坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年3月15日 受難節第3主日礼拝説教     「主に従うことは」

ルカによる福音書 9章21-24節
説教者:野澤幸宏牧師


◆イエス、死と復活を予告する

9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

            「主に従うことは」
主に従うことは、なんと難(むずか)しいこと、厳(きび)しいことと思わされます。
主イエスは、エルサレムに入られる以前に、3回、ご自身の受難(じゅなん)と復活について予告しておられますが、今日のみ言葉はそのうちの1回目です。主イエスのもとに集(つど)っていた人々は、主イエスの事を、創造主(そうぞうしゅ)なる神さまの御許(みもと)から遣(つか)わされた偉大な人物であり、特別な霊と力とを持っていると理解していました。それは確かにその通りです。しかしそこに、自分たちの希望を重ねていたのです。病気で自分や家族が苦しんでいた人は、その癒(いや)しを求めました。そしてその期待は次第に、ローマ帝国の支配下にある自分たちユダヤ民族を、その支配から解放する政治的な王としての期待をも含んでくるようになります。実際、当時のユダヤ民族にとって、彼らの聖書である旧約聖書に記(しる)される救い主の預言(よげん)は、そのように理解されていたようです。ですから、そのような期待が生まれてくるのもやむを得ないでしょう。しかし主イエスは彼らが期待していたような救い主ではなく、人間の理解を超えた仕方で人間を救う神さまご自身であったのです。それは、ご自身の苦しみと死によって人々を救うという方法です。その衝撃的な事実が主イエスご自身の口から初めて告げられたのが、今日のみ言葉です。
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 この直前、弟子のペトロが主イエスを「神からのメシアです」と告白しています。メシアとはヘブライ語で「油注(そそ)がれた者」という意味で、王や祭司(さいし)がその役割に就任(しゅうにん)する時に香油(こうゆ)を注がれた祭儀(さいぎ)を背景にしています。これは次第に神の前に正しい治政(ちせい)を行う理想的な王さまを示すようになり、更に神さまのご計画による決定的な救いをもたらす「救い主(ぬし)」という意味で使われるようになります。これがギリシャ語に訳されたのが「キリスト」という言葉です。「イエス・キリスト」と言ったとき、例えばドナルド・トランプの「トランプ」のようなファミリーネームではなく、一種の称号(しょうごう)であり、それだけで「イエスはキリストである」と告白していることになるのです。つまり今日のみ言葉の直前でペトロがそうしているのと同じく救い主であると告白していることになるのです。ペトロのこの告白は、主イエスを政治的な王ではなく、神が世の終わりに遣わすと約束した究極の救済者(きゅうさいしゃ)であると理解しているものだったのです。ペトロを筆頭(ひっとう)とする弟子たちは、主イエスがここまでなさってきた活動を間近で見てきました。それは、神の国の到来(とうらい)を告げ、神さまがわたしたち人間を救おうとしてくださっているご意志を明らかにし、奇跡的な御業(みわざ)によってそのことを証明して来られたというものでした。ペトロはそのような主イエスの間近にいたことによって、この方こそ神さまが約束しておられた救い主であると信じることができたのです。その言葉を聞いて、主イエスはご自身の本当の使命を人々に告げることを決意されたのでしょう。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法(りっぽう)学者たちから排斥(はいせき)されて殺され、三日目に復活することになっている」と告げられます。ここまでなさってきた活動は、神さまの救いのご計画の半分に過ぎないのです。残りの半分は、苦しみと死によってでしか人を救うことは出来ないと言うのです。神さまのご計画は常にわたしたち人間の希望通りにはいかないものなのです。
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 しかもその死は、十字架にかけられて死ぬことだと言います。現代の教会に集うわたしたちにとっては、キリスト教の象徴(しょうちょう)、教会の象徴ですが、当時、十字架刑とは、ローマ帝国で、重い罪を犯した奴隷か、属州(ぞくしゅう)の中でローマに対して反逆を企(くわだ)てる者に対してのみ行われていた処刑法でした。それは最もむごたらしく、最も忌(い)み嫌われ、屈辱的な死に方とされていました。平たく言えば、誰もが絶対に避(さ)けて通りたい道だったということです。主イエスご自身も、その苦しみが間近に迫ったゲッセマネの園(その)の祈りの中で、その苦しみを杯(さかずき)にたとえて「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っておられます。神のみ子である主イエスにとってさえ、それだけ避けたいものだったのです。しかし、その苦しみをもってしなければ、神さまとわたしたち人間の関係性は正しいあり方に回復することが出来ないのです。
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 主イエスは、そのご自身の先に待ち受けている定めを踏まえた上で、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えます。それほどまでに、主イエスに従うことは苦しいことなのでしょうか。誰もが避けたいような苦しみの道を通らなければ、わたしたちは救われることはできないのでしょうか。そうではない、と思います。もしそうなのだとすれば、主イエスが犠牲となってくださったことが無駄になってしまいます。わたしたち求められているのは、主イエスと同じことをすることではなく、「日々、自分の十字架を背負」うことです。福音書(ふくいんしょ)を記したルカは、同じ物語を伝えるマタイとマルコの福音書にはない言葉をここに入れ込んでいます。それがこの疑問を解き明かすヒントになります。その言葉は「日々(ひび)」という言葉です。
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 日々、ということは毎日、ということです。当然ながら毎日死ぬことは出来ませんので、自分の十字架を背負うとは文字通りに解釈されるものではないことが分かります。わたしたちが日常の中で、十字架を背負いなさいというのです。その後の主イエスの言葉の中に「自分の命」という言葉が出てきます。ここで「命」と訳されている言葉は、「魂(たましい)」とも「自己(じこ)」とも訳しえる単語です。また、先ほどの言葉の中に出てきた「自分を捨て」は直訳すると「自分自身を否定し」となります。つまり主イエスは、この教えを通してわたしたちの自己中心的なあり方を戒(いまし)めておられるのです。それを日常生活の中で心得(こころえ)なさい、と教えておられるのです。それは、普段の当たり前の身近な人間関係の中で、愛をもって相手を受け容れることです。自分の意見を語ることも必要なことですが、それが自分のわがまま、自己中心的な視点に基(もと)づくものでないかを吟味(ぎんみ)して、我(が)を通さないようにしたいと願います。時にはそのような自分の主張を十字架にかけて殺すのです。そのような“小さな死”を積み重ねる生活が、「日々、自分の十字架を背負って」歩む生活です。それが、わたしたち弱い人間が、主イエスの大いなる自己犠牲に倣(なら)って生きること、主に従って生きるということです。
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 そして、お互いにそのような自己中心ではなく相手を尊重する生き方に日々変えられていく時、そこにはあるべき人間関係が回復されます。それは、神さまが世界を創造された時の、まだ人間の罪が入り込む前の、互いにあるがままに受け容(い)れあう世界です。そのような関係性には、互いに感謝が生まれます。感謝しあえる関係性はうれしいものです。今日のみ言葉が示された時に、「主に従うことは、なんとうれしいこと」と歌う讃美歌507番の歌詞が頭に浮かびました。はじめは、今日のみ言葉が告げる苦しみの内容と、この讃美歌が歌う内容が結びつかないように感じていました。しかし、何度も繰り返しみ言葉に聴(き)き、黙想(もくそう)していくうちに、まさに今日のみ言葉にこそこの賛美が相応(ふさわ)しいと思わされるようになってきました。わたしたちがとらわれている「自分自身」から解(と)き放ってくださるために、主イエスはその命を犠牲にしてくださったのです。しかも、そこからよみがえられたのです。「三日目に復活することになっている」との言葉は、確定した未来を表す表現で記されています。初めから定められていた神さまの救いのご計画なのです。そこにお委(ゆだ)ねして歩むことは、「なんとうれしいこと」でしょうか。主イエスの苦しみを一年間で最も覚(おぼ)えるべき時とされている今の時期、受難節(じゅなんせつ)レントの時期だからこそ、その苦難がもたらしてくださった喜びをも覚えていきたいと思います。
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 レントの日々に求められる生活は、信仰生活の基本に向き合う事でもあります。日々、み言葉に聴き、祈ることによって、自分の罪深さ、至らなさ、歯がゆさに日々気付かされてます。しかし、み言葉に聴いていくと、それ以上に、そんな自分のために、神のひとり子(ご)である主イエス・キリストが十字架で死んでくださったこと、代わり身となってくださったこと、犠牲のささげものとなってくださったことを知らしめられていきます。その時こそ、この“出来ない自分”は気持ちが軽くされていきます。繰り返しになってしまいますが、神さまに委ねることで、「自分が」と思っていたこの世の課題から解き放たれるのです。そしてやはり、「主に従うことは、なんとうれしいこと」という想いに至ることが出来るのではないかと思います。日々、十字架を背負って、とは、そのような良き音連(おとず)れをもたらしてくれる、日々聖書と向き合う生活、祈る生活です。

 

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