坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年1月26日  主日礼拝説教          「平和を得るための勇気」

ヨハネによる福音書16章25~33節
説教者 山岡創牧師


◆イエスは既に勝っている
16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

                            「平和を得るための勇気」
 自分は「ひとりきり」(32節)だ。そういう孤独を感じることがあるでしょうか?孤独というのは、周りに人がいないから感じるとは限りません。むしろ、周りに人がいるからこそ、そして自分が周りと違うからこそ、孤独を感じることもあるのではないでしょうか。
 先日、一人のクリスチャンの方から、次のような話を聞きました。その人のお母さんはクリスチャンでした。けれども、家族がクリスチャンだったわけではありません。その父親は神主であり、神道(しんとう)の家庭であったといいます。だから、若い頃、実家に帰ると、“おまえはキリスト教の信仰なんか持って!”と責められていたそうです。母は頭を垂れて、黙って、兄弟の言葉を聞いていた。でも、母はクリスチャンとしての信仰を貫いた。そういう姿を、子どもながらに見ていたと、その方は証しされました。
 実家は神道の家庭だけれど、キリスト教と出会い、クリスチャンになった。そういうケースは滅多にないかも知れません。けれども、日本の社会においては、家族の中で自分一人だけがクリスチャンであり、家族にあまり良く思われていない、反対されているというようなことは少なからずあると思います。皆さんの中にも、そういう経験がある方もおられるでしょう。反対はされなくても、一緒に生活をしていて、考え方が違うなと感じることがあるかも知れません。日曜日、友だちから遊びに誘われて、断ると、“なんだ、付き合いが悪いなぁ!”なんて言われることがあるかも知れません。そういう時、私たちはクリスチャンとしての孤独を感じることがあるのではないでしょうか。

 最後の晩餐(ばんさん)と呼ばれる夕食の席上で、主イエスは、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(32節)と、弟子たちに言われました。最後の晩餐の席から、既にイスカリオテのユダが出て行きました。主イエスに敵対している人々に、主イエスを売り渡すためです。やがてユダが手引きをして、主イエスを捕縛(ほばく)する人々がやって来る。主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、神を冒瀆(ぼうとく)した罪で有罪とされ、十字架に架けられて処刑される。その時、主イエスについて行く弟子は、一人もいませんでした。皆、恐れのため、保身のため、主イエスを見捨てて逃げ去りました。だれも、主イエスと道を共にせず、苦難を共にせず、主イエスは「ひとりきり」になりました。主イエスは、そういう未来を予想しておられました。
 けれども、弟子たちに見捨てられ、状況としては「ひとりきり」の孤独に陥ったとしても、主イエスは「しかし、わたしはひとりではない」(32節)と言われます。それは、「父が、共にいてくださるからだ」(32節)と信じていたからです。だれに反対されようとも、だれに見捨てられようとも、父なる神が自分と共にいてくださる。この信仰こそ、「勇気」の源であり、「苦難」に打ち克ち、「平和」を得るための力です。

 主イエスが捕らえられ、十字架に架けられて処刑された時、弟子たちは散らされて逃げ去りましたが、その後、再びエルサレムに戻って来ます。そして、共に集まり、共に祈り、共に主イエスの救いを宣べ伝え始めました。主イエスの道を歩き始めました。
 けれども、その時、主イエスが予告されていたとおり、「苦難」(33節)が起こります。弟子たちもまた、主イエスと同じように、世の人々から反対され、迫害されるようになるのです。直前の15章18節以下で、主イエスは既に、弟子たちが迫害を受けるようになることを予告されていました。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(15章19節)と。
 弟子たちは世に属していないのです。この世の価値観に属していないのです。この世の道を歩まないのです。弟子たちは、主イエスに属しているのです。主イエスの信仰と価値観を抱いているのです。主イエスの道を歩むのです。自分の力に頼り、この世の栄光や物質的豊かさを第一とし、自分の好みによって人を差別し、自分を正しいと正当化する。そういう道から離れて、神に造られ、愛されていると信じて神の力と愛にゆだね、神の導き支えを信じて神の御心(みこころ)を第一とし、隣人を愛し、互いに愛し合い、神の前に常に悔い改めて生きる。そういう主イエスの道を、弟子たちは歩むのです。
 だから、世の人々から憎まれるのです。違うから憎まれるのです。自分たちは正しいと思い込み、愛を忘れている宗教指導者たちから、主流派のファリサイ派の人々から迫害されるのです。新約聖書・使徒言行録(しとげんこうろく)を読むと、主イエスの教えを宣べ伝え始めた弟子たちが、捕らえられ、尋問され、脅され、投獄され、処刑される様子が書き記されています。けれども、弟子たちは迫害する人々に対して、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章19節)と、決然と答えています。そのような毅然(きぜん)とした態度を弟子たちに取らせた力は何だったのでしょうか?それは「勇気」です。信仰による勇気です。

 主イエスは、苦難に打ち克つために「勇気を出しなさい」(33節)と弟子たちを励まされました。「勇気」という言葉を聞くと、私はすぐに、アドラー心理学の『嫌われる勇気』という本を思い出します。その中の〈ほんとうの自由とはなにか〉という項に、哲人と若者の対話が次のように描かれています。
哲人 ‥‥ここまで考えれば、「自由とは何か?」の結論は見えたも同然でしょう。
青年 何ですか?
哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
青年 な、なんですって?! ‥‥(中略)‥‥
哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由にはなれないのです。


 他者から認められず、嫌われることを恐れない。それが、アドラー心理学が語る「勇気」です。そして“嫌われる勇気”は、続く第2巻では『幸せになる勇気』として紹介されています。それは“平和を得るための勇気”と言い換えてもよいかも知れません。
弟子たちは、まさに自分の生き方を貫こうとしました。キリストの道に従おうとしました。世の人々から認められなくとも、祭司長やファリサイ派の人々から嫌われようとも、反対され迫害されようとも、キリストの弟子として生きようとしました。弟子たちに、そのような生き方を貫かせた力は「勇気」にほかなりません。
「わたしは既に世に勝っている」(33節)。主イエスは力強く言われました。世に勝つ、とはどういうことでしょうか? それは、人々に勝つとか、相手を負かすとか、ねじ伏せる、言うことを聞かせる、認めさせる‥‥そういったことではないと思います。
それは、“自分”を生きるということ、自分の生き方を貫くということ、そういう意味で自由に生きること。だれに嫌われても、だれに認められなくても、自分らしく、自由に生きるということ。それが、「世に勝っている」ということなのだと思います。主イエスとは、まさにそういうお方でした。祭司長やファリサイ派の非難を恐れず、神の愛に徹して生きられました。
そして、そのような自由こそ、視点を変えれば、「平和」ということなのではないでしょうか。人の目、人の評価、人の思惑に縛られているうちは、私たちの心に平安はありません。人を気にしなくなった時、縛られなくなった時、私たちの心は凪(なぎ)のように平和でありましょう。
だれの目も、評価も、思惑も気にせず、だれに認められなくても、だれに嫌われても恐れずに生きていく。それはまさに「ひとりきり」になるということです。良く言えば、自立独立して生きている、主体的に生きているということです。
けれども、それはしんどいことでもあります。そのような生き方をするためには、そのような孤独に耐えるためには、確かに「勇気」が必要でしょう。その勇気はどこから生まれるのでしょうか?「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」。私たちクリスチャンにとっては、この信仰から勇気が生まれて来ます。目には見えないけれど、主イエス・キリストが、キリストの霊が共にいてくださる、との信仰から生まれて来ます。
それは言い換ええば、自分の命を生きるとは、このように自由に生きることだという真理を確信しているということです。命の真理は我と共にあり、そう確信しているから、その喜びがあるから、何ものをも恐れない「勇気」が湧いてくるのです。

 話は変わりますが、先日の1月13日・成人の日に、埼玉地区59教会・伝道所による新年合同礼拝が上尾合同教会で行われました。その礼拝に、説教者として、金沢教会の井ノ川勝牧師がおいでくださいました。井ノ川先生は2014年に金沢教会に転任されたのですが、それまでは30年間、伊勢市の山田教会で牧師をしており、その時のエピソードをお話してくださいました。山田教会は、伊勢神宮の目の前にある教会だそうです。多くの参拝者が訪れますし、町自体が伊勢神宮というカラーを持っている。そういう町の中で、教会が礼拝を守り、キリストを宣(の)べ伝えていくことは、困難でしょうし、ある意味、嫌われ、迫害されているような面もあるかも知れません。そのような中で、キリストを証ししていくとは、どうすることか?
 ある時、あるキリスト教団体が来て、伊勢神宮の前で“こんな神は偽物だ”と宣伝したそうです。しかし、その団体は数時間後には帰ってしまった。それではだめだ、と井ノ川先生は言われました。“カマスの遠火(とおび)焼き”という言葉があるそうですが、カマスという魚は、遠火でゆっくり、じっくり焼くとおいしく焼けるそうです。そのように、キリストを証しすることも、焦らず、ゆっくりじっくりとしなければならない。自分たちがキリストの道を地道に歩んで、生活の中で、生き方として、証ししていく以外にないと言われました。
 井ノ川先生は、そのエピソードの後で、使徒言行録には、キリスト者と訳されるギリシア語が8回出てくる。その言葉を文字どおりに訳すと、“キリストの道の者”という意味になると言われました。私は、この言葉にとても感動して帰って来ました。
私たちは、キリストの道の者です。キリストの言葉を知識として身に付ける者ではありません。キリストの言葉に従い、キリストの道を地道に歩くことを、キリストから期待され、求められている。反対され、憎まれるかも知れない。困難が、苦難があるかも知れない。けれども、「勇気」を胸に、この道を歩いて行く。信仰を胸に、キリストと共にある喜びを、自分が信じる道を生きる心の平和を生きていく。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。
主イエス・キリストの言葉を胸に、聖霊(せいれい)の助けを祈りながら進みましょう。

 

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