坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年2月16日 主日礼拝説教          「起き上がり、歩きなさい」

マルコによる福音書 2章1-12節
説教者:野澤幸宏神学生

◆中風(ちゅうぶ)の人をいやす
2.1数日後、イエスが再(ふたた)びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2.2大勢(おおぜい)の人が集まったので、戸口の辺(あた)りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉(みことば)を語っておられると、
2.3四人の男が中風の人を運んで来た。
2.4しかし、群衆(ぐんしゅう)に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床(とこ)をつり降ろした。
2.5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪(つみ)は赦(ゆる)される」と言われた。
2.6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2.7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜(ぼうとく)している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦(ゆる)すことができるだろうか。」
2.8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2.9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担(かつ)いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2.10人の子が地上で罪を赦す権威(けんい)を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2.11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2.12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

       「起き上がり、歩きなさい」

 「中風の人の癒(いや)し」として有名な本日の聖書のみ言葉ですが、この、中風という病気はどのような病気なのでしょうか。国語辞典によれば、日本語の「中風」は、脳血管の疾患のため、麻痺や言語障害をきたした状態を言うのだそうです。鍼灸(しんきゅう)などの東洋医学で主に使われている言葉だそうです。一昨年発売された新しい日本語訳の聖書『聖書協会共同訳』では、この箇所は「体の麻痺した人」という訳語になっています。中風という日本語自体が、現代においてあまり馴染(なじ)みのない言葉になってきたので、より分かりやすい言葉に変えられたのではないかと思います。主イエスの時代においてこの言葉で表される症状が、現代で言うどの病気にあたるのか、正確なところは分かりません。しかしいずれにせよ、この人物が歩けない状態であったことは、間違いないようです。この人の癒しを巡(めぐ)って、主イエスがどのように人々と関(かか)わられたのか、そして、それに対して当時のユダヤ教の指導者たちはどのような反応を示したのか。共にみ言葉に聴いていきたいと思います。
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 癒しの奇跡の出来事は、ガリラヤ湖畔のカファルナウムの町で起こります。この町は、主イエスの弟子ペトロとアンデレの兄弟の故郷です。二人が漁師であったことからも分かりますが、この町は、漁業が盛んであったガリラヤ湖で漁をする漁師たちの漁師町でした。そして、主イエスのガリラヤ地方における活動の拠点ともなっていた町だったのです。
 この町のある家におられた主イエスのもとに大勢の人々が集まってきました。主イエスが奇跡の力をお持ちだという評判は、ガリラヤ地方の方々に広がっていたのです。人々はその奇跡に与(あずか)り、そのお話を聴きたいと集まっていたのでした。「戸口の辺りまですきまもないほど」と福音書はその光景を生き生きと伝えています。たくさんの人々でごった返す様子が目に浮かぶようです。その人々の中心で、主イエスはみ言葉を語っておられました。
 そこへ他の人たちとはちょっと違った様子の人たちがやってきます。中風の人と、彼を担(かつ)いできた4人の友人たちです。寝たきり状態の中風の人を、主イエスに癒してもらおうと、友人たちはその寝ていた床ごと担いできたのでした。この「床」をある訳では「担架(たんか)」という語をあてていました。そう表現されてもおかしくないくらい、粗末な寝床だったということです。介助(かいじょ)してもらわなければ生きることが出来ない状態だったであろうその人が横になるには、あまりにも粗末な寝床でした。しかし、既に主イエスの周りには沢山の人々が取り囲んでいたので、近付くことが出来ません。しかし、なんとかして中風の人を癒してもらいたい4人は必死です。当時のパレスチナの家は、その壁も屋根も粘土で固められた箱のような形をしており、その屋根には、外側から階段で上ることが出来るようになっていました。4人はその屋根の上に上り、床に寝ているままの中風の人も吊り上げます。そしてなんと、その屋根の粘土を掘り抜いて穴をあけ、ちょうど主イエスのおられる辺りにこの人を吊り降ろしたのでした。いくら大切な友人の病を癒してもらうためとは言え、人様の家の屋根に穴をあけてしまうのです。並大抵(なみたいてい)の思いではありません。それほど必死に、この機会に賭(か)けたのです。そして、それほどまでに、「主イエスであれば、この症状を必ず癒してくださる」と信じていたのでした。
 主イエスは、その人たちの必死な思いに「信仰を見て」、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と告げられます。どうして、すぐに病(やまい)を癒されるのでなく、罪の赦しを宣言されたのでしょうか。それは、当時のユダヤ人社会においては、病気はその人自身か家族が罪を犯(おか)した結果としてもたらされると考えられていたからです。つまり、この中風の人は、病気の症状に苦しんでいただけではなく、「あいつは罪を犯した者だ」という世間からの目線にも苦しめられていたのです。その人に対し、主イエスは「子よ」と親しく呼びかけられ、彼を苦しめていた罪からの解放を告げるのです。
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 しかし、事態はそれでめでたしめでたしというわけにはいきませんでした。そこに集まっていた人々の中には、律法学者もいたのです。彼らはユダヤ教の中心である律法を研究し、その解釈を人々に教える役割を担っていました。当時のユダヤ社会の指導者たちです。
 彼らの律法解釈では、人間の罪を赦すことが出来るのは唯一の神さま以外にはあり得ません。主イエスの「あなたの罪は赦される」という宣言は、彼らにとっては「人間の身でありながらなんと大それたことを言うのだ、神さまへの冒涜(ぼうとく)だ」ということになってしまったのです。そして神さまへの冒涜は、彼らが研究している律法に照らしてみれば、石打ちの死刑に値する罪なのです。
 律法学者たちは、ここではそのことを口に出して主イエスを批判したわけではありません。「心の中で」考えていただけです。しかし主イエスはそんな彼らの心の中を見抜いて問いかけます。「罪の赦し」と「病の癒し」とどちらがより易しいか、と。
 そのように問いかけられた上で、中風の人に言葉をかけることで病気の癒しを実現します。単に「罪が赦される」というだけなら、誰でも出来る簡単なことです。しかし、主イエスの言葉には、神さま以外誰も出来ないはずの、罪を赦す権威が確かにあるのです。主イエスは、人となって地上に来られた神さまご自身だからです。そのことを、ここに集まった多くの人々の前で知らしめるために、主イエスは先の問いかけをした上で、病気を癒されました。病気が癒されたということは、当時のユダヤの常識に従えば、その背後にある罪も赦されたことの証明になります。
 しかし、律法学者たちにはそのことは理解できませんでした。彼らは主イエスへの敵対心(てきたいしん)を深めていき、この後の3章6節で、ついに主イエスを殺そうとする計画まで相談するようになっていってしまいます。
 他方、そこに集まっていた人々は「皆驚き」「神を賛美し」ました。「今まで見たことがない」神さまの権威を感じさせる出来事に、主イエスが神さまご自身であることを、論理ではなく直感的に察し、賛美せざるをえなかったのでしょう。実は、マルコによる福音書において、主イエスの癒しの奇跡に対して人々が「神を賛美した」のはこの箇所(かしょ)のみです。
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 ここで主イエスが赦された「罪」とは、何なのでしょうか。それは、病人であろうと、律法学者であろうと、誰もが心の中に持っているものです。神さまを神さまとしない心です。神さまのみ心よりも、自分の思いを優先させることです。律法学者の罪は、目の前におられる神さまご自身である主イエスを、神さまだと認められず、それまでと同じ自分の常識において判断したことです。
 主イエスは中風の人を癒す声かけの中で、「床を担いで家に帰りなさい」と告げます。来たときには、そこに寝かされて人に担いできてもらった床を、今度は自分で担いで家に帰るのです。これは罪も病も癒され、その人の本来の居場所に立ち返ることを示しています。主イエスは、その人が最もその人らしくある姿、最もその人らしくあれる状況へと導(みちび)いてくださるのです。
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ところで、中風の人はこの物語の中で、一切(いっさい)自分自身の言葉を発していません。これは、自分自身の思いで生きるのではなく、神さまの導かれるままに歩みなさいという信仰者のあるべき姿を示していると感じられます。今こうして教会に集っているわたしたち一人一人も自分の意志でここに来ていると思っているかも知れませんが、神さまのお導きによってここに呼び集められているのです。神さまの導きだけではありません。そもそも、この癒された人は、どのように主イエスの前にやって来たでしょうか。床を担いで連(つ)れてきてくれた友人たちがいたから、癒していただくことが出来たのです。本人の信仰ではなく、周りにいる人々の信仰によって、罪が赦され、癒されたのです。本当の神さまを、自分の神さまとすることが出来たのです。
わたしたちも、自分の信仰生活を振り返ってみれば、自分だけでは信仰を告白し、洗礼を受けるに至らなかったと思わされるのではないでしょうか。信仰の先輩たちの祈りに導かれて、疑い深かった自分が、神さまを信じる者へと変えられていったという経験を誰しも持っているのではないでしょうか。そのような周りの人々の祈りを通してわたしたちは、罪の赦しへと、神さまとのあるべき関係の回復へと導かれていくのです。今日のみ言葉の中で、中風の人が、床を担いで来てくれた友人たちの「信仰」によって救われたように。
わたし自身も振り返ってみれば、教会の交わりの中で、沢山(たくさん)の信仰の先輩たちの祈りによって支えられ信仰を育んでくることが出来ました。献身(けんしん)の志(こころざし)が与えられ、神学校で学んでいる今は、全国の信徒の方々が祈ってくださっていると感じられ、心強く思えます。
そして、わたしたち一人一人が罪から救われるのを、立ち返って来るのを、誰よりも望んでおられるのは、他ならぬ神さまご自身なのです。
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 中風の人は、主イエスによって癒され、主イエスの言葉どおりに起き上がって歩き出しました。主イエスご自身は、今日の物語に登場した律法学者たちをはじめとする反対者たちの敵意によって、十字架の苦難への道を歩んで行かれます。しかし、その十字架の死から、復活して「起き上が」らせられるのです。そのことによって、わたしたちすべての罪、神さまから背(そむ)く心を打ち砕き、神さまが天地創造の際に、「極めて良かった」と言われたあるべき状態へと回復させてくださるのです。神さまが関係回復の癒しへと招いてくださっている、そのみ声に喜んで応え、起き上がって歩み出しましょう。

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