坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年1月19日 主日礼拝            「善い業を行って歩む」

エフェソの信徒への手紙2章1-10節
説教者:野澤幸宏神学生


◆死から命へ
2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過(あやま)ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯(おか)して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、肉や心の欲(ほっ)するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活(ふっかつ)させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈(いつく)しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現(あらわ)そうとされたのです。

2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物(たまもの)です。
2:9 行(おこな)いによるのではありません。それは、だれも誇(ほこ)ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業(わざ)のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


         「善い業を行って歩む」        

本日のみ言葉は、いきなり1節で「あなたがたは…死んでいたのです」と、ドキッとするような言葉で始まります。この手紙を記(しる)した使徒(しと)パウロにとっては、人間が神さまから離れている状態、罪の状態は、生きていながら死んでいるのに等しい状態だと考えていたのです。聖書は、罪を死に向かう力として捉(とら)え、命の源である神さまから離れている状態と捉(とら)えます。罪と訳されている言葉を直訳すれば、「的外れ」という意味になります。神さまという的(まと)の中心を射抜いていないのが、わたしたち人間の「生まれながら」の状態なのです。そしてそれに対して、救いとは、罪や罪へと招こうとする存在から人間を解放するために神が働いてくださったことを表します。その神さまからの救いに立ち返って生きることを、聖書は繰り返し求め、説いているのです。
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2節にある、「かの空中に勢力を持つ者」という言葉、これは、当時の人々の宇宙観、つまり世界がどのような姿であると考えていたかということに関(かか)わっています。神さまのおられるところは「天」であると聖書は語っていますが、その「天」とここで言われる「空中」は同じものではありません。とある別の日本語訳では、中の空と書いて「中空」となっています。それは、神さまの世界である「天」と、わたしたち人間の世界である「地」の中間にある世界で、ここには私たち人間を神さまから引き離そうとする勢力が存在しているのだと考えられていたのです。つまり簡単に言えば、「悪魔」の領域だということです。
この手紙の後半では、神さまの力が「天」から、その「空中」をすり抜けて、わたしたちの「地上」へともたらされている、主イエスを頭(かしら)とする領域こそ教会であると記し、伝えています。わたしたちはこの地上にあって、教会を通して神さまとつながっているからこそ、この「空中に勢力を持つ者」と何とか戦っていくことができるのです。
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3節にある「肉」とは、聖書においては神さまによって導かれていない状態を象徴(しょうちょう)しています。自己中心な人間のあり方、2節の言葉でいえば、「不従順」な状態ということです。それは「生まれながら神の怒りを受けるべき」状態だったというのです。そのような、罪に「死んでいた」状態のわたしたちを生かすために、主イエス・キリストはわたしたちと同じ人間となってこの世にお生まれになり、そのご生涯の最後に十字架にかかって死んでくださったのです。
神さまは、この十字架で死んだ主イエスを甦(よみがえ)らせました。その出来事は、同時にわたしたちが罪に死んでいる状態から、イエス・キリストの復活と一緒に復活させられたことを示しているのです。それは、主イエスが洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネから洗礼をお受けになったことよっても象徴的に語られています。神の子である主イエスは、罪のないお方、完全に神さまに従順であられる方ですから、罪を洗い清めるためになされていた洗礼者ヨハネの洗礼を受ける必要はなかったはずです。しかし、わたしたち罪ある人間、神さまに対して不従順な状態になっている人間の模範となるために、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたのです。
5~6節では、「キリストと」「共に生かし」「共に復活させ」「共に天の王座に着かせて」と、三度も「キリストと共に~した」という言葉が繰り返されています。主イエス・キリストが、クリスマスに誕生し、イースターに復活された、その事実によってわたしたちは、罪の状態、的外れな状態、不従順の状態から解放され、救いに与(あずか)っていることをこの箇所は力強く証(あか)ししているのです。そしてそのことは、主イエスをキリスト、つまり救い主であると信じて洗礼を受けることによって確認されます。洗礼は、元々、水の中に全身を浸(つ)ける形で行われていました。それは、呼吸が出来ない水中を通ることで、罪ある自分が死んで、神さまに従う自分として蘇(よみが)える、という意味があります。それは、先ほどお話しした、「罪に死んでいる状態から、イエス・キリストの復活と一緒に復活させられ」ることの象徴です。既に洗礼を受けている人は、今日のこのみ言葉に聴く度に、洗礼を受け、キリストを信じ、それによって神さまからいただいた命の新しさを思い起こし、確認させられるのです。
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「肉」にとらわれているわたしたち人間は、「善い業」を行うことは出来ません。そのわたしたちに与えられる善(よ)いものの源は、主イエスをこの地上へとお送りくださった天の父なる神さま以外にはありえないのです。順序は常に神さまが先立っておられます。
この世、つまりわたしたち人間の世界、人間の価値観では、善いことをしたから善いことがあるという因果応報(いんがおうほう)の価値観が当たり前です。しかしそれに対して、神さまの価値観、聖書の語る価値観、キリスト教が伝えてきた価値観では善いことは神さまによって既になされているのだと考えます。わたしたち人間が、神さまの恵みに、救いの御業(みわざ)に応答していないだけなのです。これが、主イエスが2000年前に開き示してくださった価値観であり、2020年となった現在でもなお「新しい」価値観なのです。
そして、この神さまによる善いこと、7節の言葉で言えば恵みという言葉に言い換えてもいいかもしれませんが、神さまの恵みが先にあるということに気付き、信じた人は、自(おの)ずと自分自身から善いことを為(な)していく人、平和を発信していく者へと変えられていくはずです。5章1節で、「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣(なら)う者となりなさい」と言われています。自分の力では、神さまに倣う者になんてなれるはずがありません。だから、わたしたちは日々神さまのみ心を知るために、聖書のみ言葉に触れ、祈っていかなければなりません。
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 この後の3章14節で、「敵意という隔(へだ)ての壁」を壊(こわ)してくださったキリストが証しされます。それは平和創造、平和を実現しようとしてくださる神さまのあり方です。その神さまに倣うものにされる時、神さまを信じる者もまた、平和を作り上げる道具とされていきます。神さまを信じる者は、信じることによって行う者にされていくのです。
ところで、エフェソの信徒への手紙の今日のこの箇所は、福音書(ふくいんしょ)が描(えが)く主イエスの洗礼(せんれい)の物語と一緒によく読まれる箇所でもあります。主イエスの洗礼の物語を伝える福音書を読むと、一つの疑問が湧(わ)いてきます。それは、主イエスはご自身が神の子であり、聖霊と一体のお方であるのに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、父なる神からの「聖霊(せいれい)が鳩のように降(くだ)った」というのは不自然ではないか、という疑問です。
その答えが、今日の箇所に書かれていると言ってもよいでしょう。今日の箇所の前半で描写(びょうしゃ)されているような、人間の罪の状況があったから、主イエスはその人間の罪の状況の中に神さまの愛を伝える業をスタートされる前に、追加で聖霊をいただく必要があったのです。わたしたち人間の常識は「肉の想(おも)い」に囚(とら)われているのだから、その中に「新しい神の価値観」を伝えるためには、神の霊を新たにいただく必要があったからです。
「善い業」は、原典を見ると複数形になっています。英語で言えばgood worksです。主イエスが、洗礼によって新たに神さまの聖霊をいただいて宣教(せんきょう)のご生涯に進んで行かれたように、わたしたちも神さまの霊を新たにいただいて、神さまの「善い業」を神さまと共に成していく者にされていくのです。神さまが全てを導いてくださっていることを知った者は、神さまの救いの業、平和の業に参与していく者にされていくのです。
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そしてそれは、わたしたちが「神に造られたもの」=神さまの作品だからこそ可能であると今日のみ言葉は結んでいます。わたしたちが行う「善い業」は、わたしたちが神さまから出たものであることによってのみ可能であり、徹頭徹尾自分の想いからなされるものではなく、神さまからの、神さまのなしたもう業なのです。根拠は、人間をはるかに超えた、空中の上の天におられる神さまにしかないのです。そのことは恵みです。わたしたちは自分の力で何かを成すのではなく、神さまが成してくださるのですから。神さまに全てをお任(まか)せすればいいんです。何かを行おうとする時、わたしたち現代人は、それに伴って発生する責任を考えて、躊躇(ちゅうちょ)してしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、今日のみ言葉に示された価値観によれば、最後の責任は神さまがとってくださるのです。こんなに心強いことがあるでしょうか。胸の内に与えられる聖霊の導きを信じ、神さまに委(ゆだ)ねて、大胆に、神さまの善い業を神さまと共に行って歩んでいく者にされていきたいと願います。

 

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