたことになります。何か特別な出来事や、特別な場面の中に「救い主」を見つけたのではなく、何の変わりもない日常生活の中に見出したのです。平凡な一日一日、そこには期待や楽しみ、また悩みや悲しみ、苦労もあるかも知れない。そういう日常生活の中で、神の言葉に聞き従って生きる時、私たちは、そこにある「大きな喜び」に気づかされ、「救い主」を探し当てるのです。
 いわゆる成功とか、幸せな生活を“救い”と考えている人にとっては、信仰によって探し当てる救いなんてものは、確かに「不思議」(18節)であり、探しに行こうとも思わないことでしょう。けれども、神の言葉に聴き、従って生きる信仰によって、「大きな喜び」に気づかされ、味わった人にとって、その救いはリアルです。真実です。

 一人の高校生の女の子が教会に来るようになり、熱心に求道を始めました。家庭の様子も次第に分かり、既に母親は亡くなっていて、父親と二人暮らしだということも分かりました。求道を始めてしばらく経ったある日、彼女は真剣に、“先生、救われるためにはどうしたらよいのでしょうか”と尋ねました。“主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます”と率直に答えました。すると、彼女は驚いたように、“主イエスを信じたら自分だけでなく、父も救われるのですか。それはすばらしい”と瞳を輝かせて言いました。やがて彼女が洗礼を受けた後、父親も一緒に礼拝に来るようになり、やがて洗礼へと導かれクリスチャンになりました。その父親がある時、こう言いました。“メンタルの面で弱さを持っているこの子に自分が光を与えてやらなければと思っていたが、信仰に目覚めたこの子が自分にとって光となりました”。
 既に天に召された内藤留之という牧師先生が、『信徒の友』という冊子の中に書かれていたことです(『信徒の友』2015年9月号13頁)。主イエスを信じ、御言葉に聴き、救いを求めて生活した時、女の子もお父さんも、救いを探し当てたのです。その時、自分を照らす「主の栄光」が見えたのだと思います。

 私は今日、御言葉によって救いの喜びを再確認させていただきました。そして、このクリスマスの日から、改めて救いを探し当てるために、新たな思いで、信仰を持って生きる日常生活に出かけようと思いました。御言葉に聴き従い、祈りを持って生活していく時、日常の生活の中で「大きな喜び」に出会うことができる。“私”を愛し、“私”の罪のために死んでくださり、“私”と共にいてくださる救い主イエス・キリストに出会うことができる。神の愛を見つけることができる。そして、キリストに出会うその日その時こそが、そのような一日一日が、私たちにとって真実のクリスマスとなるに違いありません。
 皆さんも今日、救いの恵みを再確認し、また既に信仰を持っている方も、求道中の方も、ここから、大きな喜びを、救い主キリストを探し当てる新しい一年の歩みへと出かけてください。

 

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