坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年2月9日 主日礼拝説教          「彼らをお守りください」       

ヨハネによる福音書17章6~19節

説教者 山岡創牧師

 

◆イエスの祈り

17.6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名(みな)を現(あらわ)しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉(みことば)を守りました。

17.7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。

17.8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。

17.9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。

17.10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

17.11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

17.12わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅(ほろ)びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

17.13しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

17.14わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎(にく)みました。わたしが世に属(ぞく)していないように、彼らも世に属していないからです。

17.15わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

17.16わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。

17.17真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。

17.18わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣(つか)わしました。

17.19彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 

       「彼らをお守りください」

 ヨハネによる福音書13章から、〈最後の晩餐(ばんさん)〉と呼ばれる、主イエスと弟子たちの夕食が始まっています。その席上で、主イエスは、“遺言(ゆいごん)”とも言うべき言葉を、弟子たちに遺(のこ)しています。そして、弟子たちへの言葉を語り終えて、17章では父なる神さまに向かって祈っている。17章は、主イエスの祈りの言葉です。

 祈りは、信仰の最もシンプルな現れです。祈れる人には信仰がある、と言える。神さまを信じていなければ、信じてもいない神さまに向かって祈ることはできないからです。

 けれども、私は神さまを信じてはいるのだけれども、そして祈りたいのだけれども、どのように祈ったらいいか分からない、何を祈ったらいいか分からない、という人もおられるかも知れません。そういう方は、ぜひ今日、祈りを覚えて帰っていただきたい、と思います。そして、家に帰ったら祈ることにチャレンジしてみてください。

 祈りは、信じている神さまとの対話です。だれかと話をする時、私たちはまず、その人の注意を引くように、その人の名前を呼びます。祈りもまず、そうします。“神さま” “イエス様”“天のお父(とう)さま”“主イエス・キリストの父(ちち)なる神さま”“御在天の父なる神さま”‥‥どのように神さまの名前を呼んでもいいです。この呼びかけは、だいたい自分が最初に行って過ごした教会で覚えた呼び方が出ます。

 そして、祈りの最後は、“このお祈りを、主イエス・キリストの御名(みな)によって祈ります。アーメン”と結びます。言い回しは自分のアレンジでいいです。一つだけ大事な点は、“主イエス・キリストの名によって”ということです。と言うのは、ヨハネによる福音書において、主イエスが特に最後の晩餐の席上で、14章、15章、16章でも再三再四、「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」(14章13節)と弟子たちに教えておられるからです。私たちの生活でも、名前が大きくモノを言う場合があります。例えば、大きな病院を訪ねる時、“○○先生の紹介で来ました”と名前を出して、紹介状を渡すと、快く受け入れてもらうことができます。つながりが分かるからです。祈りも言わば、“イエス様の紹介で来ました”と言うようなものです。だから、それを最初に行ってもよいのですが、キリスト教の伝統的な祈りの作法では、最後に“主イエス・キリストの名によって祈ります”と、そこで名前を出しています。

 あとは祈りの中身ですが、何を祈ってもかまいません。お願いをする。感謝を述べる。賛美してほめたたえる。だれかのために執り成す。愚痴(ぐち)をこぼしてもいい。怒りや、苦しみ悲しみをぶつけたっていいのです。

 私たちの祈りでいちばん多いのは、お願いだと思います。もし自分のお祈りを録音して聴いてみたら、8割、9割はお願いかも知れません。そういうことを考えるようになると、私たちは意識して、賛美や感謝、執(と)り成(な)しを祈るようになります。

 比較的最近、坂戸いずみ教会に来るようになった方は、“この教会の人はよく、ハレルヤと賛美の祈りをするなあ”と不思議に思われた方、違和感を感じた方もいるかも知れません。確かに、他の教会に行っても、祈りの中であまり聞きません。私たちの教会でも、ハレルヤと賛美の祈りはしていませんでした。でも、2年ほど前に、鈴木崇巨(たかひろ)先生から“祈りとはまず、ハレルヤと賛美の祈りをすることからだ。神中心の祈りをすることだ”と教えられました。それから、この教会では多くの人が意識して、ハレルヤと賛美の祈りをするようになりました。私もその一人です。

 では、お願いの祈りはしてはいけないのか?しない方がいいのか? もちろん、そんなことはありません。お願いの祈りをしていいのです。バンバンしていいのです。イエス様も、わたしの名によって願いなさい、と教えておられるのですから、ジャンジャン願っていいのです。いや、主イエスご自身が、祈りにおいて願っているのです。

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 今日読んだ17章6節以下、特に9節で、主イエスは2度、「お願いします」と祈っています。お願い、OKです。

 では、主イエスは何を願っておられるのでしょうか。それは、「彼らを守ってください」(11節)ということです。これは、自分のためではなく、だれかのための願いですから、執り成しの願い、執り成しの祈りです。19節までに、「守る」という言葉が3回、出て来ます。主イエスの願いはただ一つ、弟子たちが守られることです。

 普段の生活の中で祈る人は、この、だれかのための執り成しの祈りをよくされると思います。そして、言葉としては、主イエスと同じように「守ってください」、お守りください、という言葉を使うことが多いのではないでしょうか。

 ところで、皆さんは、だれかのことを“守ってください”と祈る時、いったい何から守ってください、と祈っているのか考えたことがありますか? 私は、今日の聖書箇所(かしょ)、特に「彼らを守ってください」という主イエスの祈りの言葉を黙想(もくそう)しながら、いったいイエス様は、弟子たちのことを、どう守ってください、何から守ってください、と祈っているのだろうか?と、ふと思いました。

 私たちの場合、守ってください、お守りください、という言葉を、祈りの中で、あまり考えて使ってはいないのではないでしょうか。何となく、よく使う祈りの言葉として使っているだけのことが多いと思います。では、どういう意味で、何から守ってくださいと祈っているのだろうかと考えてみると、例えば、その人が(今日一日)事故に遭(あ)わないように、事故からお守りください、と考えている。また、その人が風邪をひかないように、インフルエンザにならないように、体調を崩さないようにと、病気からお守りください、と考えている。もしその人が既に病気であれば、その病気が重くならないように、致命的にならないように、病状の悪化からお守りください、と考えている。あるいは、その人が人間関係でトラブルに巻き込まれ、ストレスを抱えないように、人間関係のこじれからお守りください、と考えている。私たちが普段、だれかのために、お守りくださいと祈る時は、そういう意味で祈っているのではないでしょうか。

 それが悪い、間違っていると言うのではありません。それは至極(しごく)自然な祈り願いだと思います。これからもそのように、だれかのために、守ってくださいと祈りましょう。

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 けれども、主イエスが「彼らを守ってください」と弟子のために祈り願う時、そして現代の弟子である私たちのために祈ってくださる時、その意味内容は、私たちの“お守りください”とは少し違うと思うのです。

 主イエスは、16章33節で「あなたがたには世で苦難がある」と言われました。また、今日の14節に、「世は彼らを憎(にく)みました」とあるように、繰り返し世の人々の迫害を語って来ました。苦難がある、あり得るということは、私たちの生活の前提なのです。事故がある。人間関係のトラブルがある。不慮(ふりょ)の出来事が起こる。病気になる。そして死を迎える。そういったことは、私たちの人生に当然、あり得ることなのです。苦難や困難がないに越したことはありません。けれども、これらの苦難がない人生など、考えられないのです。

 苦難があるということは、主イエスの祈りにおいて、生活の前提、人生の前提なのです。その上で、主イエスは何と祈っておられるでしょうか?15節にあります。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)。

 弟子たちを「世から」別世界に取り去ってしまえば、苦難やトラブルや病気はなくなるでしょう。けれども、それは非現実的で、ナンセンスな祈りです。主イエスは、この世において弟子たちを、「悪い者から」守ってください、と祈っています。

 「悪い者」とは何でしょう? 当時、イエス・キリストを神と信じる者は、ユダヤ人から迫害されました。ユダヤ人クリスチャンはいじめられ、村八分にされました。そして、イエス・キリストを信じる者はユダヤ教徒ではないと、はっきりと異端(いたん)宣告が出されました。そのような迫害に耐えかね、異端宣告に動揺したユダヤ人クリスチャンが少なからず、イエス・キリストを信じる信仰を捨て、教会から離れ去って行きました。それが、12節で「滅(ほろ)びの子」と言われている人々です。

 だから、「悪い者」とは直接には、クリスチャンと教会を迫害するユダヤ人のことです。その迫害から、彼らによる苦難から、弟子たちを守ってくださいと主イエスは祈っています。信仰を捨てないように、教会から離れ去らないように、神の救いから外れて滅んでいかないようにと祈っているのです。

 主イエスの弟子たちのための祈りを黙想しながら、私は、ルカによる福音書22章に描かれている〈最後の晩餐〉の席上で、主イエスがシモン・ペトロのために祈られた祈りを思い起こしました。ご自分が捕まり、十字架に架けられると予告した主イエスに対して、ペトロは、ご一緒なら投獄も死ぬことも覚悟していると言います。けれども、実際にはペトロは、主イエスを知らない、関係ないと否定し、主イエスを見捨てて、離れ去って行きます。そのペトロのために、主イエスはこのように祈られました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないようにと祈った。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

(ルカ22章31~32節)

 迫害がある。苦難がある。そういう中で「守ってください」と祈ることは、「信仰がなくならないように」と、「悪い者から守ってください」と祈ることにほかなりません。

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 「悪い者」とは、単に人間のことではなく、現代的に受け止めれは、私たちを信仰から、教会から引き離す原因、要因のことだと考えられます。私たちが生きる世界は、そういうものに満ちあふれています。周りの人から信仰に反対されることもそうでしょう。もっと楽しいことに、あるいはもっと目に見える利得(りとく)があることに誘(さそ)われる誘惑(ゆうわく)もそうでしょう。だれかとトラブルを起こし、赦し合えず、ストレスや怒りを抱えることもそうでしょう。持っていた財産や地位、名誉を失う喪失(そうしつ)や、家族を失う悲しみ、健康を損なう落胆(らくたん)、病気になり死を恐れる恐怖‥‥‥考えれば、私たちを信仰と教会から引き離すものはたくさんあります。そういった苦難や誘惑に飲み込まれて、信仰がなくならないようにと、主イエスは“私(たち)”のために祈ってくださるのです。信仰によって生きる喜びを、慰(なぐさ)めを、希望を失わないようにと祈ってくださっているのです。

 私たちは、自分の意思で、自分の力で信仰を守ることができるのではありません。私たちの力を上回るものなど、この世にたくさんあるに違いありません。そういう中で今も、主イエス・キリストが天において、私たちの「信仰がなくならないように」祈ってくださっているから、その祈りの「保護」(12節)によって私たちは守られているのです。自分の力ではなく、主イエスの祈りによって、神の力によって、聖霊の保護によって私たちは守られていることを深く自覚しましょう。

 そして、主イエスの祈りの保護を信じる者こそが、だれかのことを「守ってください」と祈ることができるのです。シンプルに、事故から、トラブルから、病気から守ってください、という祈りもいい。そいて、もう一つ、事故やトラブル、病気になった時に、それによってその人の「信仰がなくならないように」、信仰による喜びに、慰めに、希望に生きることができるように、という祈りを加えましょう。そのように、だれかのために祈ることが、私たちクリスチャンに、教会に、主イエスから託された使命です。

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