坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年1月5日 主日礼拝説教         「人生を悟る時」

聖書 ヨハネによる福音書16章4~15節
説教者 山岡創牧師

 

      <聖霊の働き>
「初め から これら の こと を 言わ なかっ た のは、 わたし が あなた が た と 一緒 に い た からで ある。 5 今 わたし は、 わたし を お 遣わし に なっ た 方 の もと に 行こ う と し て いる が、 あなた がた は だれ も、『 どこ へ 行く のか』 と 尋ね ない。 6 むしろ、 わたし が これら の こと を 話し た ので、 あなた がた の 心 は 悲しみ で 満たさ れ て いる。 7 しかし、 実 を 言う と、 わたし が 去っ て 行く のは、 あなた がた の ため に なる。 わたし が 去っ て 行か なけれ ば、 弁護 者 は あなた がた の ところ に 来 ない からで ある。 わたし が 行け ば、 弁護 者 を あなた がた の ところ に 送る。 8 その 方 が 来れ ば、 罪 について、 義 について、 また、 裁き について、 世 の 誤り を 明らか に する。 9 罪 について とは、 彼ら が わたし を 信じ ない こと、 10 義 について とは、 わたし が 父 の もと に 行き、 あなた が た が もはや わたし を 見 なく なる こと、 11 また、 裁き に つい てとは、 この世 の 支配 者 が 断罪 さ れる こと で ある。 12 言っ て おき たい こと は、 まだ たくさん ある が、 今、 あなた がた には 理解 でき ない。 13 しかし、 その 方、 すなわち、真理 の 霊 が 来る と、 あなた がた を 導い て 真理 を ことごとく 悟ら せる。 その 方 は、 自分 から 語る のでは なく、 聞い た こと を 語り、 また、 これから 起こる こと を あなた がた に 告げる からで ある。 14 その 方 は わたし に 栄光 を 与える。 わたし の もの を 受け て、 あなた がた に 告げる からで ある。 15 父 が 持っ て おら れる もの は すべて、 わたし の もの で ある。 だから、 わたし は、『 その 方 が わたし の もの を 受け て、 あなた がた に 告げる』 と 言っ た ので ある。」

 

          「人生を悟る時」
 「罪」と「義」と「裁き」、今日の聖書の8節以下に記されています。典型的なキリスト教の専門用語です。例えば、この三つについて、人から“どういう意味ですか?”と聞かれたら、スラッと答えることができず、ドギマギしてしまうかも知れません。難しい言葉です。皆さんなら、どうお答えになるでしょうか?
 けれども、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)は、意外に簡単に答えています。特に「罪」についての答えは単純です。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(9節)。罪とは、イエス・キリストを信じないことだと言うのです。単純明快で、分かりやすい。
 でも、“ちょっと待ってよ”と、突っ込みを入れたくなります。罪とは、イエス・キリストを信じないこと、と言われて、クリスチャンは納得するかも知れません。けれども、ノン・クリスチャンの人(信じていない人)は“何じゃ、そりゃ?!”と思うのではないでしょうか。そして、“イエス・キリストを信じなければ罪だって!それは、クリスチャンの理屈であって、自分の田圃(たんぼ)にだけ水を引き入れようとするようなものだ”と反発するでしょう。フェアに考えたら、私もそう思います。
 キリスト教信仰を伝えていく上で、伝えにくいと感じることの一つは「罪」の理解です。神さまと向かい合って生きることがほとんどない日本人にとって、“罪”と言えば、自分たち人間が定めた法律を犯し、破ることだと考えています。神さまとの関係で罪を考える精神的な文化がないのです。だから、礼拝説教で“あなたも罪人です”などと言われれば、“自分は罪人ではない”と反発したくなるでしょうし、仮に“罪”について理解したとしても、それをハートで感じるかどうかは、また別問題です。日本人に伝えようとする場合、もう少し一般の方でも納得できるような捉え方、語り方はないものかと、いつも苦心します。

 イエス・キリストを信じないことが「罪」かどうか、という問題はひとまず置いて、昨年10月に、大きな台風被害を受けた特別養護老人ホーム・キングスガーデン川越で、こんなエピソードがあったそうです。前施設長の児島康夫さんが『夕暮れ時のあったか噺』という著書の中で書いておられます。


 Yさんという入所者の方がいました。事実は小説よりも奇なり、と言えるような人生を経験して、それによって強い信念と根性をお持ちの方だったようです。それが時々、顔を出すことがあったそうです。
 Yさんの長男はキングスガーデンの協力牧師で、ある時、“お母さんもそろそろ洗礼を受けたらどうですか?”と勧(すす)めると、“そういうことは人に言われて受けるのではなく、自分で決める”と、いつになく強い調子で突っぱねたといいます。
そんなことのあった数日後、Yさんは、心筋梗塞(しんきんこうそく)で血圧が下がり、危篤(きとく)状態になりました。家族がかけつけると、Yさんは、大きく目を開き、“洗礼を受ける”と言われました。
 すでに夜も更(ふ)けていましたが、急きょ洗礼式が執(と)り行われました。洗礼を授ける前に息子である牧師は形どおりの質問をしました。
「あなたは天地の創り主、生けるまことの神を信じますか?」。Yさんは神妙に「はい、信じます」と誓約されました。「あなたは神の子イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いによって救われたことを確信しますか?」。「はい、確信します」。
そこまではよかったのですが、次の質問で小さなハプニングが起きました。
「あなたはこれからキリストの僕としてふさわしく生きることを願いますか?」。「さあ‥‥、それはどうかな?」。そこにいた一同、目が点になるほどぎょっとしましたが、牧師は優しく「先のことは分からないけど、そう願いましょうね」と言うと、Yさんは素直にうなずかれました。‥‥‥翌日、Yさんは晴れやかに「13日の金曜日に洗礼を受けるとは私はやっぱり変わっているね」と冗談を言っていましたが、長年の胸のつかえがおりたようで、穏やかなお顔でした。それからちょうど一週間後の4月20日の夕、Yさんは静かに息を引取られました。‥‥(前掲書3~5頁、Yは説教者による変更)


 Yさんが、イエス・キリストを信じないことが罪だと考えていたかどうかは分かりません。ただ、Yさんが、胸のつかえがおりたように穏やかな顔をしていたというのは、自分の内に“何か”を受け入れたからではないでしょうか。その受け入れたものとは、今日の聖書の言葉を借りて言うとしたら、「真理」(13節)というものではないかと私は思うのです。

 主イエスは、最後の晩餐(ばんさん)の席上で、弟子たちに言われました。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(12~13節)。
 「真理の霊」とは、7節以下で出てきた「弁護者」のことなのですが、それはさて置き、「真理」とは、どんなことでしょうか。それを考えるヒントとして、主イエスが、ヨハネによる福音書14章6節で語られた御(み)言葉を取り上げます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
 この御言葉から、こんなふうに考えて良いでしょう。「真理」とは、父なる神さまのもとに、すなわち天国に行きつくための道を指し示す道しるべであり、また命の本質だと言うことができるでしょう。もう少し簡単に言えば、主イエスは「真理」そのもの、イエス様の生き方を見れば、「真理」が分かる。イエス様に倣(なら)い、従ってゆけば、真理に立った生き方をして、天国に達することができる、ということでしょう。
 では、主イエスはどのように生きられたのでしょうか?ずばり、父なる神さまに愛されていることを信じ、神の愛の下、生かされるままに、自分を生きた方だと思うのです。その信仰と生き方とが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)の弟子たちへの教えに集約されていると言ってよいでしょう。つまり、私たちは神さまに愛され、生かされている、ということが「真理」であり、その「真理」を受け入れて、自分を受け入れ、自分の命を活かし、愛を重んじて生きていく。それが「道」であり、「命」である、ということではないでしょうか。

 神さまに愛され、生かされている。その「真理」を信じて受け入れると、私たちの生き方はどのように変わるのでしょうか?アンジェラ・エルウェル・ハントという人が書いた『3本の木』という物語から、少しお話をさせてください。


 ある山の頂に、3本の木が育っていました。3本の木にはそれぞれ、夢がありました。最初の木は、“ぼくは宝石や宝物を抱えるのが大好きだ。だから、世界一美しい宝物の箱になるんだ”と言いました。2番目の木は“ぼくは強い帆船になりたい。世界中でいちばん頑丈(がんじょう)な帆船になるんだ”と夢を語りました。“わたしはこの山から動きたくないわ。やがて、わたしの背丈が伸びて、人々が梢を見上げるとき、天に目を向けて、神様のことを考えてほしいの。だから世界中で一番背の高い木になるつもりよ”、3番目の木はそう言いました。
 やがて、ある日、3本の木は切り倒されて、運ばれました。最初の木は、自分の夢がかなうと大喜びでしたが、大工によって作られたのは、家畜のえさを入れる木箱でした。2番目の木は、頑丈な帆船ではなく、ありふれた漁船になりました。3番目の木は、角材に加工された後、材木小屋に置き去りにされました。3本の木はがっかりし、こんなはずじゃないと納得できませんでした。それから、長い年月が過ぎました。
 けれども、ある夜のこと、一人の若い母親が生まれたばかりの赤ちゃんをあの動物のえさ箱の中に寝かせたとき、黄金に輝く星の光が、そのえさ箱の上に、きらきらと降り注ぎました。その時、最初の木は、はっとして、自分は世界で一番たっとい宝物を抱いているのだと、気づくのです。
 ある夕暮れ、疲れた旅人とその仲間たちが大勢で、あの古ぼけた漁船に乗り込んで湖に出ました。まもなく嵐が吹き荒れはじめます。その時、その旅人は両手を広げて、「静まれ!」と嵐に向かって叫ぶと、暴れ狂っていた風は静まりました。二番目の木は、自分が天と地を統治する「王」をお乗せしていることにはっと気づきました。
 ある金曜日の朝、三番目の木は材木置き場から運び出されます。そして、十字架の柱となった自分に、一人の男が釘付けられた時、木は打ちのめされそうになりました。けれども、日曜日の朝、大地が揺れ動き、その男が復活した時、3本目の木は、神の愛がすべてのものを変えてしまったことを悟りました。
 神様の愛で最初の木は美しくされたこと、神様の愛で二番目の木は強くされたこと、そして人々が三本目の木のことを思うときは、いつも神様のことを考えるようになったこと。世界で一番背が高い木であることよりも、そのことはどれほど素晴しいことか。


 このように、この物語は結ばれます。3本の木は、自分が思い描いていたのとは違う歩みをするのですが、ある時に、あるきっかけで、自分が神さまに愛されていて、生かされ、用いられたということを悟るのです。
 私たちも、自分の思い描いているような人生を歩める時もあれば、事、志しと違う人生を歩む時もあります。思いがけない出来事に翻弄(ほんろう)され、こんなはずではなかったと苦しみ、悲しむ時もあります。
 では、そこに神の愛はないのでしょうか?神は私たちを生かしてくださらないのでしょうか?そうではありません。順境の時も、逆境の時も、どんな時でも、神さまは私たちを愛し、生かしてくださっている。それが、変わることのない「真理」です。そして、その真理を最もよく知っておられるのが、主イエス・キリストです。主は捕らえられ、裁かれ、十字架に架(か)けられる時にも、この「真理」を信じて、神の愛の下に、神さまが生かしてくださるままに、愛をもって“自分”を生き通されました。

 その主イエス・キリストが言われます。
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。
 あの時、分からなかったことが、今、分かる。今、分からないことを、いつかやがて悟る時が来る。そういうことが私たちの人生には少なからずあります。それが、十字架に架けられ、復活して天に昇られた主イエスが、「真理の霊」を送り、「真理」を悟らせてくださる時です。
 弟子たちも、主イエスが去って行かれた時(十字架で死なれた時)、ただ悲しみと絶望に包まれました。けれども、「弁護者」「真理の霊」によって、主イエスの十字架には、自分たちの罪を償い、弁護する意味があること、主イエスの犠牲の死は、命がけで神の愛を証明するものであったことを、後になって悟ったのです。

 私たちは、神さまに愛され、神さまに生かされて、生きている。この「真理」を受け入れられる時が来るように祈ります。この「真理」を受け入れて、どんな時も自分を受け入れ、自分の命を引き受けて生きていきましょう。

 

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