坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年2月2日 主日礼拝説教         「永遠の命って、何?」

ヨハネによる福音書17章1~5節

説教者 山岡創牧師

 

◆イエスの祈り
17:1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
       

       「永遠の命って、何?」
 今日、読んだ聖書箇所、比較的短い5節という御言葉の中に、「栄光(えいこう)」という言葉が5回も出てきました。特に、最後の5節で、主イエスは次のように語っています。
「父よ、今、御前(みまえ)でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(5節)。
 ヨハネによる福音書1章にも書かれているとおり、元々、キリストは、天において、父なる神のみもとに、共におられたのです。父なる神と「栄光」を共有しておられたのです。その父なる神のみもとから、キリストは、人間イエスとなって地上においでになり、父から与えられた「業」を成し遂げられました。そして、「父よ、時が来ました」(1節)と、主イエスは語ります。それは、天への帰還の時です。父なる神のみもとに帰る時です。そして、そこに帰れば、子なる神としての栄光が待っています。
 私は、今日の聖書の御言葉を黙想していて、ふと、〈星の王子様、ニューヨークに行く〉という古い映画を思い起こしました。エディ・マーフィーが主演の映画です。
 アフリカにザムンダ王国(もちろんフィクション)という、自然と資源に恵まれた豊かな王国がありました。その国の王子はアキームと言って、これがエディ・マーフィーです。彼は何から何まで付き人にかしづかれ、トイレでお尻のお拭き係までがいるような生活をしていました。そんなアキーム王子には、婚約者が決められていました。が、“自分の伴侶(はんりょ)は自分で見つけたい”と父親である王に掛け合い、国を飛び出し、付人のセミと一緒に、ニューヨークのクイーンズという地区にやって来ます。そして、身分を隠すために粗末な部屋を借りて、花嫁探しを始めますが、なかなか理想的な女性を見つけることができません。そんな時、友人に誘われて参加したチャリティー・イベントで、彼は、“子どもたちの将来のために、街に公園を建設しよう”と呼びかけるリサに一目惚れします。そして、彼女の父親が経営するハンバーガー・ショップで働くことになり、彼女と話すきっかけをつくり、やがて二人は親密になっていきます。ところが、付人のセミが粗末な生活に耐えかねて、状況を王様に報告してしまいます。驚いた王様がニューヨークにやって来ます。そして、リサと会い、アキームの身分を告げ、“女遊びをするために君を選んだだけだ”との王様の言葉に、リサはショックを受けます。それを知ったアキームが、そうではない、本気だ、君のためなら王子の身分と権利を捨てる、とまで言いますが、二人の縁り(より)は戻りませんでした。落胆して帰国した彼は、やがて結婚式を迎えます。そして、花嫁のベールを上げると、なんとそこにはリサが立っている。そんな、ちょっと素敵な映画です。
 アキーム王子の王国での栄光と、それとは裏腹なニューヨークでの貧しい生活ぶり、それが「わたしがみもとで持っていたあの栄光」と言う主イエスの言葉から、ふと思い出されました。天の上でのイエス様の栄光の姿とはどんな感じなのだろうか、と想像しながら、しかし、変わらないものがあると思いました。アキーム王子がそうであったように、どこにいても、主イエスのご人格は変わらない。場所が変わり、身分が変わったから、偉そうになるというのではなく、神として天にあっても、人として地にあっても、そのご人格、その愛は変わらない。そのご人格が、その愛が、本当の意味で「栄光」を表わすのだと思うのです。
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 主イエス・キリストの変わることのない人格と愛は、私たちに、「永遠の命」を与えることができる権能(けんのう)と深く結び付いています。
 「永遠の命」とは何でしょうか?「永遠の命」とは、誤解を招きやすい、罪作りな言葉です。聖書の内容を知らない人は、「永遠の命」を、永久に生きることだと理解するかも知れません。そして、そんなことはあり得ない、ナンセンスだとキリスト教信仰を否定することになったとしても、これは不思議ではありません。
 教会に来始め、聖書を読み、説教を聞くようになった方は、「永遠の命」とは、死後、天国で生きることだ、死のない世界で、安らかに、神と共に生きることだと考え、信じるようになるでしょう。それも間違いではありません。そのとおりです。
 けれども、今日の聖書箇所で、主イエスはこのように語っています。
「永遠の命とは、唯一(ゆいいつ)のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わし(おつかわし)になったイエス・キリストを知ることです」(3節)。
 意外に感じた方、初めて知ったという方もおられるのではないでしょうか? つまり、永遠の命とは、唯一のまことの神とイエス・キリストを知っている命、ということになります。天国に召された時に与えられる命なのではなく、父なる神とイエス・キリストを知ることで、もう既に、私たちは永遠の命を生きているのです。
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 ならば、イエス・キリストとは、どのようなお方でしょうか? 主イエスは、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業(わざ)を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」(4節)と語っています。その業とは、人を愛することであり、人を愛する業の究極が、十字架に架かって死ぬことでした。主イエスは、神の掟である律法の真髄(神の御心(みこころ))は、神が人を愛しておられる恵みだと受け止めて、特に、差別され、疎外され、悲しみ悩んでいる人々を愛されました。そのために祭司長たちやファリサイ派の人々から非難され、命を狙われても、愛の業をやめませんでした。そして、遂に捕えられ、裁(さば)かれ、十字架に架けられることになるのですが、主イエスはご自分の死で弟子たちを免罪(めんざい)にしてほしいと願ったと思われます。そして、ご自分を見捨てる弟子たちを責めませんでした。更に、ご自分を十字架に架ける人々のことを、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と十字架の上で祈られました。主イエスは、ご自分の命を捨てるところまで、その愛を全うされたのです。命を捨てるほどの愛の業によって、唯一のまことの神の栄光を、愛の栄光を現したのです。
 イエス・キリストを知るとは、その愛を知ることです。命を捨てて、命を懸けて人を愛する方だと知ることです。そして、イエス・キリストを知ることが、唯一のまことなる神、父なる神を知ることだというのがヨハネによる福音書の一貫した考えです。だから、イエス・キリストを知れば、神を知ったことになります。イエス・キリストの愛は、神の愛です。神の愛も命がけの愛です。父なる神が、ご自分の独り子イエス・キリストの命を、私たちのためにお捨てになった愛なのです。
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 この、唯一のまことなる神の愛を、キリストの愛を、私たちはどのようにして「知る」ことができるのでしょうか?
 もちろん、聖書を通して私たちは知ることができます。けれども、大切なのは、「知る」ということの“質”です。「知る」ということは、知識として知る、知識として頭に記憶するという意味ではありません。聖書が「知る」という言葉を使うとき、それは全人格的に知る、という意味で使います。もう少し砕(くだ)いて言えば、生活の中で、実際の交流を通して、相手を知るということです。生活を共にする中で、相手を見、相手に聞き、語りかけ、コミュニケーションを取る。そうする中で“わたしとあなた”と呼び合えるような愛し合う関係を築き上げていくということです。主イエスはまさに、唯一のまことの神を「あなた」と呼んで、神を知り、深い関係に生きているのです。
 何事も、実践してみなければ、“分かった”とは言えません。例えば、ウィンター・スポーツとして、スキーやスノーボードがあります、最近、我が家の二人の息子がはまりかけていて、ウェアやボードを買って来ました。私もスキーは若い頃、2回ぐらいしたことがあるのですが、一度スノーボードをやってみたいなぁ、と思っています。路上でやるスケートボードがちょっと得意だったので、スノーボードもやったらできるんじゃないかと‥‥‥けれども、実際に滑ってみなければ分かりません。かえって変な癖がついていて、だめかも知れません。どんなに良い道具を揃えても、どんなに滑り方を学んでも、実際に雪の上に出て、滑ってみなければ分からない。雪の上を滑ってみて、ターンしてみて、また失敗して転んでみて、時には痛い思いもして、そうやってスキーを滑る、スノーボードを滑るとは、こういうことだと知ることができる、身に付け、上達していくことができると思うのです。
 神を「知る」、イエス・キリストを「知る」ことも同じことでしょう。聖書を単に知識として学ぶだけでは、聖書に込められた先人たちのメッセージは、彼らが伝えようとした神の愛は分かりません。生活の中で、聖書を読む。祈る。礼拝を守る。神の言葉を聞く。そして、今日一日の生活の中で、いつ、どんな場面で神の愛があったかを考えてみる。それ故に感謝できることが、今日一日いくつあったか数えてみる。
そのようにして神の愛を意識しながら、その愛の下で、御言葉に従って生きてみる。自分も神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことを心がけてみる。愛するとは、相手のことを思い、相手を中心に行う行為です。そのためには、自分の何かを捨てる、別の言い方をすれば、献げることが必要です。自分の時間を、労力を、お金を、自分のためにではなく、神のために、人のために献げる。自分の自己主張を譲(ゆず)り、怒りを捨てることが必要な時もあるでしょう。アキーム王子のように、自分の地位も名誉も権利も捨てると決断するような時もあるかも知れません。捨てる痛みを、献(ささ)げる喜びを感じて初めて、私たちは愛が分かるのです。神の愛が分かるのです。
そう思ってもできないこと、失敗することが多々あるでしょう。けれども、やってみようとして、その失敗を通して、私たちは生きた学びをするのです。自分が“罪人”であることを知るのです。そして、罪人の自分のためにイエス・キリストは命を捨ててくださった、愛してくださったと気づく時、キリストの愛の片りんに触れ、心が震えるのではないでしょうか。イエス・キリストを知り、イエス・キリストを通して、唯一のまことの神を知るのではないでしょうか。
神の愛は理屈で知るものではありません。神を信じ、神の言葉に従って生きてきた人が、その生活の中で、理屈を超えて感じることのできる感動です。
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 「永遠の命」、それは、父なる神と主イエス・キリストに愛され、私たちも神とキリストを愛し、また互いに愛し合うときに、永遠の命を生きています。コリントの信徒への手紙(一)13章13節に、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」と記されています。イエス・キリストを知り、いつまでも残る、もっとも大いなるものを宿している命、それが永遠の命なのです。

 

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