坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年2月23日 主日礼拝説教          「一つにしてください」

ヨハネによる福音書 17章20~26節

説教者:山岡創牧師

17.20また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17.21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣(つか)わしになったことを、信じるようになります。
17.22あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17.23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
17.24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17.25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17.26わたしは御名(みな)を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

 

       「一つにしてください」
 1900年代の前半に、26歳の若さで天に召されるまで500余りの詩を作った、金子みすゞという童謡詩人がいます。この人の詩に〈蜂と神さま〉という詩があります。
蜂はお花のなかに、 お花はお庭のなかに、 お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、 町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、 世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、 小ちゃな蜂のなかに。
 最後の晩餐(ばんさん)の席における主イエス・キリストの祈りの最後の部分、今日の聖書の御言葉(みことば)を黙想(もくそう)しながら、私は、この詩を、ふと思い起こしました。
父なる神は主イエスの中に、主イエスは神の中に、そして信じるすべての人々は神と主イエスの中に。また、父なる神は主イエスの中に、主イエスは信じる人々の中に。
 21節と23節では、つまりそういうことが言われているわけです。もう少しまとめて簡単に言うと、父なる神さまと主イエスをまとめて“神さま”と考えれば、信じる人々は神さまの中に、神さまは信じる人々の中に、ということになります。
 これって、どういうことでしょうか? 理屈で考えようとすると、ややこしくなります。やはり詩的な表現です。だから、詩的に感じようとする、感性で直観的に感じようとすると、案外分かるような、ストンッと腹に落ちるような気がします。
 この感じを、もし言葉で表わすならば、「一つ」ということなのでしょう。今日の聖書箇所(せいしょかしょ)に、「一つ」という言葉が4回繰り返して語られています。「内に」(中に)という表現はつまり「一つ」ということです。父なる神と主イエスは一つ、主イエスと私たちは一つ、そして私たち皆(みな)が一つ、ということです。
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 と言っても、それぞれの「一つ」という意味には、大きな質の違いがあります。
 まず、父なる神さまと主イエス・キリストが一つということは、完全に同質であるということです。人間にたとえて言うならば、DNAが完全に一致している、言わばクローンのような存在でしょうか。
 ヨハネによる福音書は、その1章で、この父なる神と主イエス・キリストの完全なる一致を次のように語っています。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物(ばんぶつ)は言によって成った」(1章1~3節)。
また、讃美歌21の93番には〈礼拝文〉というものが載っていますが、その93-4に、〈二ケア信条〉という信条、信仰告白文があります。そこには、使徒信条よりも、より詳しく“主イエス・キリストは‥‥父と同質であって”と記されています。後で参考に読んでみてください。
 このような聖書の御言葉と信条から、父なる神と主イエス・キリストは一つの神であるという信仰が、更(さら)に聖霊なる神も加えられて、これらは三つにして一つの神であるという信仰、私たちも日本基督(キリスト)教団信仰告白で告白している三位一体の神という信仰が生まれて来ます。
 要するに、父なる神さまと主イエス・キリストは同質であり、完全に一致しているということが、父なる神と主イエスが一つであるということの内容です。

 次に、父なる神さまと私たちが一つ、主イエスと私たちが一つということですが、これは言うまでもなく、同質などということはあり得ません。では、主イエスと私たちが一つということはどういう意味でしょうか? それは、私たちが主イエスの御言葉によって表された父なる神さまの御心に従う、ということでしょう。言い換えれば、それは父なる神の愛に、主イエスの愛に倣(なら)って生きる、ということです。その信仰による生き方は、私たちの教会が願いとして掲げている次の御言葉によって表されます。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互(たが)いに愛し合いなさい」
(ヨハネによる福音書13章34節)
 私たちは、父なる神さまがその独り子である主イエス・キリストを、この世界にお与えくださるほどに愛されています。私たちは、主イエス・キリストが、その命を私たちのために献(ささ)げ、十字架の上で死んでくださるほどに愛されています。父なる神さまと主イエス・キリストの御心は、私たちを救う愛一色です。その愛を信じ、喜び感謝し、その愛に倣って、私たちも人を愛し、互いに愛し合って生きることが、父なる神さまと一つ、主イエスと私たちが一つということにほかなりません。
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 そして、私たち皆が一つであるということは、まさに私たちが互いに愛し合う時に実現するのだと思います。ならば、互いに愛し合うことは私たちが一つになることとどう関係するのでしょうか?
 2年ぐらい前でしたか、埼玉2区の牧師会で、礼拝説教者の牧師が話してくださったことに、とても感動しました。それは、コンセンサス・ビルディングという話でした。コンセンサス・ビルディングというのは、組織や集団が何かを取り決める時に、そこに関わっている人が皆、共通理解を持てるようになるまで、つまり共通理解によって一致するまで話し合いを何度も繰り返すというやり方です。一致しないままに、途中で、多数決や独裁では決して決めない。最後の一人まで、共通理解を持てるようになるまで、お互いの意見や思いをビルディングしていく、積み上げていくという方法だということでした。私は、愛を語る教会においては、時間や労力などの制約はありますが、その方法、その根本的な姿勢を取ることが、とても大切だと思いました。
 けれども、誤解してはならないのは、話し合いを積み重ねていく中で、全員の意見が同じなるとは限らない。いや、同じになることはあり得ないということです。コンセンサス・ビルディングとは、全員の意見を同じにすることではありません。
 話し合いをする中で、お互いの意見が分かって来ます。意見の違いが分かって来ます。そして、相手の考えや気持も分かって来ます。その時、自分の意見を主張し続けるのではなく、自分の意見を譲(ゆず)る時があると思います。力で強制されて譲るというのではなく、相手のことを思い、組織全体のことを考えて、譲ること、引っ込めることがあると思います。そういうふうにして共通理解がつくられてゆき、決定に至(いた)るのが、コンセンサス・ビルディングの真髄(しんずい)だと思います。
 “一つ”であるということを、“同じ”であるということだと考えてはなりません。同じを求める心は、もし同じでないものがあったら、違うものがあったら、それを排除してゆくことになります。自分と違う人を排除してゆくことになります。
 一つというのは、違うものがあっても、それを認め、受け入れ、包み込んでいく方向に作用します。違う者同士が、そこに一緒に居られる場所を、関係を生み出そうとします。人が共に居られる平和を生み出そうとします。
 そのためには、自分の考えや気持をはっきりと言える信頼と勇気と共に、自分と違うものを認め、受け入れていく忍耐があり、自分の意見を譲り、時には相手を優先していく優しさが必要です。それは一言で言うなら、“愛”です。互いに愛し合う愛です。
 私たちは皆、一人ひとり、違います。相違しています。意見も、考えも、性格も、好みも、性別も、年齢も、置かれている状況や抱えている問題も違います。同じになることはできません。ただ、一つになることはできます。一つになる努力はできます。皆が受け入れ合い、共に居られる交わりを造(つく)るために祈ることができます。それが互いに愛し合うということです。
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 そのように互いに愛し合う愛に、深みを与えるものは何でしょうか? それは、主イエス・キリストに愛されていることを信じる信仰にほかなりません。そして、私たちの信仰による愛が深められるのは、自分のことを“罪人”だと思う自覚と、その罪人である自分が赦(ゆる)され、愛されているという意識ではないでしょうか。
 既(すで)に天に召された藤木正三という牧師が、“一つ”ということについて、とても素敵な文章をいくつも遺しておられます。その中の一つに次の文章があります。
  人は何によって一つになるのでしょう。一つの目標を目指すことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおいてでしょうか。そういうことで一体感を味わう人もあります。しかし、そこには人間への誤解があるように思います。人は、共通のものに関わることによって一つになるように見えて、実は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか。そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ、一体感に内容を与えるのはこれです。(藤木正三、『灰色の断想』111頁、一体感)
 私は罪人です。私たちは罪人です。罪において一つです。それが、私たち教会の最も大切な共通理解、究極的なコンセンサス・ビルディングなのかも知れません。
 けれども、私たちは単なる罪人ではありません。罪人として自分を否定するのではありません。罪人だけど、神さまに赦されている。罪人だけど、主イエスに愛されている。そんな“赦された罪人”なのです。神の愛の内で、悔い改めと喜びが同居している人間なのです。
 聖書が言う罪って何でしょう? 罪人って何でしょう? 説明は省きます。ただ、自分のことをそう感じていたら、威張(いたば)れなくなります。誇(ほこ)れなくなります。赦され、愛された罪人だと感じていたら、謙遜になります。人に優しくなります。自分を押し通さなくなります。そこに愛が生まれます。
 主イエスの祈りの最後の願いは、「すべての人を一つにしてください」(21節)という祈りでした。主イエスは今も、天の上で、私たちの姿を見ながら、教会の現実を見ながら、私たちのことを一つにしてくださいと、教会を一つにしてくださいと願い、祈り続けておられるのではないでしょうか。その祈りに慰(なぐさ)められ、励(はげ)まされて、互いに愛し合い、一つになることを目指し、祈り求めていきましょう。

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