坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝説教      「善を行って苦しみを受ける」

ヨハネによる福音書18章12~14/19~24節
説教者 山岡創牧師

◆イエス、大祭司のもとに連行される
18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
◆大祭司、イエスを尋問する
18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。


                                   「善を行って苦しみを受ける」
 エルサレムの郊外、キドロンの谷の向こうにあるゲッセマネの園(その)で、主イエスは捕らえられました。やって来た兵士や下役たちに対して、弟子たちは逃げ去ったり、ペトロのように抵抗しようとした者もいたようです。けれども、主イエスは「剣(つるぎ)をさやに納めなさい。父がお与えになった杯(さかずき)は飲むべきではないか」(11節)とペトロを諭(さと)され、そのまま兵士と下役たちに捕らえられました。祭司長やファリサイ派の人々に捕らえられ、十字架で処刑されることを、主イエスは「父がお与えになった杯」(11節)だと、つまり父なる神さまが主イエスの人生に計画された道だと信じたからです。
 旧約聖書・イザヤ書52章13節から53章にかけて、〈主の僕(しもべ)の苦難と死〉という不思議な預言があります。罪を犯さず、偽(いつわ)りも言わない一人の人が、人々から蔑(さぐす)まれ、見捨てられ、殺されます。しかし、それは彼らが知らないうちに、この人が彼らの罪を負い、その罪を償(つぐな)うために自分の命を献(ささ)げる生き方だった、という預言です。主イエスは、福音書(ひくいんしょ)の中のエピソードから推測するに、旧約聖書を、特にイザヤ書や詩編を深く読んで、黙想しておられたと思われます。旧約聖書の御言葉(みことば)と預言が、ご自分の人生とどのように関係しているのか、考え、適用しておられたと思われます。だから、ご自分が捕らえられ、十字架に架(か)けられることは、このイザヤ書の主の僕の預言が、ご自分の人生において実現することだと、つまりその預言が、父なる神さまがご自分に「お与えになった杯」だと信じておられたのでしょう。
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 不思議なことは、大祭司カイアファが事前に、「一人の人間が民(たみ)の代わりに死ぬ方が好都合だ」(14節)と語っていたことです。その言葉は、ヨハネによる福音書11章50節に記されていますが、ユダヤ人の最高法院の会議において、カイアファが「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」と発言したことを指(さ)しています。これはもちろん、主イエスが父なる神のご計画に沿(そ)って、すべての人々の罪を償い、罪による滅びから救う、と信仰的な意味で言ったのではありません。
 当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は常に、支配しているユダヤ人が反乱を起こさないかと目を光らせています。だから、このまま主イエスを放っておくと、多くのユダヤ人が主イエスに従い、それが反乱だと見なされるかも知れない。下手(へた)をすれば自分たちユダヤ人が完全に、ローマ帝国に滅ぼされてしまうかも知れない。そうなる前に、主イエス一人を捕らえ、冒瀆罪(ぼうとくざい)の罪を着せ、犠牲にしよう。そうすれば、ユダヤ人は滅ぼされないで済む、とカイアファは言ったのです。
 けれども、福音書を描(えが)いたヨハネは、そのカイアファの発言でさえも、自分では知らないうちに、神のご計画を預言し、そうなるように知らず知らず動いていたと見なしているのです。カイアファだけではありません。主イエスを捕らえた兵士や下役たちも、カイアファの尋問(じんもん)に対して毅然(きぜん)とした態度で語る主イエスも、その発言に腹を立てて主イエスを平手で打った下役(したやく)の一人も、自分では知らないうちに、意図(いと)せずに、神さまのご計画が実現するように動いている、生きていると、ヨハネは考えているのです。
 そのようなヨハネの信仰に、ピッタリのたとえ話が『西遊記(さいゆうき)』という物語の中にあります。三蔵法師(さんぞうほうし)という僧侶が、仏教の経文(きょうもん)をいただくために、中国からインドまで旅をする冒険物語です。そのお供に、孫悟空(そんごくう)という猿が登場します。不老不死(ふろうふし)で、仙人の術を使い、天上でも地上でも大暴れします。困った天界の帝(みかど)は、どうしたらいいかお釈迦(しゃか)さまに相談します。すると、お釈迦さまは孫悟空に“その觔斗雲(きんとうん)で、わたしの右の手のひらから飛び出して見せてくれたら、あなたを天界の神の座に据えてあげましょう”と勝負を持ちかけます。“そんなこと、わけもない”と孫悟空は、觔斗雲でビュンビュンと遠くまで飛んで行きます。やがて山が見えてきました。ここまで来れば、釈迦の手のひらなど、とっくに飛び出しているだろう、その証拠を残しておこうと、孫悟空はその山に自分の名前を書き、おしっこをひっかけて来ます。そして戻って来て、どんなもんだ!と孫悟空が威張(いば)ると、お釈迦さまは自分の指を見せました。そこには孫悟空の名前とおしっこをかけた跡がありました。つまり、孫悟空が地の果ての山と思ったのは、実はお釈迦さまの指だったのです。孫悟空は、お釈迦さまのてのひらの上を飛び回っていただけだった、という話です。
 人は自分の意思で飛び回っています。自分で考え、判断し、努力し、うまく行ったり失敗したりしながら生きています。けれども、それはすべて、神さまの手の中の出来事だということです。神さまの御心(みこころ)とそのご計画というものは、神さまが人をロボットのように意のままに操縦して実現するのではないと私は思います。私たちは、自分の意思で、自分の努力で生きている。けれども、私たちがどのように生きようと、神さまはご自分の手の中で、私たちの意思と行動を生かし、つなげて、ご自分の御心と計画を実現されるのだと思います。
 しかも、当座(とうざ)、私たちは神さまの計画に気づきません。孫悟空が觔斗雲で飛び回っている時には気づかなかったように、事が終わって、後になって振り返った時に、自分の人生は神さまの手の上の出来事だったと、神さまのご計画だったのだと気づくのです。自分の人生をそのように受け止めるかどうか、信じるかどうか。気づいて、信じることが、すなわち「父がお与えになった杯」を「飲む」ということにほかなりません。
 主イエスは、そのように、ご自分の生きる道を、神さまのご計画の中にあることと、神さまの手の上にあることと信じて行動しています。そう確信するのが、私たちよりもダントツに早い。私たちは大抵、後になって受け止められるかどうかです。
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 ともかく、捕らえられ、大祭司の前に連れて行かれ、尋問された時、主イエスは毅然として、「わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」(21節)とお答えになりました。主イエスの言葉を証(あか)しし、伝えるのは、それを聞いた人の役目です。そしてそれは、現代においては私たちクリスチャンの役目であり、教会の使命だということです。
 先日、早朝、高麗川の土手を散歩していましたら、顔見知りの男性から声をかけられました。“以前にコインランドリーのそばで体操しているのを見かけたことがあるが‥”と言われたので、“実は、その前にある教会の牧師をしております”と答えました。そうしたら、その方は、ホーリネス教団の坂戸キリスト教会の牧師であるG先生と同級生だったということで話が弾(はず)みました。
 なかなかイエス様の御言葉まで人に話すことはできませんが、そんなふうに何かの話のきっかけで、自分は主イエス・キリストを信じるクリスチャンであるということを話せればと思います。最近、土手を走るよりも歩くことの方が多いのですが、歩いていると、割と多くの人から声をかけられます。この教会に来ている方の知り合いです、というご婦人の方も何人かいました。さすがに28年近く坂戸で牧師をしていると、結構多くの人に知られています。“悪いことはできないなぁ”と思います。直接、聖書の教えを伝えることができなくても、挨拶(あいさつ)の一つが、話している時の雰囲気や態度が、普段の行動が、自(おの)ずと証しになるのです。私たちが日曜日、礼拝のためにここに集まっている姿も、きっと多くの人が見ています。それは教会としての一つの証しです。
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 主イエスから聞いたことを態度で、行動で証しするという点で、今日の聖書箇所から思うことがあります。それは、主イエスを打った下役の一人に対して主イエスが、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(23節)と言われた御言葉について、です。
 正しいことをしているのに打たれるとしたら、それは理不尽なことです。我慢ならないことです。けれども、主イエスは毅然とした発言をし、態度は取られても、相手を打ち返すことはしませんでした。ある意味で打たれるままに、裁かれ、十字架へとお付きになりました。正しいことをして打たれる。これは主イエスの宿命であり、主イエスに従う私たちの宿命かも知れません。飲むべき杯なのかも知れません。
 坂戸いずみ教会は、これこそ主イエスの最も大切な教えとして、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というヨハネによる福音書13章34節の御言葉を掲(かか)げています。教会の中で様々な機会に皆さんと御言葉の分かち合いをしますが、その際、次のようなことを聞かれることがあります。“「互いに愛し合いなさい」と教えられているが、相手がこちらを愛そうとしない人だったら、どうすればよいのか?”。おそらくそういった経験を、皆さん、この世においてされているのでしょう。今日の聖書の言葉を借りて言えば、相手がこちらを打って来るような人だったら、どうすればよいのか、ということです。そういう思いの裏には、相手がこちらを愛そうとしないのに、自分だけが一方的に相手を愛するとしたら、それは損ではないか、割に合わないではないか、という気持がどこかにあるのだと思います。その気持が分からないわけではありません。けれども、私たちが、「互いに愛し合いなさい」との主イエスの教えに従って生きようとするのは、損得の問題、損得の計算からではありません。そうすることが、人間としてあるべき、本来の生き方だから、それに従おうとするのです。
 愛するということは Give and take ではありません。見返りがあるとは限らない。自分が相手を愛しても、相手がこちらを愛するとは限らない。正しいことをしても、打たれることがあるのです。それでも愛そうとするのが愛でしょう。まず自分から始めるのが愛でしょう。愛は Give and give です。苦しい道ですが、もしお互いにそれができたら、どんなに大きな喜びがあることか。それが主イエスの道であり、御心です。
 相手がこちらを愛そうとせず、自分勝手な人、意地悪をするような人であるならば、無理に関(かか)わろうとせず、距離を取るのも一つの方法でしょう。腹は立つかも知れません。でも、仕返しはしない。人前でその人の悪口を言わない。できたら、その人を心の中でゆるす。距離を取っていても、その人が困っていることに気づいたら、できたら助けの手を差し伸べる。仲良しになれなくても、愛することはできます。いや、主イエスの十字架を思うことなしに、祈ることなしに、この道は歩けませんね。
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 主イエスが捕らえられた時、主イエスを見捨てたペトロが、後にペトロの手紙(一)の中で、教会のクリスチャンたちに、こう書き送っています。
「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉(ほま)れになるでしょう。しかし、善(ぜん)を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適(かな)うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」(ペトロの手紙[一]2章20~21節)。
 主イエスは十字架に架けられるまで人を愛し抜かれました。ご自分に悪意を向ける人々を、見捨てて逃げる弟子たちを愛されました。彼らと50歩100歩の私たちのことも赦(ゆる)し、愛しておられます。その愛を信じるから、私たちも、互いに愛し合います。相手がこちらを愛さない人でも、打って来るような人でも愛します。善を行います。それが、主イエスの言葉を聞いた者がなす証しであり、「父がお与えになった杯」を飲むということです。善がそこにあります。愛がそこにあります。苦しい、悔(くや)しい。そう思うこともあるでしょう。それでも、私たちは召された者として、神の御心に適う道を、祈りながら進んで行けたら、どんなに幸いでしょうか。

 

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