坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年3月1日 主日礼拝説教         「だれを捜しているのか」

ヨハネによる福音書18章1~11節
説教者 山岡創牧師

◆裏切られ、逮捕される
18:1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園(その)があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18:2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長(さいしちょう)たちやファリサイ派の人々の遣(つか)わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)やともし火や武器を手にしていた。
18:4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18:5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペトロは剣(つるぎ)を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納(おさ)めなさい。父がお与えになった杯(さかずき)は、飲むべきではないか。」

 

                                                 「だれを捜しているのか」
 2月26日・水曜日から、教会の暦(カレンダー)の上で、〈受難節レント〉と言われる期間が始まりました。日曜日を除いて40日間、4月11日(土)まで続きます。そして4月12日(日)に、主イエス・キリストの復活祭(ふっかつさい)イースターを迎えます。
 受難節(じゅなんせつ)レントの期間、私たちは、自分を見つめ直します。自分が神さまの御心(みこころ)に背(そむ)いているところはどこだろうか?と改めて悔(く)い改めます。そして、神さまに背を向けている私たちを、主イエス・キリストが執(と)り成(な)してくださり、その関係を回復させてくださった。そのために主イエスはご自分の命を献(ささ)げて十字架にかかり、その命で私たちを贖(あがな)ってくださった。私たちを罪から救い出し、神さまのものとして神の愛の中に置いてくださった。その救いの恵みを感謝すると共に、私たちの救いのために命を捨ててくださった主イエス・キリストの苦しみを思うのが、受難節レントの大きな課題です。
 礼拝(れいはい)で読み続けてきたヨハネによる福音書(ふくいんしょ)が18章に至り、ちょうど、主イエスの受難、十字架への歩みの話へと入っていきます。それで、他の受難箇所を選ばず、このままヨハネによる福音書から、主の御言葉(みことば)を聴(き)くことにしたいと思います。
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 最後の晩餐(ばんさん)と呼ばれる、主イエスと弟子たちの食事の場面が、13章から17章まで続きました。主イエスは、弟子たちの足を洗い、大切な言葉を遺(のこ)し、最後に17章で弟子たちのために祈りました。そして主イエスは、エルサレムの街を出て、「キドロンの谷の向こうへ」(1節)行かれました。そこには、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネと呼ばれる園(その)がありました。主イエスはエルサレムにおいでになると、この園で毎晩、弟子たちと一緒に祈りの時間を過ごしておられたようです。
 その場所に、弟子の一人であるイスカリオテのユダが、「一隊の兵士と、祭司長やファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて」(3節)、主イエスを捕(とら)らえるためにやって来ました。13章を読むと、その2節に、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱(いだ)かせていた」と記(しる)されています。もはや主イエスには従って行けないと思い、裏切りの決心をさせる何かが、ユダの心にあったのでしょう。この直後、ユダは、最後の晩餐の席上から出て行きます。
 そのユダが、兵士たちと下役たちを連れて、やって来ました。主イエスは、「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ(た)」(4節)と記されています。祭司長たちやファリサイ派の人々とのこれまでの経緯(いきさつ)、その対立と軋轢(あつれき)から、ご自分がやがて彼らに捕らえられ、そして裁(さば)かれ、処刑されることを予想しておられたのでしょう。イスカリオテのユダが、ご自分に対して良からぬ感情を抱き、逮捕の手引をするであろうことも予想しておられたのでしょう。
 そのように予想しておられながら、主イエスは逃げませんでした。真っ暗闇の山の中ですから、逃げようと思えば逃げられたのではないかと思うのです。けれども、主イエスは逃げませんでした。これこそが父なる神の御心(みこころ)と信じて民衆に語り、行動して来たご自分の生き方を、逃げることによって否定してしまう、台無しにしてしまうようなことは、主イエスにはできなかったのです。
 人には、逃げられない場面、逃げてはいけない時があります。引き受けて、背負っていく以外にない人生があります。主イエスはそれを、11節で、「父がお与えになった杯」と表現しています。父なる神のご計画、神さまよって備えられた自分の人生の道と言ってもよいでしょう。
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 ご自分を捕らえに来た兵士たちと下役たちに対して、主イエスは、逃げずに、むしろ前に「進み出て」(4節)言われました。「だれを捜しているのか」(4節)。
 そう問われれば、兵士や下役たちは当然、「ナザレのイエスだ」(5節)と答えるでしょう。ところが、それに対して「わたしである」(5節)との返答が返って来たことは、彼らにとって、予想外であり、驚きだったのではないでしょうか。まさか、自分たちの捜しているナザレのイエスが目の前にいて、「わたしである」と答えるなどとは思っていなかったでしょう。主イエスは当然、逃げ出したものと思い込んでいたでしょう。
 ところが、予想に反して主イエスは進み出て、「わたしである」と言われた。その落ち着きに、その力強さに、彼らは圧倒され、「後ずさりして、地に倒れた」(6節)のかも知れません。あるいは、主イエスのその態度に、自分たちは待ち伏せされた、相手の罠(わな)の中に飛び込んで迎え撃(う)たれたと勘違いし、気が動転して後ずさり、地に倒れたのかも知れません。
 けれども、彼らが後ずさりして地に倒れたのは、もう一つ、別の意味の圧力があったからではないか、と思われます。それは「わたしである」と言われた主イエスの宣言です。「わたしである」という言葉は、新約聖書のギリシア語では“エゴー・エイミー”と言います。この言葉は、旧約聖書の出(しゅつ)エジプト記3章で、モーセが、神さまと出会い、エジプトで奴隷として苦しめられているイスラエルの同胞(どうほう)を救いだすために選ばれ、遣わされる場面と関係があります。その時、モーセは、自分に現れた神さまに向かって、“あなたはだれですか?”と尋ねます。その時、神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。私は存在の神、命の神だと言っておられるのかも知れませんし、“私は目には見えないが、確かにあるものだ”と言われたのかも知れません。いずれにしても、この「わたしはある」という言葉がギリシア語に訳された時、ヘブライ語の旧約聖書がギリシア語に訳された時、エゴー・エイミーと翻訳(ほんやく)されました。
この言葉は、ヨハネによる福音書において、これまでも、「わたしは世の光である」(8章12節)とか、「わたしは良い羊飼いである」(10章12節)といった言葉において使われてきました。けれども、今日の聖書箇所ではそのまま、エゴー・エイミー、「わたしである」と使われています。つまり、「わたしはある」という、神さまがご自分を表わす言葉が、間接的な表現から、直接的な表現に、ストレートに言われています。それはすなわち、“わたしは神である”という主イエスの自己宣言なのです。
 だから、兵士や下役たちは、「わたしである」、“わたしは神である”という主イエスの宣言によって、主イエスという“神”の前に立たされている、ということになります。神さまが目の前におられる、それだけでも圧力でしょうに、その神さまが自分たちの方に進み出て、近づいて来られるのですから、圧倒されて後ずさりし、地に倒れるのは無理もありません。そして、その“神”の問いかけとして、「だれを捜しているのか」という問いの圧力を、彼らは受けているのです。
 「だれを捜しているのか」。それは、その場で、どの人を捜しているのか、という通常の意味のほかに、その人の人格に問いかける、人生に問いかける、魂(たましい)に問いかける響(ひび)きを持っています。深い問いかけです。あなたは、自分の人生において、だれを捜しているのか? それは“あなたは、自分の人生において、自分の魂のレベルで、確かなものをみつけたのか?信頼できる相手と出会っているか?”という言葉に言い直すことができるでしょう。そのように確かなもの、信頼できる神と出会わない限り、私たちの人生は“迷える羊”“嵐の中を漂う船”ではないでしょうか。
 私たちは、失敗し、挫折(ざせつ)した時には、落ち込み、不安を感じるでしょう。けれども、人生が順調に行っているような時にも、ふと、原因の分からない不安に襲われることがないでしょうか? 人生が比較的うまく行っているのに、ふと、自分はなんでこんなことをしているのだろう?何のために生きているのだろう?と虚(むな)しさを感じ、迷うことがないでしょうか? 人生を長く生きておられる人ほど、きっとそうだと思います。
 この人生の根底的な不安、虚しさ、迷いを克服(こくふく)するためには、まさに人生の根底となる、魂の土台となる確かなもの、信頼できる神を捜し当てる以外にないと思います。いや、この不安、虚しさ、迷いは、神さまを捜し当て、信じようと決心した後も、時おり襲(おそ)って来ます。私もそんなことを思う時があります。牧師以外の人生があったかも知れないと考えたりすることがあります。
 その時に、神さまのことを思います。神さまが私に「お与えになった杯」は何だろうかと考えます。神さまの愛を思い返します。それによって、自分は確かに神さまの愛の中を生きていると、生かされていると思い起こし、慰(なぐさ)められ、励(はげ)まされて、生きる勇気を取り戻す。今、自分が遣わされ、置かれた人生を引き受けて生きて行こうと思い直す。そのように、神さまを捜し当てるというのは、1回きりの最初の決心を言うのではなく、まさに人生を懸(か)けた修業の旅であり、最後まで捜し続けるのだと思います。
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 「だれを捜しているのか」。主イエスのこの問いかけから、私は、『ハイデルベルク信仰問答』の第一の問いとその答えを思い起こしました。これは、宗教改革の時代、1563年に、ドイツで書かれた信仰問答書(しんこうもんどうしょ)です。その第一の問いと答えは、こうです。


問 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。


 神さまを捜し当てるとは、ここで言われている神の慰めを捜し当てることだと思うのです。そして、その慰めとは、“わたしが‥‥神のものであること”だと言うのです。
 私たちは当然のことながら、自分で考え、判断し、努力して生きています。だから、無意識のうちに命は“わたしのもの”という思いになり、その生き方は常に“私が、私が”という意識になります。けれども、その命は、私(たち)のものではなく、神さまに与えられ、神さまに召されるものです。そのことに気づかず、“わたしのもの”だと思っていると、思いがけない出来事に出くわした時、“こんなはずではなかった”と絶望してしまいます。そうでない時でも、自己中心的になり、“自分の力だ”と思い上がったり、“自分の力ではダメだ”といった焦(あせ)りやあきらめを生みます。
 それが、私は主イエス・キリストの命によって贖われ、神さまに愛されて、神さまのもの、主イエス・キリストのものにされたのだと信じる時、“神さまに、主イエスにおゆだねすればよいのだ”という思いが生まれ、肩の力が抜け、余裕が生まれ、平安な気持へと変えられます。それは、“自分が生きている”という思いから、“神さまの愛とご計画の中に生かされている”という信仰への転換です。それが、「父がおあたえになった杯」を飲むということにほかなりません。この信仰によって、私たちは、人生の不安、虚しさ、迷いの中で、慰めを与えられ、神さまの御言葉に従って生きていこうとする勇気が生まれるのです。
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 坂戸いずみ教会に、1992年の創設の時から関わって来られたY.Mさんが、昨日の夕方、天に召されました。外看板の言葉を、書道で書き続けてくださった方です。2年ほど前から癌を患(わずら)われました。様々な治療を続けて来られましたが、遂に治療する術(すべ)がなくなり、1月からシャローム鋤柄(すきがら)病院(東松山市)で、ターミナル・ケアを受けて来られました。“この病院はとても良い病院です。最後にこの病院と出会えてよかった”と言われる米田さんの表情は明るく、気持は穏やかでした。覚悟をされた後、きっと、“自分が生きている”という思いから、“神さまに生かされている”という信仰へと変えられ、平安を与えられたのだと思います。捜し当てたのだと思います。
 「だれを捜しているのか」。私たちも常に問われています。信頼するに足る神さまと主イエス・キリストを、神の愛の中で生かされている平安を、捜し続けて歩みましょう。

 

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