坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2019年1月13日 主日礼拝説教「人が一つになる」      

聖書 ヨハネによる福音書10章16〜21節
説教者 山岡 創牧師 

10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」


          「人が一つになる」
 教会の事務室に、小さなパネルの絵が飾られています。事務室にほとんど入ったことがない方もおられるでしょうから、見たことがない人もいると思いますが、主イエス・キリストが羊の群れの先頭に立って導いておられる絵です。10章4節の御(み)言葉「(羊飼いは)自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」を、そのまま描き表したような絵です。
 主イエスが生きていたユダヤ人社会では、羊の放牧が身近な光景でした。だから、旧約聖書においてもしばしば、神と民の関係が、羊飼いと羊(の群れ)の関係にたとえられています。10章において、主イエスはご自分を「良い羊飼い」にたとえました。そして、主イエスを救い主と信じたクリスチャンたちを羊とその群れにたとえています。
 さて、今日の聖書箇所に「この囲い」という言葉が出て来ました。羊の群れを放牧から連れ帰って来て、入れておく囲いのことです。狼や強盗から羊を守る囲いです。そして、この「囲い」とは、ヨハネの教会を指しています。主イエスという「羊の門」、救いの門を通って入るヨハネの教会です。
 けれども、主イエスは今日の聖書箇所で、こう言われました。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(16節)。
ヨハネの教会という「囲いの中に入っていないほかの羊」とは、他の教会に属しているクリスチャンたちのことです。そういう教会とクリスチャンの存在を、主イエスは、いやヨハネの教会が意識していました。そして、「その羊をも導かなければならない」ということは、それらの教会とクリスチャンたちを否定せず、認めているということです。共にキリストを信じ、キリストを宣べ伝える教会として認めていたということです。

当時の教会の中にも、様々な流れがありました。新約聖書の中に使徒言行録という書があります。キリストが復活し、天に昇られた後、遣(つか)わされた弟子たち(使徒と呼ばれた)がキリストを宣べ伝え、信じる人々が起こり、教会が生み出されていった記録です。
この使徒言行録を読んでみると、様々な人々がキリストを宣(の)べ伝え、教会が生み出されていったことが分かります。ペトロが宣べ伝え、フィリポが宣べ伝え、バルナバが宣べ伝え、パウロが宣べ伝え、アポロが宣べ伝えています。この他にも様々な人がキリストを宣べ伝えています。最初はユダヤ人に、その後、ローマ帝国内の異邦人にキリストが宣べ伝えられ、各地に教会が生み出されていきました。使徒言行録には記されていませんが、ヨハネの教会も、ヨハネの教えを引き継いだ、そういった教会の一つだったと思われます。
当時の教会にはまだ、主イエス・キリストを信じる信仰についてまとまった教えはありませんでした。教会の間で正典としての聖書が生み出され、使徒信条のような統一された信条、信仰告白がつくられたのは、だいぶ後になってからです。そのため、当時の教会では、信仰について信じ方にズレや違いがありました。特に、神の掟である律法を守って来たユダヤ人クリスチャンと、そうでない異邦人クリスチャンの間には、律法を“行う”ことが救いの条件になるかどうかという点で、信仰に大きな開きがありました。
キリストを信じる信仰に違いがあるというのは、教会同士が協力していくには、なかなか難しい問題です。明らかに間違った教え、違う教えは論外としても、違いやズレについて、“ここまでは正しい信仰”“ここからは間違った信仰”と、どこで線引きをして、どこまでを許容範囲とするか、これは教会によっても、クリスチャン個人によっても考え方が違うのです。
だから、じっくりと話し合って、人の思いではなく、神の御心(みこころ)を祈り求めて、信仰の教えを定めていかなければなりません。先ほどお話したユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間の信仰の違いについても、異邦人教会の代表としてバルナバやパウロ、その他の人々が“本山”とも言うべきエルサレム教会に上り、ペトロをはじめ、エルサレム教会の代表者たちと信仰について協議をしました。そして、異邦人クリスチャンにおいては律法を守り行うことを救いの条件とはしないことが確認されたのです(使徒言行録15章)。その後も、教会は信仰について協議を続けました。そのようにしてできたのが、信条であり、正典としての聖書です。特に、私たちも礼拝において告白する使徒信条は、教会の歴史において最古の信条と言われています。そのように、教会は、信条と聖書という、信仰の教えについて“最大公約数”とも言える基準を生みだして、一つになろうとしていったのです。
 もちろん、ヨハネによる福音書が書かれた当時、そのような信条や聖書は、まだありませんでした。ヨハネの教会は、キリストの“愛”の教えを大切にした教会ですが、キリストを信じる信仰について強調点が違ったり、律法の問題が絡(から)んだり、様々な信仰のタイプの教会がありました。そういった違いを、一つにはなれない“違い”と見るか、それとも一つである中の“多様性”と捉えるか、そこに、その教会の信仰のセンスが、その人の信仰のセンスが現れると私は思うのです。
 ヨハネは、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)と語っています。私は、この言葉から、ヨハネの教会は「一つ(の群れ)になる」ということについて、センスを持った教会だと感じます。
 “一つ”ということは、“同じ”ということではありません。私たちはともすれば、一つということを“同じ”という意味に取ってしまうことがありますが、それは間違いだと思います。同じにならなければならないと考えると、画一性を生み、自分と同じでないものは否定し、取り除こうとする排他性を生みます。その考え方で進むと、許容範囲はどんどん狭くなり、グループをどんどん小さく分割していくことになり、一つにはなれません。
 一つというのは、多様性の中の“一致”です。一人ひとりに違いがあり、グループや集団の間にも違いがある。それを多様性として認め、お互いに受け入れ合い、グループを豊かにする要素として、キャパシティを広げる要素として喜ぶ。それが、一つになるということです。
 別の言葉で言えば、それが“平和”の本質です。同じを求めようとするところには、平和は生まれない。多様性を認め、お互いに受け入れ合うところに平和は生まれます。

 そのように一つとなることを実現するためには、何が必要なのでしょうか?それは、「命を捨てる」(18節)ということです。
 10章11節以降、今日の聖書箇所にも、命を捨てるという主イエス・キリストのみ言葉が何度も出て来ました。これは、キリストが、人の罪、私たちの罪、全世界の罪を贖(あがな)うために、十字架に掛かり、ご自分の命を犠牲にされたということです。人が神を見失い、自分勝手に生きたために、神との間に、また隣人との間にできてしまった裂け目を繕(つくろ)うために、キリストがご自分の命をお献げになったということです。
 それは、角度を変えて言えば、キリストが、罪人(つみびと)である私たちを受け入れるために、ご自分を捨てたということではないでしょうか。もしキリストが私たちに、ご自分と“同じ”を求めたとしたら、ご自分と同じように神の御心に適うことをお求めになったとしたら、私たちは同じになれず、否定され、排除されるほかなかったでしょう。
けれども、キリストは、ご自分と同じに、という考えを捨ててくださったのです。ご自分と違い、神の御心に適わない罪人、意志の弱い私たちを、ご自分の考えを捨てて、そのままで受け入れてくださったのです。それは、別の言葉で言えば、“愛”です。罪人を赦(ゆる)して、受け入れる神の愛です。
この神の愛を、私たちは信じています。キリストが命を捨てることによって表わしてくださった神の愛を、私たちは信じて、クリスチャンとして生き、教会という交わりを営んでいるのです。一つになることを、平和に生きることを目指す交わりを営んでいるのです。そのためには、キリストが命を捨てるまでにご自分を捨てたように、私たちも“自分と同じに”という考えを捨てなければなりません。自分を捨てて、違いを認め、多様性を認め、人を受け入れることが必要です。自分を捨てること、すなわち“愛”が必要です。愛のあるところ、私たちは一つとなり、平和が生み出されるのです。

 愛をもって、この囲いに入っていない羊を導き、受け入れ、一つとなる。それが、キリストを通して示された神の御心です。私たちは、“自分の囲い”という守備範囲を、自分の考えで狭めがちですが、愛によって囲いを少しでも広げていければと思います。
 「囲い」というものを教会という視点で考えれば、私たちはどうしても自分の教会のことだけを考えがちです。自分の教会のことを考えるのは当然ですが、けれども坂戸いずみ教会以外にも多くの教会があります。それらの教会にも目を向け、つながり、協力できればと思います。
 坂戸いずみ教会は毎年、夏に、埼玉2区にある近隣7〜8つの教会と小学生の合同キャンプを行います。他の教会の方々と協力し、一つの働きを共にする、とても良い機会となっています。そこに参加する子供たちのことも、他の教会の子どもたちと言うよりも、一つの囲いの中に、一緒にいる子供たちとして見ることができる恵みがあります。
 明日は、埼玉地区新年合同礼拝があります。今年は埼玉1区、2区、3区と3つに分かれて、私たちは2区19教会・伝道所の方々と埼玉和光教会で、共に礼拝をします。私たちの教会はCCスタッフを中心に、礼拝の中で聖書劇を演じる役割を担っています。坂戸いずみ教会という「囲い」の外の方々と礼拝を共にし、一つになる良い機会、自分の教会という「囲い」の意識を広げる良い機会です。
 また、「囲い」というものをもっと広い見方で考えれば、キリストの教会とそこに属するクリスチャンだけが、私たちにとってキリストの囲いなのではなく、キリスト教を信じていない多くの人々も、教会という囲いの外にいる羊として、すなわち神さまによって造られた“人間”として、神さまの愛の対象なのだと言うことができるでしょう。神さまは、私たちのようにケチな分け隔てはせず、クリスチャンであろうとなかろうと、人を救うために、この世界において自由に働かれるのです。神さまにとっての「囲い」とは、この世界そのものだと言うことができます。その意味で、私たちは、どんな人をも愛すべき隣人と見て、愛する道を模索していくことが求められていると思います。
 神さまの囲いは広い!その愛の中で、人と共に生きることを目指して進みましょう。


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